鮮血の棘花

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鮮血の棘花

 何かが弾ける鋭い音と光に、エリアスは咄嗟に身をかがめて剣の柄に手を当てた。腿に緊張が走り、冷や汗が背中を伝う。だが、漂ってくるのは火薬や鉄の臭いではなく、宙を舞う花びら、炙られた肉や焼きたてのパンの芳ばしい匂い、蒸留した葡萄酒の香り、それから―― 「エリアス隊長、お誕生日おめでとうございますっ!」  副隊長のオスヴィンの満面の笑みとともに、暑苦しいほどの熱気がエリアスを出迎えた。 部下たちが今夜宴を開くとは聞いていたが、それはてっきり終わったばかりの戦いを――それも、この国境沿いの町にもたらした大きな勝利をたたえあうためのものだとばかり思っていたのだ。 「おまえら、これは一体……」 「いいからいいから、早く入ってくださいよ!」  オスヴィンに促されるまま店の奥に進んでいく。口々に投げかけられる祝いの言葉に驚きの表情を浮かべながら、エリアスはぐるりとあたりを見渡した。店の中は夜の酒場には似つかわしくない鮮やかな花々で飾り立てられ、主賓席と思しきテーブルには綺麗な布がかけられている。どうやら、エリアスには他よりも遅い集合時間が伝えられていたらしい。したり顔の隊員たちや楽しげに微笑む給仕の女たちが準備をしたに違いない。  酒がなみなみと注がれた杯をエリアスに手渡し、オスヴィンが芝居がかったようすでエリアスに目配せをした。何か話せということだ。エリアスがざっと視線を流しただけで、ざわめきが波のように緩やかに引いていく。身に染みついた習慣のせいだが、このような場でさえ統率のとれた素晴らしい部隊だ。隊員数は他の隊と比べて少ないが、エリアスが選び抜いた――そして共に厳しい戦いを何度となく生き抜いた、精鋭ぞろいの自慢の部隊だ。 「みんな、ありがとう。俺はまたひとつ年を取ったわけだが……まだ部隊を退くつもりはないぞ。おまえたちは今よりももっと強くなれる。そしておまえたちの力がこれからますます必要とされる。だから、これからも容赦なくおまえたちを鍛え上げていくつもりだ。その俺にまだ命を預けようって頭の狂ったやつがいるなら――」  言い切る前に雄叫びが響いた。皆、杯を掲げて笑顔で賛同の声を上げている。エリアスは胸の内に温かいものが広がっていくのを感じた。乾杯の音頭を皮切りに、宴は騒々しい笑いと喜びで満たされていった。 『俺たちからの誕生日プレゼントです』  そう言って手渡されたのは薄い封筒だった。宴はまだ終わる気配がなかったが、エリアスが一人抜け出そうと腰を上げたのをオスヴィンに目ざとく見つけられたのだ。  オスヴィンは店を出てすぐに中身を見るようにと念押しをして、まるで追い出すようにエリアスの背中を押した。首を傾げながら封を開けると、入っていたのはたった一枚の紙きれだけだった。描かれているのは驚くほど簡易な地図だ。そしてその地図には、星印で目的地と思われる場所が示されている。普段王都で暮らすエリアスには、この目的地が町のどこを示すものなのかがわからなかった。 「いらっしゃいませ……ああ、エリアス様でございますね。お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ」  到着したのは、この町ではおそらく一番大きな高級宿だった。庶民上がりのエリアスには縁のないものだ。地方の宿とはいえ、小国の騎兵隊の一隊長が気軽に払えるようなものとは思えない。 「いや、俺は……」  どこかの貴族の家の執事かと思うような物腰の丁寧な案内役が、笑顔を崩さずにうなずく。 「ご安心くださいませ。こちらの宿での宿泊はエリアス様への贈り物であると伺っております。それに、先の戦いでご活躍されたエリアス様にご宿泊いただけることは、我々にとっても光栄なことなのです」  エリアスの返答を待たず、案内役は軽く目を伏せてゆっくりと歩き出した。階段を二階分ほど上がり、たったひとつだけある扉の前で黄金色の鍵を手渡される。受け取ると同時に案内役は一度頭を下げ、影のように音もたてず去って行った。部下たちはこの「プレゼント」に一体いくら払ったのだろう。