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朝の光に頬を照らされて、眠りから覚めたらしい。
身体の芯が冷えていて、凍るような寒さだった。
山里の朝とはこんなに冷えるものかと思いながら、薄い布団から這い出た。
着替えもせず、釣り服のまま寝てたところをみると、どうやら年齢を取られず、帰って来たらしい。
山の新鮮な空気を吸いながら、安堵した気持ちになった。
「ふーっ、空気が旨い」
昨夜のことが頭に浮かんだ。
夢を見ていたような気もするが、確かに僕は、五十六才だ。
ただ、この一年間、二十六才で生きてきた記憶もある。
――まさか?
いきなり、お伽話の『浦島太郎』の話が浮かんだ。
もしかして、また、五十六才に戻ったのではないかと思い、洗面所に急いだ。鏡に映る顔は、明らかに二十六才の自分だった。
だとすると、月明かりでのことは事実ということになる。
沼のぬし『白銀の鯉』の化身、銀色の髪の少女は、僕の年齢を取らずに帰してくれたんだ。
じゃあ、彼女はどうなったんだろ?
どうしても、三十年の年齢がいるとか言っていたけど、大丈夫だったんだろうか?
すでに、寿命が尽きて、死んでしまったとか。
それじゃ、『白銀の鯉』伝説が終わってしまうじゃないか。僕のせいで……。
大変なことになったという罪悪感が僕を包んだ。
けど、僕を助けてくれたのは事実だし、彼女の行為に感謝すべきじゃないの。
そうだよね、感謝すべきだ。
「お客さん、お目覚めかね」
民宿の主人に背後から声をかけられた。
振り返って主人の顔を見て驚いた。
すごく若返っていた。
老人だったはずが、今は四十代ぐらいか、頭髪に白髪はなかった。
そういうことだったのか。
すぐに理解した。
――僕の代わりに年齢を渡したのだ。
おかげで、僕は救われたんだ。
「ご主人が、僕をここへ運んでくれたんですか?」
「ああ、あのままにはしておけんでのお」
「ありがとうございます。おかげで死なずに済みました」
年齢を取られず済んだことも含めて、頭を下げた。
「なあに、わしは若くなったんで、めでたしじゃ」
「ご存じだったんですか? 『白銀の鯉』伝説は沼のぬしを延命させるためのものだったことを」
「昔から言い伝えはあったんじゃ。しかしのお、若返った者など見たことないし、この村にも一人もいんかったわい。そやから、誰も信じてはいなかった」
「知れたら騒がしくなりますよ」
「そうじゃろな。髪を白く染めて、爺の振りでもして誤魔化そうかいな。村の衆に知れる前になあ」
「僕も何も言いませんよ」
「あんたのことも黙っておくわい」
「知ってたんですか?」
「知ってるも何も、あんた去年もここへ泊ったじゃろ」
「そうだったんですか。ここへ泊ってたんですか。覚えてないんです」
ホントのことだった。この民宿のことは一切記憶になかった。
「そうなのかい。わしは、何もかも覚えておるぞ」
「人によって、違うのですね」
「そうかもしれんのお」
民宿の主人は、満面の笑みを浮かべた。
その笑いは年寄りに近いものだった。
あれから、一か月が過ぎた。
若返りをもたらす『白銀の鯉』伝説のことは、ニュースはおろかネットにすら流れてはいない。民宿の主人の爺さん変装は、バレないようにうまくやっているみたいだ。
沼のぬし『白銀の鯉』伝説の方は釣り好きの間で話題だが、釣り上げたという者はまだ一人もいない。
もし、来年の満月の時、釣り人が銀色の髪の少女に出会うことが会ったとしても、若返るのかどうかはわからない。
でも、もしかして、そこに僕が現れたとしたら、それはきっと、彼女に召喚されたに他ならないだろう。
そういう予感はないわけではないのだから――。
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