白銀の鯉

2/2
前へ
/2ページ
次へ
 朝の光に頬を照らされて、眠りから覚めたらしい。  身体の芯が冷えていて、凍るような寒さだった。  山里の朝とはこんなに冷えるものかと思いながら、薄い布団から這い出た。  着替えもせず、釣り服のまま寝てたところをみると、どうやら年齢を取られず、帰って来たらしい。  山の新鮮な空気を吸いながら、安堵した気持ちになった。 「ふーっ、空気が旨い」  昨夜のことが頭に浮かんだ。  夢を見ていたような気もするが、確かに僕は、五十六才だ。  ただ、この一年間、二十六才で生きてきた記憶もある。    ――まさか?  いきなり、お伽話の『浦島太郎』の話が浮かんだ。  もしかして、また、五十六才に戻ったのではないかと思い、洗面所に急いだ。鏡に映る顔は、明らかに二十六才の自分だった。  だとすると、月明かりでのことは事実ということになる。  沼のぬし『白銀の鯉』の化身、銀色の髪の少女は、僕の年齢を取らずに帰してくれたんだ。  じゃあ、彼女はどうなったんだろ?  どうしても、三十年の年齢がいるとか言っていたけど、大丈夫だったんだろうか?  すでに、寿命が尽きて、死んでしまったとか。  それじゃ、『白銀の鯉』伝説が終わってしまうじゃないか。僕のせいで……。  大変なことになったという罪悪感が僕を包んだ。  けど、僕を助けてくれたのは事実だし、彼女の行為に感謝すべきじゃないの。  そうだよね、感謝すべきだ。 「お客さん、お目覚めかね」  民宿の主人に背後から声をかけられた。  振り返って主人の顔を見て驚いた。  すごく若返っていた。  老人だったはずが、今は四十代ぐらいか、頭髪に白髪はなかった。  そういうことだったのか。  すぐに理解した。  ――僕の代わりに年齢を渡したのだ。  おかげで、僕は救われたんだ。 「ご主人が、僕をここへ運んでくれたんですか?」 「ああ、あのままにはしておけんでのお」 「ありがとうございます。おかげで死なずに済みました」  年齢を取られず済んだことも含めて、頭を下げた。 「なあに、わしは若くなったんで、めでたしじゃ」 「ご存じだったんですか? 『白銀の鯉』伝説は沼のぬしを延命させるためのものだったことを」 「昔から言い伝えはあったんじゃ。しかしのお、若返った者など見たことないし、この村にも一人もいんかったわい。そやから、誰も信じてはいなかった」 「知れたら騒がしくなりますよ」 「そうじゃろな。髪を白く染めて、爺の振りでもして誤魔化そうかいな。村の衆に知れる前になあ」 「僕も何も言いませんよ」 「あんたのことも黙っておくわい」 「知ってたんですか?」 「知ってるも何も、あんた去年もここへ泊ったじゃろ」 「そうだったんですか。ここへ泊ってたんですか。覚えてないんです」  ホントのことだった。この民宿のことは一切記憶になかった。 「そうなのかい。わしは、何もかも覚えておるぞ」 「人によって、違うのですね」 「そうかもしれんのお」  民宿の主人は、満面の笑みを浮かべた。  その笑いは年寄りに近いものだった。  あれから、一か月が過ぎた。  若返りをもたらす『白銀の鯉』伝説のことは、ニュースはおろかネットにすら流れてはいない。民宿の主人の爺さん変装は、バレないようにうまくやっているみたいだ。  沼のぬし『白銀の鯉』伝説の方は釣り好きの間で話題だが、釣り上げたという者はまだ一人もいない。  もし、来年の満月の時、釣り人が銀色の髪の少女に出会うことが会ったとしても、若返るのかどうかはわからない。  でも、もしかして、そこに僕が現れたとしたら、それはきっと、彼女に召喚されたに他ならないだろう。  そういう予感はないわけではないのだから――。
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!

6人が本棚に入れています
本棚に追加