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「天気がいいから結構あったかいね」  そう言いながらも前を歩く光太郎はファーがついた深緑のモッズコートに、足元はブーツと防寒対策がばっちりである。泉もまたグレイのダッフルコートに身を包んでいるおかげで温かい。高校生の頃から着続けているものなので、光太郎には「いい加減に買い替えなよ」とよく眉をしかめられるのだが、まだ着れるのにというのが泉の主張だ。  ゆっくりと歩を進めれば、足元で雪がしゃくしゃくと音を立てる。この雪深い町に来たばかりの一年前は、ふたりではしゃいで雪とたわむれたのだった。もう随分昔の話のようだ。懐かしさにうっとりと目を細める。  ふたりはあの八幡宮へ、初詣に向かうところだった。昨夜瀕死の体で単身歩いた道を、今は光太郎と並んで歩く。あのときは必死だった。光太郎に罪を犯させてはならないと。不二の友人を失ってはならないと。そして、ずっと忘れていた胸中を光太郎に届けなければならないと、必死だった。  全てが叶って、今この瞬間がある。ああ、なんて幸せなのだろう。この感動を共有したくて、少し先を歩く光太郎に小走りで追いつき、横に並ぶとその左手を握った。光太郎は驚くこともせず、にっこりとそれを受け入れた。 「帰りは切り餅とお雑煮の材料買って帰らなきゃね」 「茶碗蒸しも食べたい」 「いいけどこの時期材料が高いんだよ」 「栗きんとんと、煮豆も。光太郎の作ったやつ」 「遠慮ないなあ」  からからと笑う。この笑い方は「光太郎」の笑い方だ。紅牙は口許だけでひっそりと笑うタイプだった。だけれど足音を極力殺して歩くこの歩き方は、紅牙の歩き方だ。恐らく泉もそうなのだろう。今の「泉」になってから養ったものと、昔の若桜がもともと持っていたものと、それらがきっと混ざり合って今の泉がある。光太郎がある。過去も、今も、そして未来さえも含めて光太郎だ。その全てが愛おしい。  大きな交差点を過ぎれば、夕暮れの近いこの時間でも結構な人出があった。人を訪ねていくもの。泉たちと同じように八幡宮へ向かうもの。買い出しに出るもの。特に意味はなく雪道を散策するもの。色々な人がいる。たくさんの人がいる。そのどこに紛れたって、その中から光太郎を見つけ出す自信がある。たとえ姿かたちが変わったとしても、絶対に気づく。なぜと言われると分からないけれど、確信めいた自信があった。 「鍋の材料とお酒は何も要らないって言ってたけど、さすがに少しは何か用意しておこうか?」 「そうだな、あいつら食うだろうし」  今夜泉たちの家に体育科の面々が集まって、泉の快気祝いと正月祝いをやる予定だった。今朝のうちに明けの挨拶と、昨日の詫び、そして全快した旨を告げるメッセージを送っておいたのだが、それからものの十分で祝いの席の開催が決まった。詫びに対する返事は、誰からもなかった。言外に気にしていないと言ってくれているのだ。本当に気のいいやつらだと思う。 「掃除もしないとだね」 「掃除? いつも光太郎が綺麗にしてくれているだろう」 「いやそうなんだけどさ、色々と始末しないといけないものがあるじゃん?」  首をかしげるが、こちらを向いてニターと笑った光太郎がいやらしい目をしていて、その意図を悟る。昨夜どころか、起床してからも二度も耽ってしまった情事の痕跡をなんとかしなければならない。カァッと顔が熱くなった。 「ウフフ、僕は何か作るから掃除は若がお願いね」 「う、う、う……光太郎ががっつくから」 「ええ? 若だって超積極的に誘ってきたじゃーん」  誘ってない、と怒鳴りかけるが、外なのを思い出して口をつぐむ。そんな様子を微笑ましく見ていた光太郎だが、歩いたまま器用に長身を屈めると、ひどく美しい笑みで泉の顔を覗き込む。