騎士の恋文

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騎士の恋文

『拝啓 初秋の候、貴殿におかれましては、ますますご清栄のことと存じます――』  ウォルドはインクが染み込んでいく様子を眺め、ため息をついて紙をくしゃりと握りつぶした。こんな堅苦しい手紙を彼が気に入るはずがない。紙は決して安くはなく、無駄にしてよいものではないが、彼が始めの一行にあの鋭い視線を向けたが最後、哀れな紙はいずれにせよ同じ末路を辿ったことだろう。  かぶりを振り、もう一枚紙を取り出した。ペン先から滴る漆黒の雫が、彼の濡れた睫毛を思い起こさせる。小さく震えたその隙間から覗く瞳は、薄く広がる涙に溺れながらも決して挑発的な色を失うことはない。その視線に捕らわれてしまえば、鋼よりも硬いと自負していたはずのウォルドの理性がいとも簡単に溶かされてしまう――ウォルドは数度瞬きをして淡く浮かんだ情景をかき消した。 『エリアス、元気にしているだろうか。私のほうは変わりない。先日の合同訓練は双方の戦闘技術や戦略構築の発展につながる有意義な訓練となったはずだ。協力してくれたことに感謝している。さて、訓練のときに気になったのだが、おまえはもう少し筋力を上げる訓練を増やすべきだ。身体が軽く機敏であることは騎兵として有利な点も多いが、当たりに弱いのは訓練でも明らかだった。悪天候時の行軍にも不都合が生じるのではないだろうか。体温が奪われやすく、身体の自由がきかなくなれば急襲にも対応できなく――』  いや、こんな小言を書きたいわけではない。  エリアスが筋肉をつけたほうがよいというのは確かだ。彼は兵士としてはあまりにも細い。馬上で背筋を伸ばす彼は、兵士というよりもどこかの国でしかるべき座に佇む姫君といっていいほどの気品を放っていた(かつて貴族の娘に扮して潜入作戦を行ったこともあるらしい……当人は決して話したがらないが)。だが、彼が武器を手にすればそれが幻想であると気づくだろう。いや、地に伏せ息絶えるほうが先か。  彼がどれほど優れた兵士であるか、ウォルド以上にわかっている者はいないだろう。馬と一体となっているかのように身体をしならせ、槍や剣をひらめかせる姿は荒々しくも美しい。ウォルドはエリアスの身体がどれほど軽く柔軟に動くかも知っている。素肌に熱が浮かび消えていく速さまで知っている。だからこそ、不要とは知っていながら彼のことが気にかかり、居てもたってもいられなくなる。戦場には絶対などというものはない。たったひとつの油断や備えの怠りが一瞬にして死を呼び寄せるのだ。ただ、合同訓練中の睡眠不足に関していえばウォルドに責任があるとも言えなくはないが――  ふっと笑みをこぼし、もう一度インク壺にペン先を浸す。 『エリアス、私はおまえを愛している。しつこいと言われようと構わない。口で言うだけでは足りないのだ。互いにいつどこで死ぬかもわからない身の上では、どんな形であれ想いを伝えることができるというだけで私は幸せだと感じる――』 「隊長、お手紙が届いてますよー」  オスヴィンの声にエリアスは地形図から顔を上げた。手に持つものをひらひらと動かしながらオスヴィンが近づいてくる。その顔にはにやけ笑いが浮かんでいた。 「誰から、とは聞かないんですね?」 「おまえの顔を見れば大体想像がつく。だが、なぜおまえが?」  エリアスは封蝋に押された印を見て正解を得た。何度も目にしたことがある隣国の家紋だ。一角獣の頭の周囲に月桂樹の葉が連なっている。 「数日前まで俺の弟が使節団として向こうに派遣されていたんですよ。その際に師団長殿にお会いしたとか。この手紙を伝令に託そうとしていたようですが、弟が預かったほうが確実で安全だろうと弟のほうから提案したそうです。俺となかなか顔を合わせる時間がなくて、渡すのが遅くなって申し訳ないと言っていましたが、許してやってくれますよね?」 「ああ、もちろんだ」  このお調子者の副隊長も、実は貴族の出だ。弟のほうは兄と違って武術よりも学問を好み、若くして官僚の座についていた。優秀な弟の存在は自慢となるだけでなく、家に縛られるのを疎む長兄にとって救世主でもあると言って溺愛している。 「手紙だなんてロマンチックですね。いいですねぇ、お熱いようで……」 「馬鹿か。どうせ先日の訓練のことだろう。わざわざ手紙にする必要もないだろうが――」  無造作に封が開けられ、オスヴィンはたじろいだ。 「ちょっと、見えちゃいますよ! ……って、え?」 『エリアス、よく食べてよく寝てもっと肥えろ。身体づくりこそ兵士としての務めの基本だ』  少ない言葉の下に書かれた流麗なサインは見紛うことなくウォルドのものだ。 「……オスヴィン、弟にくだらないことで手を煩わせてすまなかったと伝えてくれ」 「いや、えーっと、はい……隊長?」  エリアスは手紙を握りしめ、扉へと向かった。意味があるものを期待していたはずがないが、無性に腹が立つ。千切ってやってもいいが、火にくべて跡形もなく燃やしてやりたかった。火の元を探すべく、把手を掴んで力いっぱい押したとき、鈍い衝突音が大きく響いた。扉の向こうで、たくましい体躯の男が頭を抱えてうめいている。その後ろでエリアスの部下が「自分は無実だ」と必死に目で訴えていた。 「ウォルド、なぜおまえがここにいる」  冷ややかな声の出迎えにウォルドは驚いたように顔を上げた。額と鼻が赤くなっている。エリアスはこの国でも英雄と称えられる騎士の間が抜けた姿を鼻で笑った。その視線の鋭さに部下がすくみあがっている。 「二日後に王弟殿下の婚姻の儀があるだろう。私は父の代理で出席することになっている。今日は夜に宴があるが、その前におまえに会えればと思って彼に案内してもらったんだ」  エリアスの全身から放たれている尖った空気にまるで気づいていないのか、ウォルドが朗らかに笑った。 「あいにく、俺は今から『よく食ってよく寝る』必要があるからな。おまえと会う時間などない」  エリアスはくるりと背を向け、廊下を歩きだした。   「エリアス?」  追いかけようとしたウォルドをオスヴィンが呼び止めた。怪訝な表情を隠そうとしないウォルドに、オスヴィンは小さく首を横に振る。 「師団長殿……失礼ながら、あれが恋文だとすれば難解すぎますよ……」 「恋文とは……ああ、先日預けさせてもらったものは恋文ではない。いや……正確には恋文を書いたのだが、人目に触れる可能性があるものに直接的な言葉を書けばエリアスは嫌がるだろうと考えたんだ。他に書こうとしたことも小言じみてしまってな。彼の性格を考えた結果、端的に助言を書くことにしたのだが」 「はあ、そうでしたか……」  何か問題があっただろうかと首をかしげる男を前に、オスヴィンは心の中でため息をついた。愛情表現が極端に苦手な我らが隊長と、おそらく愛情が深すぎてどこかずれてしまっている恋人殿。二国が誇る強者の痴話喧嘩には決して巻き込まれまいと、オスヴィンはその場からそっと逃げ出すことにしたのだった。
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