手の内で鍵を転がしながらエリアスは苦笑した。しばらくは野営が続いていたし、清潔で柔らかな布団で眠れるだけでも満足なくらいだ。きしまない寝台で眠れるというのなら、ありがたく受け取るほかない。  小さく息をつき、扉を半分ほど開けたときだった。 「エリアス」  短い時間に二度も柄に手を当てることになるとは、それも不意を打たれるとは許し難いことだ。 「エリアス、落ち着け。私だ」  鋭い声には聞き覚えがあった。聞き覚えがありすぎるほどだ。部屋の奥、明るく光が灯された場所で影が伸びる。 「ウォルド? おまえ、なぜここに……もう帰ったんじゃなかったのか」  エリアスの驚きと混乱をよそに、ウォルドは落ち着いたようすでエリアスを見つめていた。 「いや、我々はしばらくこの国に逗留することになった。少なくとも、こちらの負傷者が充分に回復するまで滞在を認められている。それに、今回おまえたちの支援のため遠征してきた我々の師団は、おまえたちと共同訓練を行うように王の命を受けている。つまり……まだおまえと一緒にいられるということだ」 「はっ……何を言って……」 「戦いの最中では何を言っても聞く耳を持ってはくれなかっただろう。だから、オスヴィン副隊長におまえを連れてくるよう依頼したんだ。彼を怒らないでやってくれ。私が無理を言っただけなんだ」  いや、あいつらにとってそれが「無理」なわけがない。むしろウォルドの依頼を喜々として受け取ったのだろう。生きる国の違う、さらには身分まで大きく異なるエリアスとウォルドの過去に何があったかということは、もはや公然の秘密だったからだ。 「誕生日プレゼント、ね……」  エリアスが漏らしたつぶやきに、ウォルドの眉が小さく跳ねた。 「誕生日? まさか、今日が誕生日なのか」  険しい表情のウォルドを前にエリアスは一瞬あっけにとられ、それからくすくすと笑い始めた。はるか昔――二人がただの若造で、同じ師のもとで鍛錬を重ねていたのは三年ほどだっただろうか。その間、幾度となく身体を重ねていたはずなのに、互いの誕生日すら知ることもなかったのだ。  ウォルドはさっと首をめぐらせ、テーブルの上の花瓶からひと際大きな一輪の花を抜き取った。透きとおるように白く、緩やかな曲線を描く百合の花弁がエリアスに向けられる。 「すまない、きちんとしたプレゼントはすぐに用意する」  ウォルドは至って真剣な顔をしている。エリアスはとうとう堪えきれずに腹を抱えて笑いだした。 「エリアス……?」 「おまえら、どうして俺に花なんか渡そうとするんだ? 今日だって宴の会場が花だらけだったんだぞ。夜の酒場で、だ。まったく何を考えているんだか――」 「それは、おまえには血よりも花のほうが似合うからだ」  エリアスは息を止めた。頬から笑みは消え、真顔のウォルドを睨み上げる。 「俺は叩き上げの、騎兵隊の隊長だ。浴びた血の量で言えば、今や後方でふんぞり返って指示を出しているだけのおまえよりも多いってことはわかっているだろう。それに、戦いの実力は俺のほうが上だ。俺は人を切ることを生業にしている。その俺に花が似合うなんて、笑わせてくれるよ」  ウォルドは黙ったままエリアスの鋭い視線を受け止めていた。視線を逸らさないまま、おもむろに手の中の花の茎を手折る。ぶつり、と繊維がちぎられる音がエリアスの身体をこわばらせた。  ふっと息を抜く音とともに、百合の柔らかな香りが頬をかすめた。 「いや、やっぱりおまえには花が似合う」  ウォルドの指先が耳に触れる。エリアスの髪を後ろに流し、短くなった花の茎を間に挟んだ。硬く乾燥した手のひらに頬を包まれる。ごつごつとした感触は剣の鍛錬でできたたこだ。決して心地よくはないが、エリアスはなぜか安心した。ウォルドが自分の部下が戦うのをただ見ているだけのはずがない。今でも前線に出ていることは明らかだった。  ウォルドの瞳はみずみずしい新緑の色だ。熱い吐息が近づく。エリアスはウォルドの首に腕を回し、思いきり引き寄せた。  耳の上に飾られた純白の花が音もなく床に落ちた。 「くっ……あ、はぁっ――」  脳が溶け出しそうなほどの熱をもてあまし、エリアスは腰をくねらせた。