土の下の男

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満月が雲のない中空に浮かぶ夜。 月光があまねく地上を照らす静かな夜。 一人の女が土を掘っていた。 ざくざくと音を立て、土を掻き分けるように掘っていた。 握ったスコップの重さも厭わず。 握ったスコップの固さも厭わず。 額に汗し、掘り進めていた。 長い髪を乱し、息を乱して土くれを重ね続けていた。 (…………。) 無言に息づかい。閑寂に響くは穴堀の音。 遠くには種別不明な虫が鳴き、虫を食べる鳥が鳴いている。 夜が女を包み込み、その行動を柔らかく抱き締めている。 女の目的はひとつである。端にある、死体を埋めるためだった。 月光のあまねく厳かに地上を照らす景色。 重ねられた土くれに影が生まれ、地面の陰影を濃くする景色。 その影に一部隠れるように、死体は寝かされていた。 硬直も未然に、放置も同然に仰向けにされていた。 死体は男だった。細身の、顔の整った若い男だった。 男の髪は長く、頭部の周囲を塗り込めるように黒く分かれている。 月のもたらす影とは別に闇が地面を埋め、根のように広がりを見せている。 動作する女と、停止する男。 月明かりは静と動の相反した光景をありのままに映し、夜はスコップによる無機質な音をただそのままに吸い込んでいる。 男の死体を側に、土くれが徐々に高さを増していく風情がある。 穴が徐々に、その深さと暗さを増していく情景がそこにはある。 (…………。) 無言。静寂に土を掘る音。 時たま微弱な風が吹き、女の高揚を緩く冷やしていく。 夜の鳥が近い。雲のない夜空を低く通りすぎていく。 女は一心不乱に穴を堀り続けていた。土の湿った匂いを強く感じ、スコップを突き刺し続けている。 その目は時おり男に注がれていた。 穴を掘りつつも、女は男を意識していた。 黒目がちな女の瞳。横たわった男を眺める視線には敵意。 女は男を見知っていた。見慣れていた。長年の、馴染みがあった。 男の細い体つき、繊細な肌、黒々とした長髪、一重の目。 女は全てを知り尽くし、知り尽くした上で、悪感を抱いていた。 精通のために、動かぬ体を剣呑に見下ろしていた。 (…………。) ざく、ざく。ざくり、ざくり。ざく、ざく、ざくり、ざくり。 土の削られる音が月夜に響き、土の舞うのが月光に映し出される。 こぼれた粉塵が男に降りかかり、裸足を細かく汚していく。 女が、ひとつ大きな息を吐いた。細腕には疲労が溜まり、額には大粒の汗が光っている。 スコップは時々芯を外し、衝撃が疲弊をさらに増幅させていく。 それでも、女は手を止めようとしない。息を荒く掘り続け、 ざくり、ざくり、と穴を深く暗く冷たくしていく。 男を見る。穴を見る。深度を確かめ、スコップを握り直す。 土を掬い、持ち上げ、土くれに混じらせ、ふたたび穴へと向かう。 穴を見る。男を見る。目が留まり、しばし佇む。 女の脳裏には過去が浮かんでいる。男にまつわる、複雑な過去である。 夜は感情を肥大化させ、過去を鮮明に思い起こさせる。 スコップを握る手に力が入り、取っ手に細かな震えが伝わる。 風が吹く。虫が鳴く。空が囁き、丸く育った月が笑う。 気を取り直すように咳払いをした後、女は穴を見つめ、ふたたびスコップを突き立てていく。 ざくり、ざくり、憂いを断つように、刃先を埋め込んでいく。 土くれの高さが、女の欲求を表し、穴の深さが、その強さを示しているようだった。 (…………。) スコップが動き、空気が動く。 女の動作に闇が動き、男の停止に闇は休んでいた。 もう、穴は十分に掘られている。 人が仰臥できるほどの空間ができ、月光も届かぬ暗闇が生じていた。 スコップを足元に落として目を閉じ、女が深く呼吸する。 夜気が肺と頭を冷やし、気分を落ち着かせていった。 目を開け、女が動く。 土くれの傍、横たわる男に近づき、その顔を見下ろす。 見慣れた容貌。長年付き合った肢体。 悪感情を生んだ体貌と、自身を苦しめた性。自身を苦しめた自身。 「……じゃあね」 女が呟く。男は押し黙っている。 夜が声を際立だせ、女が女であることを静かに肯定する。 もう一度、女が呟く。男の顔を見つめながら。 自分に相似した顔を見つめながら。自分の抜け殻、自分だったものを見つめながら。 「……じゃあね、男だった私。私はもう、あなたじゃない。嫌だったあなたじゃない。女として、生まれ変わったから。心も体も、女として生きるから」 穴が女を呼んでいる。過去を埋めろと叫んでいる。 女は微笑み、男の両足首を持った。ずるずると引きずる音がした。 月明かりの下に、女の哄笑が響いていた。
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