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そして、杖の先と四阿の床をコツコツと叩きながら、ゆっくりと歩を進め始めた。そこで男は初めて気付く。
彼女は、目が見えないのだと。
慌てて駆け寄った男は、彼女の手に自身のそれでそっと触れた。途端、彼女はビクリと身体を震わせ、目を見開く。
「あ……あ、すまない。驚かせてしまって」
「……いえ……」
急に触れたからか、それとも声を掛けたのが唐突すぎたのか、彼女は戸惑うように言って下を向いてしまう。
「構わないから座りなさい」
男は、失礼でない程度に彼女の身体を支え、元通り座らせる。
「あの……教房の楽士様ではないですよね。どなたですか?」
「ああ……名乗るのが遅れたな。私は、パク・チョルホと申す。今日は、科挙の合格者として祝いの席に招かれて……」
「左様ですか」
素っ気なく聞こえた答えに男――チョルホはどうしていいか分からなくなる。
大体、こういうことが苦手で、だからこそ用足しを口実に逃げてきたというのに、どうして自分から妓生に声を掛ける羽目になったのか。
「あの……そなたは、ここの教房の妓生であろう。なぜ宴の席に出ぬのだ?」
「……お分かりの通り、目が見えぬので」
うっすらと寂しげに微笑したその顔は、よく見るとまだあどけない少女のようでもある。
「今日のような宴には出して貰えませぬ。見えないと群舞が舞えませぬし、舞台とお客様の境界線が捉えられませぬゆえ」
「だが、琴の音は素晴らしかった。不躾だが、拝聴しておりました」
「ああ……恐縮です。まだまだ拙のうございますのに、お恥ずかしい」
謙遜して身を縮める彼女に、「何を言う」とチョルホは言い募った。
「あの腕なら、どこへ出しても恥ずかしいものではない。掌楽院〔宮廷楽団〕にもあの水準の弾き手はいない」
「まあ」
出会ってから、彼女が初めて小さく声を立てて笑う。
「パク様は科挙に合格したばかりなのでしょう。何故、掌楽院の弾き手のことなどご存知なのです」
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