汗か涙かわからないもので濡れたシーツに顔を押しつけ、声を押し殺している。背後からウォルドに自身を優しく握られ、後孔には硬く熱い楔が押しつけられていた。だが、最初にエリアスが苦しげな声を出してからは、ウォルドは一向に先に進もうとしていない。宥めるように背中に唇を当て、ゆっくりと舌先を這わせている。肌が粟立ち、快楽の痺れが指先まで一気に走る。 「ウォルド……もう、大丈夫だって言っただろ……」 「いいや、まだだ」 「あっ……なん、で――」  肩口に口づけを落とし、ウォルドがふっと笑った。 「私は――昔と違って辛抱強くなったんだ。あれから今まで、どれほどおまえを待ったと思う? それと比べれば、おまえが今私を受け入れることができるまでの時間など、ほんの一瞬にすぎない」  エリアスのものを緩く扱き、反対の手で胸の尖りを摘まんだ。 「ん、あっ――」 「変わっていないな……傷は増えたが、肌は白いままだ。この細い腰が馬上で折れやしないかと、どれほど心配したか知らないのだろう」  ウォルドは独りごとのようにつぶやきながら、ゆるゆると腰を動かし始めた。それはただ戸口を叩いているようなものだ。エリアスは心の中で毒づいた。奥が疼いている。早くウォルドが欲しくてたまらなかった。  ウォルドはエリアスのことを変わっていないと言ったが、ウォルドは大きく変わっていた。出会った当初は身長はこぶしひとつ分ほどしか違わないはずだったが、今はもう頭ひとつと半分は差がつけられている。その背丈に見合った素晴らしい体躯をもち、顔立ちは品がありながら一瞬にして敵を委縮させるほどの凄みをもつようになっていた。そのウォルドがエリアスの足元にひざまずき、従順なしもべのように快楽を呼び起こしていく様は、あまりにも――あまりにも自分には不似合いだと思った。だが、身体は嘘をつかない。身体の奥がすすり泣くように震えている。ウォルドを誘い込もうと、はしたないほどに後孔が収縮しているのがわかる。 「ウォルド!」  エリアスの叫び声にウォルドはぴたりと動きを止めた。エリアスは後ろを振り返り、初めてウォルドの表情を見ることができた。ランプの光に照らされた雄の顔に、エリアスの中の箍が外れた。 「頼む……挿れてくれ――おまえが欲しいんだ……俺を慰めてくれ、俺の奥を――」  最後まで言わせないとばかりにウォルドが唸りながら覆いかぶさった。ぐっと押し込められた瞬間、エリアスは声にならない叫びを上げた。目の前で光がちかちかと明滅している。 「私はっ……私がどれほど成長したのかを、おまえにわかってもらうつもりだった……だが、おまえのせいで十代の小僧に戻ってしまったみたいだ」  低い声で言いながら、ウォルドは容赦なくエリアスを揺さぶる。達しながらいきなり何度も突かれ、エリアスは言葉を紡ぐことができずにただ喘いでいた。 「あ、あ、ウォル、ド……ああっ」 「エリアス、おまえはいつも私の心を乱す……おまえだけなんだ。おまえだけが私の心に入り込むことができる。おまえは私のそばで咲くたった一輪の花だ。その存在にどれほど心を揺さぶられ、癒されたことか――」  ぐいと腕を引かれ、身体を起こして胸を抱かれる。ウォルドはまるで怒りをぶつけるように、膝立ちの状態でエリアスを後ろから突き上げた。エリアスは開きっぱなしの口の端から涎を垂らし、回された腕にしがみつくことしかできない。  不意にウォルドの腕の力が抜け、エリアスは落ちるように倒れ込んだ。仰向けに身体を開かれ、高く持ち上げられた脚にウォルドが吸いつく。  エリアスはいつのまにか固く閉じていた目を開いた。ウォルドの美しい肉体に薄く汗が滲んでいる。エリアスは笑みを浮かべた。隣国の王立騎士団、その師団長が、ひとりの男の前で余裕をなくす様はなかなかに滑稽だ。 「俺は花なんかじゃない。俺は剣だ。この国の王に忠誠を捧げた、ただ一振りの剣だ。必要となれば、真っ先におまえを切ることになる最も鋭い剣だと思え。それでも花だと言うのなら、毒をもち、おまえの心臓を狙ういくつもの棘をまとった花だろう」  エリアスの言葉にウォルドは小さく目を見開いた。次の瞬間、まるでここが戦の最中であるかのように獰猛な光が瞳に宿った。 「そんなことはさせない。