悲しき人魚

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「ちょっと散歩してきます。」 民宿を切り盛りする50歳ぐらいのお姉さんに声を掛けて外へ出た。 夕食を頂いて、まだ寝るには早いからと、少し歩いてみたい気になったのだけれど、田舎の夜は、想像以上に暗かった。 海水浴場もある海沿いの街なのだけれど、山陰本線のとあるホームに降りたのは、僕だけだった。 どうして、そんな場所にいるのかというと、昨年の夏に彼女と来た海だからだ。 もう別れて、半年経つけれども、まだ彼女の事を引きずっている僕の魂がいる。 その魂は、どうにも彼女に対する執着を、今日までも、ぬくぬくと育てて来たのである。 とはいうものの、そんなに引きずっていても、彼女はもう別の男と付き合っているらしい。 「あーっ、もう僕の事なんて忘れてるんだろうな。」と、頭をかきむしって吐き出すように叫んだ。 もう忘れよう。 いや、忘れたかった。 「よし。再スタートだ。」と、これで彼女への思いも、最後にするつもりで、思いっきり女々しく思い出の地にやってきたのである。 民宿から、緩やかな下り道を海に向かって歩く。 ポツリポツリと続く街頭から垂れ下がった1本のクモの巣が、僕の額にペタリと引っかかって、「ぎゃ。」と、小さな声を漏らしてしまう。 慌てて、両手でクモが、服に付いてるんじゃないかと、バタバタと払ったが、何もいなかった。 始めは、暗いなと思った道だったが、目が慣れてくると、赤くひっそりと道を照らす街灯も、意外と役に立つことに気が付く。 細い道を抜けると、海岸に出た。 有名な白い砂のビーチの駅から数駅しか離れていないのに、このあたりの海は、若者から取り残されたように、誰もいない。 空を見上げると、無数の星が、煌めきもせずに静止している。 ただ、月だけは、異様に明るい。 そんな月明かりの下でも、僕のいる黒い砂の浜辺は、月の光も、弱弱しかった。 そんな砂浜に腰を下ろして、波の音を聞いている。 目の前にある海は、黒々と果てしなく、ちょっとしたキッカケで、魔界へとつながる歪んだ空間に変わりそうで、穏やかではあるが、心底、恐ろしい気持ちで、座っていた。 ふと首の後ろ辺りを、生暖かいものが触れたような気がして、振り返ってみたが、何もない。 すると、今度は、振り返った僕の身体の正面に、何かいる気配がしたと思って、とっさに前を向いたが、やはり何もいない。 首筋と両手に鳥肌が立っていた。 僕は、漠然とした恐怖に、彼女のことなど、もうどうでもよかった。 目の前から、波の音が聞こえてくる。 もし、僕が今、死んだとしても、明日の朝には、ここに僕の死体はないだろうなと考えていた。 海の暗闇から、何者かがやってきて、僕の死体を、光の無い魔界へと持ち去ってしまうに違いないのである。 その魔界とは、どんなところなのだろう。 死後の世界なのか。 それなら、僕は死にたくないと思った。 死んだ後の向こう側には、暗闇と恐怖しかないような気がしたからだ。 それにしても、さっきの鳥肌がいつまでたっても、治らない。 掌の汗で貼りついた砂を払う。 その両手を叩いた音が想像以上に大きかったので、僕自身がビクッとした。 どこからか潮の匂いに混じって、花の香りが漂っていることに気が付いた。 とはいうものの、近くに花なんて咲いていない。 ただ、その花の香りが、僕の恐怖心を、少しだけ解してくれる。 さて、引き返すとするかと立ち上がったら、海に白いものが動いているのが見える。 黒く黒い海に、月明かりに照らされて、白く光るものが海で動いているのだ。 よく見ると女性ではないか。 柔らかい砂の感触を感じながら、ゆっくりと波打ち際まで歩いて行った。 これは、現実なのだろうか。 ただ、目の前にいる女性を見ていた。 18歳ぐらいの少女は、全裸で泳いでいる。 その白い肉体が、黒い海に消えたかと思うと、プッカリと水面に浮きあがる。 ある時は、あおむけに膨らんだ胸を海面に漂わせ。 ある時は、お尻をクルリと回転させて、黒い海に潜る。 細くて折れそうな腕を、空に高々と差し伸ばしたかと思うと、海水をかき分けて泳ぐ。 黒い海に、月明かりの下の、白い肉体が、何の恐れもなく泳ぐ姿は、どうにも美しかった。 