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「……くん。シナハラくん? ちょっと、大丈夫?」
へちゃ先輩の呼びかけに遅れて気づく。知らない内に没頭していたらしい。
今でも、思い出すたびに生々しい感覚が蘇り、鳥肌が立つ。
俺は無意識のうちにため息をついた。
親元を離れ、一人でも立派にやっていこうと意気込んで。
現実は、夜の自動販売機にジュースを買いにいくことさえできない。
どこに出しても恥ずかしい男の出来上がりというわけだ。
まったく、反吐が出る。
「そうだよねえ……話を聞いただけの私でも怖かったもの。シナハラくんはもっと怖かったよねえ」
先輩は赤い顔のまま、うんうんと頷く。
「でもでも、今日は十五夜なんだよ?」
――その言葉に、俺の顔から表情が消えた。
9月13日の夜に、先輩の楽観的な声が鳴り渡る。
「空も晴れてて、雲ひとつないしさ。きっとお月さまも見守って――」
「俺が襲われたときだって、満月でしたよ!」
先輩の言葉が終わるのを待たずに、余裕のない怒声が響く。
俺はあなたほど気楽でもなければ、季節を楽しむ優雅さも持ってない。
もう、月明かりは信用しないことにしてるんだ。
はあ、はあ、と荒く息をするたび、胸が苦しくなっていった。夜の刺々しい空気が肺の奥底まで染み渡っていくようだった。
「……すいません。もう帰ります」
先輩は俺の変貌に少しびっくりした顔をしている。酔いも完全に醒めてしまったに違いない。
そう。先輩のさっきの発言は、酔っ払って出たものだ。
本気で言ってるわけじゃないのは分かっている。
……そんな言葉にいちいち過剰反応しているようでは、お互いを不愉快にさせるだけだろう。
横目でちらりと遠くを見る。そこではコンビニが暴力的な光を放ち、夜の暗闇を削り取っている。
出来ることなら、今すぐあの中へ逃げ込んでしまいたいのだ。過剰な照明と膨大な色彩で頭の中を塗り潰してほしいのだ。俺がなにかを考える暇も、感じる暇もないほどに。
俺は先輩の返事を待たずに歩き始めた。
あそこの曲がり角を過ぎて、先輩の目が届かなくなったら全速力で走って帰ろう。――そんなことを思いながら。
「……待って、シナハラくん!」
だが。へちゃ先輩は行かせてくれなかった。
もっとはっきり言わないと分からないのだろうか、と俺の中に冷たい感情が生まれた。
「いい加減にしてください、せんぱ――」
けど、振り返った俺は何も言えなくなった。
へちゃ先輩があまりに真剣な表情をしていたから。
「ごめん、シナハラくん。さっきは、すごく無神経なことを言っちゃったと思う」
……やめてくれ。
どうして、そんな風に俺に構うんだ。
俺の気持ちも知らないで、先輩はさらに言葉を続けた。
「私に、もう一度チャンスをくれないかな?」
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