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かぐや姫を帰らせたい!
十六連勤という悪夢のような地獄を乗り越えた、華の金曜日。
待ちに待った連休だ。気分は超ハッピー。
駅のコンビニで酒を買い、ふらふらと帰路に着いていた。
缶チューハイがカシュッと美味そうな音を立てる。ああ、カフェイン以外の水分が、三十路の身体に染み渡っていく。
限界を超えた疲労に、ほろ酔い。
これなら二十四時間寝るのも夢じゃない。
自宅までの住宅街に人通りは無く。家々の明かりは寝静まったように消えていた。夜道を照らすのは等間隔の街灯と、やけに眩しい月明かりだけ。
ふと空を見上げれば、今夜は満月だった。都会の薄汚れた空気でも、くっきり見える真ん丸。なんだか普段よりも大きい気がする。
子供でもないのにワクワクしてきた。これから寝るっていうのに、何を考えてんだ俺は。
ちょっと頭を振って、軽く目眩を起こして。ガリガリと髪を掻いた俺は、気だるく正面に視線を戻した。
「……ん?」
遠目に見て、なんの間違いかとゴシゴシこする。
二個先の街灯に、誰か居た。
今まで気付かなかったのは、そいつが小さく蹲っていたからだ。死に装束のような真っ白い服を着て、おかっぱの短い黒髪も相まって、なんだか場違いに思える。
やべぇ。不審者だ。
このまま気付かない振りをして、回り道でもしようか。
そんな矢先――顔を起こした不審者と、目が合った。
ばっちり、数秒も。
どうする。見なかったことにして引き返すか。いや、変に追いかけられたら堪ったもんじゃない。
まるで獲物でも狙っているかのように、俺から目を離さない不審者。怖いよ、だいぶ怖いよ。
ここは静かに素通りしよう。
缶チューハイをチビチビ煽りながら、ゆっくりと歩き始めた。
近付いてみて気付く。
よく見れば、不審者は女の子だった。俺とは一回りも年の差がありそうな、まだ未成年らしき娘。まあ害は無さそうだ。
こんな夜更けに街灯の下で蹲って。家出か? それともコスプレパーティーの帰りに財布でも落としたとか。
……そうじゃねぇだろ。他人の心配なんてしてる場合か。
こっちは疲れてんだ。おまけに眠い。
近頃じゃ、おっさんが冤罪で逮捕されるケースなんてザラだ。声をかけただけで痴漢扱い。もし捕まれば仕事も交友関係もパー。そんなのは御免こうむる。
警戒しながら、俺はコスプレ娘の横を通り過ぎた。
少し離れ、チラッと後ろを振り返る。そいつはガックリと肩を落として、またダンゴムシのように丸まっていた。小さな呻き声すら聞こえてくる。
誰かと待ち合わせしてる……わけでもなさそうだ。
なんだよ、これ。ずくずくと胸の中が気持ち悪い。
社会人として、男として、人として――そんな風に、なけなし良心が責め立てた。
激しく頭を振って、盛大に吐き気を催して。ガリガリと髪を掻いた俺は、だぁーっと息を吐いた。
捨て猫を拾う気分ってのは、こんな感じなのかもしれない。
「そこで何してんの。家に帰れないのかよ」
降って湧いた言葉に、コスプレ娘は顔を上げた。
色白の肌、太めの眉、どこか日本人離れした目鼻立ち。紅もしてない唇と、うるんだ目の下は薄っすらと赤い。
「こんな時間に女の子が一人じゃ危ないだろ」
呆けたように瞬きさえしない。人の話聞いてんのか、こいつは。
「タクシー代くらい出してやるから、さっさと帰――」
「あのあの!」
「ぉわ!?」
いきなり立ち上がるんじゃない、頭突きでもする気か!
コスプレ娘は目を見開いて、胸の前でギュッと両手の指を組んだ。さっきまでの落ち込んでいた表情はどこへやら。まるで獲物が食らいついたハンター。
やべぇ、殴られる。
思わず身構えて、腰が引けたところで。
「どこのどなたか存じませんが、リュナを養ってください!」
「…………え」
スポットライトのような街灯の下、コスプレ娘のお願いにビビる中年。
俺は何食わぬ顔で身構えていた手を下ろし、「なんだって?」と聞き返した。
「だから養ってください! あのね、リュナ、あの、いけると思って飛んだんだけど、誰も通らないし来ても逃げちゃうし、とにかく困ってて!」
困ってるのは俺だよ。早口な上に意味不明で、さっぱり分からん。リュナってのはニックネームか?