僕は、しばらく、と言っても、2、3分の事だろうけれど、その姿を立ったまま見ていた。 どうして彼女は、この黒い海で泳いでいるのだ。 しかも、全裸である。 それよりも、この黒い海に入っていることに恐怖を感じないのだろうか。 そんなことを考えると、前の前にいる彼女が、本当に現実世界の物なのだろうかと不思議な気持ちになってくる。 或いは、人間なのだろうか。 それにしても、美しい。 月明かりの下の白い肉体が、これほどまでに美しいとは考えてもいなかった。 それに、どうにも、艶めかしい。 海水に濡れた肌が、月の光に照らされて、皮膚を生々しく光っている。 現実離れした白い肉体も、血潮の流れる生命であることを、教えてくれる。 抱きしめたら、しっかりと骨を感じる肉体なのである。 そんな僕に、気が付いて、彼女は泳ぐのをやめて僕を見た。 そして、大きな声で叫んだ。 「ねえ、あたしを食べたいと思ってるんでしょ。」 そう言って、背泳ぎになって、真っすぐな細い脚を空に向かって高々と蹴り上げた。 食べたいというのは、どういう意味だ。 この状況なら、抱きたいということなのだろうか。 僕は、その状況を理解できずに、返事をしなかった。 「ねえ、あたしを食べるときは、焼いて食べるの?それとも、生で食べるの?」 彼女自身が、愉快だと思っているような笑い声で、僕に続けて聞いてくる。 「食べるって、君を食べるの?」 そう言うのがやっとだった。 「食べたいんでしょ。でも、それなら生で食べなきゃ、意味ないよ。」 そう言いながらも、ダンスをしているかのように、手を振ったり、足を上げたりしながら、泳いでいる。 「生は、いやだなあ。それに、食べたら、君が死んじゃうじゃない。」 冗談のつもりで、そう返した。 「そうだよね。あたしも、まだ死にたくないから、ちょっとだけ、肉をかじらせてあげる。どう、お腹のあたりの肉でいい?ちょっと、最近太り気味だもん。」 「そこは、肉じゃないだろう。脂肪だろ。」 「あはは、そうだよ。でも、脂肪でも美味しいよ。それじゃ、血だけでも、飲んじゃう?」 「それは、生臭そうだから、やめとくよ。」 彼女は、うれしそうに僕を見ていた。 「ねえ、一緒に、泳がない?」 こんな展開があってもよいものだろうか。 全裸の女の子と泳ぐなんてことは、映画の世界でしか成立しない話だ。 でも、今目の前には、現実に女の子が泳いでいる。 僕は、服を脱ぎすてて海に入って行った。 海面が、膝の上ぐらいのところまで入って行ったら、急に足が止まった。 黒い海への恐怖が、足を止めたのである。 海に浸かった、その膝の下は、黒い液体で、もう見えない。 見えないと言う事は、存在しているかどうか、確認も出来ないという訳だ。 このまま、彼女のいる場所まで行ったら、僕の身体の60パーセントは、黒い海に沈むことになる。 何が潜んでいるかもしれない、この暗闇に、身体を浸すなんて、無理だ。 すると、彼女が、「まだなの。」と、笑いながら僕に話しかけてくる。 解っているんだ。行くよ、行きたいよ。 でも、この黒い海は、僕には無理だ。 怖くて、怖くて仕方がない。 しばらく、そうやって、立ち止まっていたら、彼女が言った。 「もう、来ないんだったら、あたし先に帰るね。」 勢いよく頭から海に潜ったら、彼女の姿は、もう見えなくなった。 どこへ行ったのだろう。 そう思った瞬間、月が雲で覆われて、あたりの月明かりで照らされて、ようやくのこと確保されていた視界が、真っ暗に変わった。 黒い海に、暗い空間。 僕は、叫びそうになる声も、それさえも出すことが出来ないぐらいに怖くなって、必死に服を脱いだところまで、走って戻った。 振り返ると、そこに彼女はいない。 溺れた? いや、波は穏やかだし、彼女は、泳ぎは得意にみえた。 それに、帰ると言ったじゃないか。 そう理由を付けて、溺れたという可能性を否定した。 というよりも、今あったことは、現実だったのだろうか。 そして、彼女は、本当に存在していたのだろうか。 黒い海に、一瞬開かれた魔界の入口から、現れて、そして、去っていった、異次元の女の子であったのではないだろうか。 急いで、服を着て、民宿へ戻った。 その夜は、エアコンも付けてはいたが、どうにも寝苦しいい夜であった。 次の日の朝、僕は、砂浜に行ってみた。 