そして低く押し殺した声でそっと囁いた。 「幾星霜も追い求めたこの体、何度抱いても飽き足りませぬ」  急にそんな風に男の顔で言うのだから、何も言えなくなってしまう。ずるい男だ。どんな風にすれば自分が魅力的に見えるのかをよく知っている。あまりに官能的なその笑みを直視できなくて、ファーの隙間から除く首元ばかりを見ていた。そこにはサメの歯の首飾りが下げられている。  思えばこれを光太郎が所望したのは、かつての紅牙に近づくためだったのではないかと思う。紅牙が常に身に着けていた狼の歯の首飾り。それに近いものを身に着けることで、紅牙のことを思い出させようとしていたのではないかと。  それに、光太郎の男にしてはいささか長い髪。薄い色に染めたそれも、紅牙の朱く灼けた髪を思い起こさせる。どうにか自分を思い出してもらおうと健気に思い続けてきたであろう光太郎のことを思えば、胸が苦しい。たくさん待たせてしまった分、より多くのものを与えてやらねばとも思う。 「んふ、積極的な若も好きだよ」  真っ赤になる泉の手を取って、きゅっと握りしめる。男ふたり、人目もあるところで手をつなぐことに、泉も何の抵抗もなかった。引っかかったところはそこではなかった。上機嫌で鼻歌など口ずさんでいる光太郎に対し、泉は唇を尖らせる。 「なあ、さっきから思っていたんだが、若っていうの禁止な」  光太郎が泉を「若」と呼んだのは、かつての呼び名を思い出してほしいからだ。和風王子うんぬんは後付けに過ぎない。全てを思い出した今は、誰も呼ばない泉の名をちゃんと呼んでほしかった。  痛いところを突かれたのだろう。う、と光太郎が言葉を詰まらせる。 「わかってるんだけどさあ。口がもう覚えちゃってるから」 「みんなにも少しずつやめてもらうつもりだから」  自分を「若」と。ひいては「若桜」と呼ぶのは紅牙だけで良い。あれは特別な名前だ。  みんな、という言葉が出て光太郎の顔はあからさまに曇った。はあ、と大きなため息すら口を衝いて出る。 「みんなって言えば、昨日のこと謝らないとなあ。はああ、気が重いよう」 「どこまで話せばいいんだろうなあ」  あのときの光太郎は必死だった。泉の命をつなぎとめるため。若桜の運命を断ち切るため。その呪いの原因を排除するため。周りなど気にしている余裕はなかった。  きっと立場が逆だったら泉も同じだったろうと思う。光太郎の、紅牙のためならば何を犠牲にしたって構わない、と凶行に及んでいたかもしれない。何ひとつ失うことがなくて、本当に良かったと思う。光太郎と生きるこの先の未来に、傷がなくて本当によかった。 「あーあ、考えないといけないことたくさんだね」  十九年の寿命という、ふたりにとって一番の危機は脱した。だがこれからも順風満帆とは限らない。かつてのように身分という厄介な壁は存在しないが、性別という障害は残る。それにふたりはまだ大学生だ。社会に出るようになってから、仕事で忙しくてすれ違うこともあるかもしれない。遠い地で働くことになるかもしれない。  だが、そんな「普通の恋人」が抱くような問題で悩めること自体が、泉は嬉しい。ようやく始まったのだ。若桜と-紅牙の、そして泉と光太郎の未来は。 「まあ、時間はたくさんあるんだし。ゆっくりやっていこう」  幾星霜。光太郎が魂を削って追いかけてくれた時間。その何倍もの未来を生きてみせる。その傍らには常に光太郎がいるはずだ。  手をつないだまま、晴れ渡った空を見上げる。日差しが温かい。今日は雪が溶けるかなとつぶやけば、隣で光太郎がそうだねと微笑んだ。
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