絶対に」  再びウォルドが侵入してくる衝撃にエリアスは息を詰めた。一息に奥を突かれ、今度は肺から空気が無理矢理押し出される。 「うっ……はぁっ、ああああ!」 「エリアス、愛している」  ウォルドはエリアスを攻めながら唇に噛みついた。伸ばされた舌が緩んだエリアスの咥内を無遠慮に動き回る。エリアスのものはウォルドの引き締まった腹にすりつけられ、気持ちよさのあまり気が狂いそうだった。 「おまえに私を切るようなことはさせない。だが、私はおまえを守るためなら何でもするだろう。この身を投げ出すことで、おまえを守ることができるのなら、私は――」 「馬鹿、野郎……」  エリアスは力なくウォルドの短い髪を掴んだ。互いの鼻の先がつく距離で視線が交差する。 「戦う前に諦めるな。全力で戦っておまえが望むものを勝ち取ってみせろ。おまえにはそれができると、この俺が保証してやる」  ウォルドの厚い唇に唇を押しつける。エリアスはゆっくりと、祝福を分け与えるように唇を食んだ。  ウォルドの動きが静かに再開される。エリアスは身体を、心を開いてウォルドを深く受け入れた。夜明けの清廉な光さえも、溶け合った二人を分かつことはできなかった。  エリアスは彫像のようにシーツに埋もれて動かないウォルドを見つめ、くすりと笑った。身体を起こし、身支度を整える。筋肉をほぐすことも忘れない。久しぶりの行為に節々は痛むが、相変わらず頑丈な身体に自分でも呆れるほどだ。  ふと、足元に転がる白い花に気がついた。昨夜、ウォルドがエリアスに手渡したものだ。すでに花びらの先が萎れかけているが、まだ生命の香りが漂っている。 「棘も毒もないってのに……おまえも頑丈だな」  エリアスは洗面台に置かれたカップに水を入れ、短く切られた百合を挿した。満足気に息を吐いて振り返ると、ウォルドが穏やかに微笑みながらエリアスを見つめていた。 「っ……ウォルド、起きていたのか」 「いや、今起きたところだ」  上半身を起こし、ウォルドがぐっと伸びをした。朝日を浴びて輝くウォルドの肉体に目を奪われていることに気づき、エリアスは小さく咳払いをした。 「エリアス」  ウォルドがエリアスの名前を呼ぶ。その声のあまりに甘い響きにエリアスは顔をしかめながらも、ウォルドのもとへと近づいた。 「なんだ――うわっ」  突然腕を引かれ、エリアスは寝台へと転がった。受け身の体勢をとらなければ腕を折っていたかもしれない。 「この野郎、何やって――」  そのまま太い腕に拘束され、二人は再びシーツと共に絡まり合った。 「まだ行かないだろう?」  エリアスの胸元からウォルドが様子を窺っている。こうするとまるで大型犬のようだ。よくよく思い出せば、ウォルドはエリアスよりも二つは年下だったはずだ。  エリアスは頭の中で算段を立てた。背後に隊員たちのにやけ顔が浮かんでいたが、首を振ってかき消してやる。 「まあ、昼までくらいなら大丈夫だろう」 「昼までだって? そんなのもうすぐじゃないか。昨日まで戦い続けていたんだ。今日は一日休暇を取ればいい」 「そういうわけにもいかないだろう。共同訓練をすると言っていたのはどこのどいつだ。そういうおまえは師団に戻らなくていいのか」 「私の師団は一日と言わず数週間私がいなくてもまったく問題がない。すでに指示は出してあるし、()()()()()()()()()だからな」 「なんだと? それなら俺の部隊だって――」  エリアスはウォルドが悪戯っぽい表情を浮かべているのに気づいた。からかわれたのだ。エリアスは一瞬怒ってやろうかと意気込んだが、なんだか馬鹿らしくなって笑ってしまった。  肩の力を抜き、ウォルドの額に自分の額をぶつけた。 「まあ、一日くらいおまえに譲ってやるよ――おまえの勝ちだ」  ウォルドが息を呑み、素早くエリアスを抱きしめた。温かなウォルドの熱を感じながら、エリアスは目を閉じる。  ウォルドに約束することのできる勝利は、たった今この瞬間だけのものだ。この先どうなるかなど、誰にもわからない。だが、この穏やかなときがいつまでも続くことを、願わずにはいられなかった。 
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