そこに太陽の光が、燦燦と降り注いでいたが、目の前の浅瀬から始まって、深く深く沈んでいく海底の深さを考えると、昨夜ほどでは無いにしても、まだ怖かった。 あたりを見回したが、事件が起きた様子はない。 ということは、彼女が溺れたということもなさそうだ。 というか、昨夜の少女は、現実にいたのだろうか。 昨夜の事を思いだしながら、海を見ていた。 ここへ来たのは、間違いない。 黒い海に恐怖を感じていたのも間違いない。 そして、海で泳ぐ少女を見たのも、、、、。 間違いないに違いないのだ。 一つひとつの事を、確認している様子を見て、近くで砂浜に座っていた70歳ぐらいの男性が声を掛けて来た。 「お兄さん、さっきから何を海を見ながら、ぶつぶつ言ってるんだね。」 「ええ、昨日の夜、ここへ来たんです。それで、その海で泳いでる女の子に会ったんです。でも、それが夢のような出来事というか、状況だったもので、思いだしていたんです。」 「真っ裸じゃったろう。」 「ええ、そうなんです。おっちゃん、知ってるんですか。」 「ああ、中島さんちの茉莉子ちゃんや。可哀想な子なんや。どうや、可愛かったやろ。そやけど、可哀想な子なんや。」 「はあ、可愛かったです。それにしても、可哀想って、どういうことなんですか。」 「あの子はなあ、ちょっとここがイカレとるんや。」 そういって、頭を人差し指で、コツコツと叩いた。 そういえば、普通じゃなかった。 大体、夜の海で、裸で泳ぐなんてことは、普通の女の子は、しないだろう。 「あの子はな、自分の事を人魚だと思っとるんじゃ。」おっちゃんは、話を続ける。 「人魚ですか。そういえば、真っ暗な海で、楽しそうに泳いでました。」 「しかし、それも仕方ない事情があるわけや。実はな、あの子の母親は、殺されたんや。それも、父親にや。それだけやない。その殺され方が、尋常じゃないんや。猟奇的っていうんかな。殺した後に、母親の肉を、父親が食べたっちゅうんや。想像しただけでも、異常やろ。そんなことがあって、あの子は変わってしまったんや。躁鬱病っちゅうんやろうか。1か月ぐらい家に引きこもってたかと思ったら、兄ちゃんが会った時のように、妙に明るくなったりするんや。たぶん、昨日、兄ちゃんが会ったのは、その明るい時やったんやろ。そういう事情があったから、イカレテしまうのも無理ないわな。可愛そうやわな。」 「そうだったんですか。それは、可哀想ですね。」 と、相槌を打った後、聞いた。 「それで、人魚だと思っているというのは、どういうことなんですか。」 「ああ、それはな、あの子の育った町は、ここから50分ぐらい車で走ったところにあったんや。今は、その事件があってから、この街に叔母の家に引き取られて住んでるんやけどな。その育った町には、人魚伝説ちゅうのがあって、人魚の肉を食べたら、不老不死になるっちゅう伝説や。母親が、殺されて肉を食べられたのがショックやったんやろな、母親は、人魚やったと思いこんだみたいなんや。それで、その娘のあの子も、その血を引く人魚だと思いこんだんやろうな。可愛そうやな。」 そう聞いて、昔聞いた話を、薄っすらと思いだしていた。 「何となく、聞いたことがあるような気がします。八百比丘尼の伝説ですよね。」 八百比丘尼の伝説とは、全国に広がる人魚の伝説で、その肉を食べると不老不死になるという。 「ああ、そうや。それを本人も知ってたんやろうな。それで思いこんだんやろう。哀れやな。」 そんな過去を聞いて、昨夜の少女の言動と重ね合わせると、頷けるものがあった。 本当に思いこんでなきゃ、あんなことは出来ないだろう。 真っ暗な海に、素っ裸で泳ぐなんてことは。 いつか自分も、誰かに食べられてしまうんじゃないかと、そんな不安を、ずっと抱いているんだろうな。 妙に明るかった、彼女の表情を思いだしたら、思いっきり抱きしめたくなった。 このままじゃ、彼女の将来も、人魚のトラウマに支配されながら生きていかなきゃいけない。 何とかしてあげたいと思った。 とはいうものの、僕は、今日帰らなきゃいけないのだ。 それに、僕は、だたの旅人だ。 「何とか、してあげたいですね。」そう言うと、おっちゃんは、「ああ、でも、仕方がないんや。」と、ぼそりと言った。 昼過ぎに、駅に行くと、待合のベンチに、彼女が座っていた。 「あ、昨日のお兄ちゃんや。」 僕は、おっちゃんと話をしたことで、今目の前にいる彼女が、どうにも痛ましくみえる。 