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「ねぇ、桃。私が引っ越す日に桃が言ったこと、覚えてる?」
言いながら葵が桃の口元にオレンジピールを差し出した。桃は首を横に振った。食べようと口を近づけると、葵がそのオレンジピールを食べてしまった。ムッとして睨みつけると、
「“あおくん”なら転校してもたくさん仲良しな子ができるよ、って言ったのよ。桃はときどき酷いことを言うのよね」
葵は眉をひそめ、喉を鳴らしてオレンジピールを飲み込んでしまった。どこが酷いのだろう。小学生が転校する友達に向けて言う言葉としては上出来な部類だと思うが。むしろたった今、子供じみた意地悪をした葵の方がよほど酷いと思うのだが。
「桃が言ったとおり、仲良しな子はできたわ。でもね、そうなの。違うの」
拗ねてそっぽを向く桃の頬を、葵の両手が包んだ。思わず顔をあげると、葵は柔らかな笑みを浮かべていた。
「……うれしい」
葵に引き寄せられ抱きしめられて、桃の心臓がドクンと跳ねた。ふわりと、葵の首筋から柑橘系の香りがした。
「私もずっと感じてた。居心地の悪さ。私が転校生だからしかたないのだと思ってた。でも違った。桃も同じように感じていてくれた」
綾にもよく抱きつかれるけれど、感じるのは安堵感だった。綾と自分は友達なんだ。友達として受け入れてもらえてるんだ。そういう安堵感だ。
でも今は違う。胸がドキドキして、きゅっと切なくて。なのにどうしようもなく安心して、すべてが溶けていってしまいそうになる。境界があいまいになる。
「桃が言うとおり、綾さんと明日香さんは友達なのかもしれない。でも桃が感じていた居心地の悪さの原因は、求めていたモノは別のモノなのよ」
「親友……ってこと?」
桃の体を抱きしめたまま、葵は桃の顔を覗き込んだ。うるんだ瞳が桃を映して、すっと細くなった。
「桃の一番は私で、私の一番は桃ってこと」
それは親友とは違うのだろうか。首を傾げる桃の前にオレンジピールが差し出された。
「桃が私を“あおくん”にしたかったのも、きっとその感情に納得するためね」
「それって……」
――どういう意味?
そう尋ねるよりも先に葵の指が桃の口にオレンジピールを押し込んだ。桃が顔をあげると、葵はにっこりと笑った。
「綾さんと明日香さんにはきちんと謝るわ。私も桃の友達と友達になりたいから」
指先に残った砂糖を舐めて葵が言った。あまりにもいい笑顔に完全に尋ねるタイミングを逸してしまった。桃にできることと言えば、こくりと頷くことくらいだった。
綾は大丈夫だろう。誤解だと説明すれば。桃と葵が謝れば。きっと綾は笑って許してくれる。綾はそういう子だから。
でも明日香はどうだろう。明日香とのことは葵が原因じゃない。二学期になってからの明日香の態度の理由が、桃にはわからないままだった。
「明日香さんのことなら大丈夫よ」
桃の心の中を見透かしたかのように葵が言った。どうしてそんなことが言いきれるのだろう。桃の疑問を見透かしたかのように葵が微笑んだ。
「明日香さんの態度が変わる前、桃と綾さんのあいだに何かなかったかしら。二人ででかけた、とか」
「明日香は夏期講習があったから、たまに綾と桃とだけで遊んだりしたけど……でもカフェで喋ってただけだよ?」
葵の質問の意図がわからないまま、桃は首を傾げながら答えた。
「充分よ」
ぴしゃりと言い放って、葵は唇を尖らせた。
「きっと明日香さんはそのときに気づいてしまったのね。桃はわかっていたけれど、綾さんも酷いのね」
「別に仲間外れにしたとかじゃないじゃん」
桃はムッとして葵を睨みつけた。葵は目を丸くして桃を見つめたあと、
「そういう無自覚なところが酷いって言ってるのよ」
目を細めて困ったように笑った。
「たぶん明日香さんと私は似ているのよ。独占欲が強くて、嫉妬深い。だから私が明日香さんと話すわ。任せて、桃」
こつん、と。桃の額に自身の額を押し付けて、葵は微笑んだ。葵の微笑を上目遣いに見て、桃は唇を尖らせた。
桃には葵の言っていることがやっぱりわからなかった。葵は明日香と自分は似ていると言った。もしかして明日香なら葵の言っていることがわかるのだろうか。そう考えたら桃の胸がざわりと騒いだ。
でも、それも一瞬のことだった。額から伝わる体温と漂う柑橘系のいいにおいに、桃は静かに目を閉じた。深く息を吸い込むと、
――……おいしい。
口の中に残っていたオレンジピールの甘さが広がった。
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