「落ち着け」と肩に手を置こうとして思い留まる。
冷静になるのは俺もか。缶に残った酒を飲み干して、一息つく。
「面倒事は嫌なんだ。警察に通報したくもないし。大人しく家に帰れよ」
「えー! でもでもリュナ、何もしてないまま帰るなんて!」
「何もしてないって……何するつもりなんだよ」
「それは、その、誰かに養ってもらう、です」
「帰れ」
「できないって言ってるじゃないのー!」
なんだ、こいつは。新手の援助交際か。バカらしい。
生憎だが俺は遊んでる時間なんて無いんだよ。来週も仕事が待ってんだから。しっかり休まないと。
……あっ、なんだろ悲しい。
もういい、付き合ってられん。俺は財布から五千円札を抜いて、リュナとかいう娘に差し出した。
ほら、ポカンとしてないで受け取れ。
「これでタクシーでも拾え。どこに住んでるのか知らないけど、足りるだろ。無理ならネカフェにでも泊まって、明日の電車で帰るんだな」
「わー! これ、お札だよね!? すごーい、本物!」
「…………」
金を受け取るどころか、指差して喜んでる。
わかった、これはアレだな。アニメか漫画のキャラに成りきってんのか。
俺、おちょくられてるよな。
こんな奴にかける人情も無いだろ。思わず舌打ちが出る。
「ともかく受け取れ! 掴め、ほら!」
「わぁ、あー! わっ」
最後の情けで無理やり金を握らせる。酔った勢いってヤツだ。これで気持ち良く寝られるなら安いもんだと考えよう。
「じゃあな」と言い捨てて、その場を後にする。
そう、こんなのは自己満足だ。やるだけ損する偽善。こういうことばっかしてるから、必要以上に仕事が回ってくるんだ。いい加減に反省しろよ、俺。
大きな溜息と共に、項垂れようとしたところで――後襟が引っ張られた。
「ぐへぇ!?」
「えっ、あっ、ごめんなさい!! 違うの、リュナ、あなたを止めたくて!」
いいから手ぇ離せ、首締まってるから!
後ろ手に何度もタップすると、ようやく締め付けが緩んだ。
「ッてぇんだ――よ」
鬼の形相で振り返るも、コスプレ娘を見た瞬間に怒りが消え失せる。
からかってる奴が、こんな泣きそうな顔できるもんなのか?
う、と喉元まで出かかっていた文句が引っ込む。
ああ、まいった。
本当に困ってるなら助けてやらなくもない。貧乏クジだと知りながら、そう思ってる。
「リュナに声かけてくれたの、あなただけで……暗いし怖いし帰れないし」
「わかった。わかったからメソメソするな家出娘。面倒だけど事情くらいは聞いてやる。だから泣くな」
この『泣くな』という一言が、悪かったらしい。
やっと出会えた世話焼きに、緊張の糸が解けたのか、びーびー泣き始めやがった。
深夜、道端でコスプレ娘に泣きつかれる三十路。
面倒だなと、伸びた無精ひげを擦った。何してんだか。これこそ警察に見られたくない光景だ。
泣き止むのを待った俺は「とりあえず家の場所くらいは教えろよ」と促した。
まだ喋るのは無理らしく、しゃくりながらリュナは腕を持ち上げる。
何かを指差す。
つられて俺も目で追うと。
「……それも、アニメや漫画の設定か?」
リュナが指し示したのは、街灯よりも柔らかな光。
夜空に輝く、お月様だった。
△▼△▼
「ほらよ、これでも飲んで落ち着け」
ベンチと砂場しかない公園。歩いて三分もあれば自宅まで着く近所。
できることなら今すぐベッドへダイブしたいのに、俺は自販機で買ったジュースを誰だか分からん娘に渡してる。
「わっ、冷た! これ冷たい!」
「なに当たり前のこと言ってんだ。常温の方が怒るわ」
「ヒエヒエ~」
「……良かったな」
ひとまずベンチに座らせたリュナとか名乗るコスプレ娘。ここまで連れてきて分かったのは、見た目以上に中身が幼いということだ。
世間知らずも、この域まで行けば立派な非常識だと、思い知らされた。
「ほっぺたに付けてないで飲めよ」
「どうやって?」
「なんで知らないんだよ。開けるんだ、こうやって」
酔い冷ましに自分の分も買った水。ペットボトルのフタを回して外す。それを傾けて、飲み方までレクチャーしてやる。
そんなキラキラした目で見られてもだな。
「ふぐぐぐ……あ、とれた」リュナは嬉しそうに口をつけて「うぅ、変な味ぃ~」と渋い顔になった。
