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だが、そう長く楽しんでもいられない。
「旦那様、もうそろそろん出勤のお時間では?」
「ん?」
憐に促された父が壁掛け時計に視線を向ける。
現在、午前七時半。
「うぉぉぉぉぉぉぉっ~、母さんの手料理に舌鼓を売っていたらこんな時間か~!」
父がまるで、箱から飛び出したビックリ箱の人形の様に、勢いよく立ち上がる。
「お父さん、急がないと遅刻どころじゃないよ~!もしかしたらお給料減らされたり降格されたりクビになったり…あ~大変だよ~!」
「あ~そうなれば私たちは家を追い出され、何も食べれず飲めず学べず…あれ~大変ですわ~」
「おい、奏様はとにかく、そこの姉、それは少々大袈裟すぎるだろうよ…」
「い~やいや緋壱君、こうも急がなきゃホントに…っといけない、じゃあ、行ってきまぁ~…」
「お父さん、待って」
「あ、ごめんごめん、急いでて忘れてたよ~。はい」
「それじゃ、ん」
チュッ。
父を引き止めた母が、父の頬に口付けをする。
父の顔がほころぶ。
「…そのバカップル振りもいい加減にしてもらわないと、いつかお子様も呆れかえりますよ…」
憐は額に手を当てながら、熱すぎる夫婦の光景に呆れる。
「それに、ハイ。忘れていったら上司の人に怒られるわよ?」
母は、父にビジネスバッグを手渡す。
「ああ、本当にごめん。はは…僕はいつも慌てやすいからね…」
「ホント、ちゃんとしてよ?」と、母は愛する夫の頬に口づけをする。
「じゃ、母さん、歌音、奏、行ってくるよ。あと緋壱君、今日もよろしく頼むよ」
「行ってらっしゃ~い!」
「行ってらっしゃい」
「行ってらっしゃいませ、旦那様」
「毎日の事だけど、くれぐれも気をつけてね。お父さん」
「分かってるって、僕は大丈夫だから。じゃ」
父は、三人に手を振りながら居間から急ぎ足で飛び出していった。
「それでは奏ちゃま、そろそろ部屋に戻りましょうか」
「そうね。では姉さん、お先に」
奏は憐に付き添われ、居間から出て行った。
居間に残った母は家族が平らげた後の食器を台所で洗い流し、歌音は食べ終えたばかりながらも既に元気良く立ち、外出の支度を済ませていた。
「あ、歌音ちゃん、ちょっと」
「ん?」
母が、出かけようとした歌音を引き止める。その手には、綺麗に畳まれた白いナプキンが握られていた。
母は、そのナプキンで、歌音の顔についた調味料汚れを拭う。
「ちゃんとお顔拭かなきゃ、みっともないでしょ?」
「あはは…ごめん」
自分の無頓着さに、笑いながら謝るしかない歌音。
そんな日常の風景をよそに、ピンポーンと、インターホンの音が部屋に鳴り響く。
「あら、誰か来たみたい。ちょっと見て来るわね」
娘の顔を拭き終えた母が、玄関まで急ぎ足で歩いていく。
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