「昨日は、ビックリしたよ。」 「ははは。お兄さん、これから帰るの?」 「ああ、大阪に帰る。」 「ふーん。あたし、大阪に行ったことないから、行ってみたいな。」 「そうなんや。それやったら、大阪来たら、案内してあげるよ。君は、これから、何処へ行くの?」 「あたし?あたしは、鳥取。献血しに行くねん。誰も、あたしの肉食べてくれへんから、血でも人にあげようかなと思って。きっと、あたしの血やから、元気になるで。」 「君、人魚らしいね。」 と、わざと明るく聞いてみた。 「えっ、そうだよ。知らなかったの。」 「ああ、君に、昨日、あたしの肉食べたいんでしょって言われて、ビックリしたよ。」 「そうなんだ。じっと、あたしの事見てたから、知ってるのかと思ってた。あ、イヤラシイ目で見てたんでしょ。」 「まあ、そうかもね。」 「ねえ、お兄さん、あたし誰かに食べられると思う?食べられたら、やっぱり死んじゃうのかな。」 僕は、答えに困った。 彼女の気持ちを考えると、人魚だと思いこんでいることを否定してはいけない。 人魚であることを否定したら、彼女を否定したことになる。 いや、彼女を否定と言うよりは、彼女の人生を否定したことになるだろう。 「ああ、食べられちゃうかもね。だから、人魚であることを隠して生きなきゃ。昨日みたいに、裸で、海で泳いじゃだめだよ。悪い男の人もいるんだよ。気を付けてよ。」 「あ、またエッチなことを考えてる。お兄さんは、悪い男の人?」 悪戯っぽいエクボで僕に聞いた。 「そうかもね。でも、僕自身は、そこまでは悪くはないと思ってるけどね。」 「ふーん。中途半端やねんな。でも、食べられるんやったら、最初に、お兄さんに食べさせてあげるね。」 「はは、ありがとう。」 僕は、大阪行きの各駅停車に乗り込んだ。 彼女は、僕が行くのを、ずっと手を振って見送ってくれた。 窓の外を、ぼんやりと見ながら、彼女の事を思いだしていた。 今日の夜も、彼女は、人魚になるのだろうか。 そして、真っ暗な海で、泳ぐのだろうか。 そんな日が続いて、来月になると、うつ状態で部屋に引きこもってしまうのだろうか。 そんな時は、彼女は、何を考え、何を感じて、部屋にいるのだろうか。 いつか、自分も誰かに殺されて、食べられてしまうかもしれないという幻想に憑りつかれて、部屋の隅にうずくまっているのじゃないだろうか。 漠然とした心配のような感情が、僕の頭から離れなかった。 しかし、僕が彼女に執着しているのは、彼女が可哀想だという理由だけではなかった。 あの黒い海で泳ぐ彼女の姿が忘れられないのだ。 黒く果てしない恐怖しかない海に、あっけらかんと、そんな恐怖のひと欠片も感じずに、泳ぐ彼女の姿が忘れられない。 白く、細く、しなやかな肉体。 あの白さは、艶めかしさと、危うさと、清純さと、人の心を引き寄せる要素のすべてを、黒い海に発していた。 あの姿を、もう1度見てみたい。 或いは、その気持ちの方が、可哀想だと言う気持ちよりも、勝っているのかもしれない。 昨夜は、月明かりの下だったから、そんな白い肉体も見ることが出来たけれども、あれがもし、曇り空だったなら、さぞかし海は、もっともっと黒かっただろう。 黒い海に、その白さえも判別できない状態で泳ぐ彼女の姿を想像したら、やっぱりイカレテいるのかもしれないと思った。 しかし、それもまた美しいのかもしれない。 見ることで美しいと認識できるのは、普通だ。 でも、見えなくても、そこに美しいものが存在していると認識するだけでも、それは美しいということだろう。 黒い海に、黒い空、誰にも認識されない少女が泳いでいる。 ある意味、それこそが、美というものなのかもしれない。 大阪に帰ってからというもの、あの白い少女ばかりが、僕の脳みそを捉えて離さなかった。 そして、1週間経った今、僕は、山陰本線のとある駅に向かって列車に揺られている。 彼女のトラウマを少しでも和らげてあげたいと思うのだ。 そして、彼女の白い肉体を見てみたいのである。 或いは、後者の割合が高いのかもしれないのではある。 僕は、列車に揺られながら思っていた。 今日の夜も、月が煌々とした光を放っていてくれと。
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