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10
卵の焼ける香ばしい匂いで目が覚めた。窓から差し込む光は柔らかく、二人分の温もりの残る布団へとより強固に泉を縛りつける。
んん、と小さく呻いて寝返りを打てば、あらぬ場所がじくりと痛んだ。昨夜、 というか今朝未明のことが思い出されて顔が赤くなる。望んでいたこととはいえ、随分な痴態を晒した気がする。
「あ、若起きた?」
気配で察したのだろう、キッチンに立っていた光太郎が振り返る。起きたらすぐ目の前に光太郎がいる。毎日当たり前のことすぎて忘れていたが、それは何という幸せなのだろう。
「丁度朝ごはん……というかお昼ご飯できたところだよ。お正月っぽくはなくてごめんだけど」
そういえば元旦なのだ。それどころではなくてお互いすっかりと忘れていた。苦笑する光太郎がつやつやと輝く卵焼きをテーブルの中央に置けば、いつもの食卓の完成。炊き立ての白米と麩の味噌汁、残り物の煮物と焼いたししゃも。ぐう、と素直な腹が鳴る。名残惜しい温もりに別れを告げて、泉は身を起こした。
行儀は悪いが布団の上で胡坐をかいて食卓に向かう。部屋が狭いので、仕方がない。あとで布団を久しぶりに畳まなくてはと思っていると、光太郎が「あとで久しぶりに布団を畳まなきゃね」と言うので笑ってしまった。
「はい、いただきます」
「いただきます」
きちんと手を合わせて言ってから、まずは味噌汁に箸をつける。いつもの味。いつものように絶妙に泉の好きな味。もうこれを味わえないところだったのだと思えば、いつもより一層美味しく感じられた。
「なあ、これからは俺も手伝うよ」
「あにが?」
ししゃもをばりっとひと口かじれば、頭側が半分が失われている。王子然とした容貌と物腰をしているくせに、光太郎のこういうところだけは謎に男らしい。
「飯の支度。だって昔と違って今は尽くしてもらう立場ではないし」
かつて光太郎は若桜の従者だった。それゆえ自然と泉の世話を焼いているのだろうと泉は思った。しかし今は対等な身だ。それをしてもらう義理はないと考えての発言だったが、光太郎は綺麗な顔をこれでもかというほどしかめた。その目には呆れが見える。
「あのさあ、別に僕、尽くしてるつもりでご飯作ってたわけじゃないよ」
「え」
「単に若に任せたくないだけ。だって若大雑把なんだもん。生煮えのものとか出しそうだし、包丁とか火とか怖くてやらせらんないよ」
「え、えええ」
そんな理由だったなんて。がっくりと項垂れると、光太郎が笑ってテレビのリモコンに手を伸ばす。妙にテンションの高い芸能人たちが「おめでとうございまーす!」と大声で叫んでいた。
「別にいいんじゃない、色々気にしなくても。昔も今も、ひっくるめて僕たちなんだから」
「……そうだな」
そうは言いつつも自分に対して砕けた口調で話す光太郎が、「今」をより大切にしてくれているのは伝わってくる。昔の記憶も、かつての自分も、切り離して考えることはできない。若桜としての記憶や想いは他人のそれを垣間見るのとは違う。確かに自分の中に自分のものとして存在している。だが、それを含めて泉は泉だ。今を生きているのは藤村泉という一介の大学生だ。なれば、同じく一回の大学生である烏丸光太郎を大切にしようと思うことができた。
「なあ光太郎」
「なーに、まだ何か……」
「呪いが消えたとはいえ、人生なんて何があるかなんて分からないからいつまで生きられるか分かんないけど」
テレビを見て笑っていた笑顔がすっと冷める。
「ちょっとやめてよ」
悲壮な顔をする光太郎の、箸を握るその右手をそっと握りしめる。そういえば紅牙は左利きだったが光太郎は右利きなんだな、なんてかつてと今の記憶を愛おしく思いながら。
「もしまた生まれ変わっても、今度は俺もおまえを見つけられる自信があるぞ」
その手に視線を落としたまま言えば、ふ、と笑う気配がした。
「ふふ、頼もしいこと」
「そうしたら紅牙、って声をかけたあと、光太郎、って呼ぶ。それからそのときのおまえの名前を呼んで、抱き締めるんだ」
「うん」
「ずっとずっと、昔のお前も。今のお前も。これからのお前も、愛し続けるよ」
手を、強く強く握る。これから先も一緒にいようと。この生涯だけではない。もっと長く、ずっとずっと。その度に泉は新しい泉になり、光太郎も新しい光太郎になる。今までもそれも全て含めて光太郎だ。
「うん。……僕も」
箸をカチャリと置いて。自分の手を握る泉の手のその更に↑に左手を重ねて。
「若桜さまと過ごした十九年も、若と過ごした二十年も、数えきれないほど何度も繰り返した十九年の全部も、これから過ごす未来も。全部全部ひっくるめて愛してる」
強烈すぎる愛の言葉に眩暈がする。
ふたりの間に鎮座するテーブルがもどかしい。泉はいそいそと回り込んで、その小ぶりな唇に口づけた。出汁の味がして、ふたり同時に笑ってしまった。
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