卵焼きの味は夢の味

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 おばちゃんと出会ってから、何となく毎日ちゃんとご飯を食べて、風呂に入って、寝る、を繰り返していると、何となく、学校へも行くようになっていた。まぁ、高校くらいはちゃんと出ておかなければならない、という母のお小言がどこかで気になっていたのは確かだ。大学へ行く気はなかったが、将来を考えれば、中卒高校中退よりも、せめて高卒、と書きたい。そして、そんな私を見て、母が久し振りに進路について話を振ってきた。高校3年生夏。確かに遅いが、最終決断の時期かもしれない。 「かずこ、あんた進学はどうするんだ?」 母が少し男勝りなのは、私が母子家庭に育ったから。 「ちゃんと卒業はするから」 家にお金がないことも知っているし、進学は元々眼中になかった。 「お金の心配はいいんだよ。なんとでもなるさ」 なるのなら、今までのこの質素な生活を何とかして欲しかった。その頃の私は本気でそう思っていた。 「もし、興味のあることとかがあって、我慢しているのならちゃんと言いなさいよ」 「……わかった」 この頃の母はあまり詰めて言いよると良くない方向に転がるということを、学習していたようで、それ以上は何も言わずに仕事へと出かけて行ってしまった。  しかし、お弁当が置いてあった。約一年ぶりに用意された私のお弁当箱。きっと、学校へ行き始めていることを担任か、単なる憶測か分からないが、知った結果なのだろうと思った。  その頃の所持金は360円で事足りた。梅ケ谷駅までの往復料金。今はそれでは足りず、400円かかるところだが、あの頃は片道180円の一区間だった。  自動改札に切符を通す。東山方面へと歩き出す。そこにある商店街、東山商店街にある総菜屋。ずっと買い手待ちだった不動産。  私はあの時の決断が間違っていなかったと思っている。 「お母さん、私、調理師になりたいかも」 母は何となく諦めたように微笑んだ。 「何となく、そう思ってた」 不思議な縁だった。母とおばちゃんが姉妹だったなんて。 「縁は切ってたの」 おばちゃんが私を身籠って、母が赤ちゃんを流産した。母は結婚していたが、おばちゃんは結婚していなかった。結果、母は私が原因で父と別れる。 「まさか、あんたの居場所をあの人から聞くなんて思ってなかったし、変に反対してあんたがもっと変な場所に行くのも怖かったし」 母がとても小さく見える。怒鳴ればいいのか、悲しめばいいのか、何だか分からない感情が私の中に巡った。あの時廻ったのは、多分、騙されていたという感情に近い。母に裏切られたというような。しかし、それをぶつけてはいけないような。 「もしかしたら、って思ってた」 私の口から出たのはそんな言葉だった。いや、おばちゃんの子どもであるなんて、露も思っていなかった。しかし、母の卵焼きとおばちゃんの卵焼きの味が同じだった。何か不思議に思ったのは確かだった。  専門学校へ行き、調理師の免許を取って、何年か仕出し屋で働いた。おばちゃんの死を告げられた。 「どうする?」 母はあの不動産のことを言っている。髪を染めるという約束を果たした後、忙しいを理由に近づかなかった総菜屋。 「あんたに相続」 まっすぐに母を見つめて、母の言葉の先を遮った。 「いいよ。それはお母さんが決めて。お母さんがいらないのなら売ればいいし。それを私がちゃんと買うから」 だって、そのくらい、あの時迷惑かけてたと思うし。老後の蓄えだって必要だろうし。 「心配しなくてもね……」 母はそこで言葉を止めた。 「じゃあ、賃貸として貸してあげるわ」 はっきりと言おう。 「お母さん、私お母さんのこと好きだよ。おばちゃんは、やっぱりおばちゃんだから。あの店を引き継ぎたいけど、それだけの意志が持てなければ、きっと無理な話だったんだと思うし」  あの時、おばちゃんに全く警戒心がなかった理由も、おばちゃんが私をすんなり家にあげた理由もよく分かった。そして、ちゃんと染め直してあげた時におばちゃんが泣いていた理由も。 大きな文字で書かれてある、『売物件』という文字の下の電話番号。携帯電話でその番号を慎重に押す。 「はい、こちら東山不動産、森脇です」 「あのぅ」 溌剌とした男性の声の後に続く、もじもじとした私の声。緊張するな、もう決めたことなんだろう?  私は私を鼓舞する。 「東山商店街内にある、物件のことでお話があるんです」 大丈夫。だって。この後ちゃんとお墓に報告しに行くって決めたんだから。
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