「嫌いなジュースだったか?」
「んーん、飲んだことないの。そっち頂戴!」
「……俺が口つけた後だけど」
「やー、こっち変な味するんだもん!」
少し考えて、別に恥ずかしがる歳でもないかと頷く。
リュナは手渡されて躊躇いもせず「ぷはぁ、やっぱり水だよね」と美味そうに飲んでる。
その珍妙な様子を眺めながら、俺はドカリと隣に座った。
「んで、家出した理由は?」
「……えっ!? リュナ家出じゃないよ~」
「嘘つくな。養ってくれとか言ってただろ。家出じゃなかったら何だって言うんだ」
「うーん、えっと、社会勉強?」
「とっとと帰れ」
「なんでぇ!」
「いいか……そういうのはな、軽々しくやるもんじゃないんだ。今頃お前の両親だって心配してるかもしれない。あ、いや、ダメな両親だとしてもだ、簡単に自分を安売りすんなって話」
「何の話?」
「お前の話だよ! ちゃんと聞いてろよ!」
大方こいつは、どこぞの箱入り娘なんだろう。それならズレた物言いも納得できる。教育係を叱ってやりたくて仕方ない。
帰れないじゃなく、帰りたくない。そう言うからには、帰り方が分からないわけでも無さそうだ。
「援助交際が社会勉強って何だよ。マシな言い訳しろって」
「えんじょこーさい?」
「……おっさんが金払って、年頃の娘と仲良くするヤツだ」
「それ! したい!」
「俺は嫌だっつーの! 他所を当たれ! やっぱ帰れ!」
「今戻ったら怒られるから!」
「誰に」
「みんな。お父さんに、お母さんに、他の人からも」
援助交際しないと怒られるだと? どういう家庭環境だよ。
「お前、どこから来たんだっけ」
「もう忘れちゃったの? 月だよ。つーきー。リュナはね、月から来たの」
頭が痛くなってきた。これは疲れや酒の所為じゃないと思う。
純粋な夢は、あまり壊したくない信条なんだが、人助けなら止むを得ない。
アニメだか漫画だか知らないが、論破して目を覚まさせてやる。
「月から来た、ね。それじゃあ日本語も分かるはずないよな」
「え、どうして? リュナ話してるのに」
こっちが聞きてぇんだよ!
おっと。待て待て、熱くなるな。
「広い地球で、わざわざ日本の住宅街に来るのが分からん。都合良く日本語を喋れるのも」
「それは……あの、リュナね、日本語しか勉強してなくて。でもでも、お友達からは『リュナちゃんにしては偉い』って褒められたんだよ」
なるほど。日本語が喋れるから日本に来たと。まだ一応、筋は通ってるな。
「なんで月の連中が日本語なんて知ってるんだ?」
「やだなぁ、近くの星だもん、それくらい知ってるよ~」
ペットボトルの開け方は知らないのにな。
「昔お母さんもね、リュナと同じで、日本に行ったんだって。だからリュナも日本語を習ったの!」
褒めて欲しそうに照れながら話すコスプレ娘。
作り話にしては、やけに細部まで凝ってるな。こいつ、意外にも策士で、今も心の中で俺を嘲笑ってるんじゃないだろうな。
「んぐ、んぐ……ぷはぁ、ごちそうさまでした! 飲み終わったコレ、貰ってもいい?」
「ああ。俺の分も、やるよ」
「やったぁ、ありがとう! おみあげにするね! あれ、おみやげ? おみあげ? どっちだっけ」
とても騙している風には見えない。それすらも演技なのか。素で洗脳でもされてるのか。
少し試してみても、いいかもしれない。
「月の表面には住めないよな。なんたって空気が無いし」
「そう、中なの。大昔にね、人が住めるようにしたんだって」
「どのくらい昔だ?」
「え、え、知らない……たぶん習ってるけど」
「そこから社会勉強として地球に来てるわけか。誰かに養ってもらうの前提で」
「しきたり、なんだって。地球に行って、地球の人と仲良くなって、一人前になるの。あ、全員じゃないよ。うちは、そうするんだって」
月から来て、いつか帰る。
まるで『かぐや姫』だな――俺が呟くと、リュナは目を輝かせて「それ!」と叫んだ。どうやら、ご近所迷惑も教わってないらしい。
「それって……どれだ?」
「だから『かぐや姫』! リュナも『かぐや姫』なんだって!」
もうさ、帰りたいんだけど。
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