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手記「夜を渡る彼女の話」
一目見て、彼女は「それ」だと確信した。
◆ ◆ ◆
私が彼女と初めて会ったのはもうずっと昔のことですが、今でも昨日のことのように覚えています。
日が沈み、西の空に茜色を残すばかりとなった道を歩いているときでした。少し先の一角だけ夜が訪れているように見えたのです。不思議に思って瞬きした直後、そこに彼女がいました。
星屑の瞬く宵色の髪に、三日月にも似た白さの手足、全てを呑み込む夜の海色に揺れるワンピース。夜を集めて人の形にしたら、きっとこのようになるのでしょう。
彼女と目が合い、ふわりと微笑みかけられてはじめて、彼女が生きた人だということに気付きました。
それが、彼女との出会いでした。
◇
彼女と会うのは、決まって日没後でした。
毎日会ったときもあれば、月単位、年単位で間が空いたときもありました。
初めて会ってから数年が経った頃、彼女の姿が全く変わらないことに気付いて尋ねました。
彼女が言うには、「彼女達」は私達と異なる存在らしいのです。私達は場所に縛られた存在であるために昼も夜もありますが、彼女達は夜という時間に縛られた存在であるそうです。そのため夜から出られない一方で、時間の影響が非常に少なく、ほとんど歳をとらずに永遠に近い時を生きているということでした。
今思い返しても、聞いた内容は覚えているのですが、分かったような分からないような気持ちになります。そのときは、私と彼女が異なる存在であることをただただ寂しく思いました。
◇
年々、彼女と共に時間を過ごしたいという想いが募る一方でした。会えないときには深く深く彼女のことを想い、会えたときにはその想いが確かに自分の胸の内にあることを実感しました。
あるとき彼女に、どうすれば彼女達のような存在になれるのかを尋ねました。
彼女は少し困った表情で、物心がついたときにはこのように存在していたから分からないのだ、と言いました。
たしかに、私がどうしてこのような存在であるかなど私自身も知らないので、至極当然のことではあるのですが、それでも落胆を隠せませんでした。
そんな私を見て、言い伝えでよければ、と彼女はぽつりぽつりと語ってくれました。
月下に咲く、花の話を。
◇
満月の夜にのみ咲くという月下の花を、私は探して回りました。
何回も、何十回も、何百回も。
◇
子どもができてもやめなかったその探し物をやめようと思ったのは、初めて孫をこの手に抱いた日のことでした。
真新しいふっくらとした存在を離した後の自分の手が、皺で覆われていることに気付きました。
思い返せば、もう何十年も彼女に会っていませんでした。
歳をとらない彼女と共に時間を過ごすには、私は歳をとりすぎたようだと思いました。
その日は満月でしたが、数十年ぶりに月下の花を探しには出ず、家から月を眺めていました。
夜半、そろそろ眠ろうかと腰を上げたとき、ふと視界の端にきらきらと輝くものを見つけました。
近づいて見てみると、家庭菜園用のプランターから覚えのない花が咲いていて、それが月明かりを受けて輝いていました。
これが、彼女の言っていた月下の花だと気付くのに、時間はかかりませんでした。
満月は太陽の鏡となり、その光を浴びて蓄える黄金色の花。昼と夜とを繋ぐもの。
咲いているうちに摘むと枯れなくなるというその花を、私は瓶に入れて蓋を閉め、そして深く深く溜め息を吐きました。
言い伝えでは、煎じて飲むと存在を変える効能があるとのことでしたが、どうしても飲む気になれませんでした。
それなのに花を摘んでしまったのは、おそらくずっと長いこと探していたためなのでしょう。
◇
◇
◇
月下の花をどうすればよいのかを決めかねていましたが、ようやく決めることができました。
やはり私は臆病で、永遠に近い時を生きることができるようになったとしても、年老いた自分が彼女に拒絶されることが何より恐ろしいのです。彼女と二度と会えないことよりも、ずっと。
月下の花は、いつか私の死後に彼女が私を訪ねてくれたときにでも、彼女の手に渡るようにしたいと思います。
彼女が、彼女の大切な人と時間を共有できますように。
◆ ◆ ◆
彼女は読み終えた手記を閉じ、その表紙を優しく撫ぜた。
手記の隣りに置いてあった瓶詰めの「それ」は、やはり一目見て確信した通り月下の花であるようだ。
「――あなたの生を時間に縛ることも、あたしの生が地に縛られることも、どちらも選べなかったことを許しておくれ」
呟いた声はわずかに震えていた。
彼女が去った部屋には、再び完全なる静寂が訪れ、そこには安らかな寝顔の老人が一人残されただけだった。
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