幻の月

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「ちょいとそこのお兄さん」 「はい?」  帰宅途中、声をかけられた。そちらを振り返ると、小柄な老人が立っていた。  さっき通り抜けた時は、気が付かなかった。 「なんですか?」 「いや、なに、大したことじゃないるだがな」 その翁はゆっくりと近づくと、 「家で吉報が待っているようだからな、祝福をと思ってな」 「吉報? 祝福?」 「袖振り合うも多生の縁というしな。凶事は防いだ方が良いだろう」  翁はこちらの言葉は無視して、そういうと、こちらの右腕を軽く叩く。  なんだ、この人は。普通の人ではないようだが。  そう思っていると、にかっと笑う。 「ほれ、月がない夜も気をつけろ」  背後を指さされ、振り返る。  大きな丸い、満月が出ていた。  月の、ある夜じゃないか。  そう思いながらまた、老人の方をむくと、 「あれ?」  その姿はもうなかった。  なんなんだ? と首をひねりながら、家に向かってまた歩き出す。  しばらくすると、進行方向でブレーキ音と悲鳴が聞こえた。  何事だ? 思いながら足早にそちらに向かうと、車がブロック塀に突っ込んでいた。既に人が集まり、救急車の手配をしている。  けが人は車の運転手だけで、巻き込まれた人はいなかったようだ。  もし、あそこであの老人に引き止められていければ、巻き込まれたのは自分かもしれない。右手から車が突っ込んできて。そう考えるとゾッとした。  偶然に感謝しながら、邪魔にならないように家に向かう。  ふと空を見上げると、月が見えなかった。あんな大きな月だったのに。そう思ってから、違うことに気づく。  今日は満月じゃない、むしろ新月だ。カレンダーに書かれていたマークを思い出す。  それじゃあ、さっき見た月は? あの老人は?  悩みながら家に着いたところで、そんな疑問は吹っ飛んだ。 「二人目、できたの」  妻にそう言われたからだ。  上の子から少し間が空いている。半分諦めていた。大喜びしたのは当然のことだ。  あの老人のことを思い出したのは、その二人目、娘が生まれた時だ。  彼が言っていた吉報とは妊娠のことで、凶事とはあの事故。きっと自分は巻き込まれていたのを、祝福ということで助けてくれたのだろう。  通りすがりの、月の精霊かなにか。 「だから、この子は月にまつわる名前にしようと思う。月歩とかどうかな」  上の子、息子と共に小さい娘と妻を労いながらそう言った。  ちょうど、娘が生まれたその日は、あの時見た幻の月と同じぐらい、大きくて綺麗な満月だった。
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