第一話

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 四時間目の終了を告げるチャイムの音に桃は思い切り伸びをした。ようやく昼休みだ。桃はカバンの中に入っているお弁当箱を取り出して振り返ろうとして、 「綾、お昼だよ。お弁当にしよう」  明日香の明るい声に動きを止めた。 「お腹すいたぁ。ほら、桃も早く席くっつけて! ほらほら~!」  綾に背中をつつかれて、桃は慌てて振り返った。綾の笑顔につられて桃も笑みを浮かべた。明日香が空いている近くの席からイスを持ってきて腰かけた。  桃の後ろの席に座っている綾は髪の色もメイクもちょっと派手めな子だ。明日香はクールでしっかりものといった感じの子。綾が暴走して、桃がうっかりやらかして、明日香がフォローする。入学式の日に綾に声をかけられて以来、いつも三人いっしょに過ごしてきた。高校でできた桃の友達だ。  綾と桃の席をくっつけて、三人そろってお弁当のふたを開けた。早速、綾が身を乗り出した。 「ねぇねぇ、今日の放課後。隣駅のパンケーキ食べにいかない?」  綾の突然の誘いに桃も明日香も目を丸くした。今日の放課後は明日香の家で映画を見ようと先週から約束していたのだ。今朝も楽しみだね、と言っていたのに。 「前に食べたいって言ってたじゃん! 今日、行こうよ!」 「いいね。じゃあ、今日の放課後はパンケーキね」  桃と同じ疑問が浮かんだはずなのに明日香はあっさりと頷いた。約束を忘れているわけじゃない。気分が変わっただけ。綾はこういう子なのだ。 「うん、いいね!」  桃も慌てて頷いた。別にどうしても映画が見たかったわけじゃない。パンケーキの店に行ってみたいと言っていたのも本当だ。 「やっぱり生クリームたっぷりのやつがいいかな?」 「フルーツもいろいろ乗ってるって! もう、楽しみ!」  首を傾げる桃の顔を、身を乗り出した綾が見つめた。邪気なく目を輝かせる綾に桃は苦笑いした。見た目はキツメのギャルだけど、中身は無邪気で人懐っこいのだ。 「フルーツとビターチョコソースのもおすすめって記事には書いてあったよ」 「うっそ、どっちも気になる!」 「どっちも頼んでシェアっていうのもありだよね」  明日香は静かな口調で言って、スマホを操作する綾の手元をのぞき込んだ。パンケーキ屋のメニューを調べているのだろう。綾はすっかりスマホにかじりついていた。明日香はちらっと桃に目を向けたが、  ――まただ。  すぐに綾に視線を戻してしまった。桃はなんとか微笑みを保ちながら、しかし違和感に唇を引き結んだ。と、――。  不意に教室がにぎやかになった。振り返ると転校生の葵とクラスメイトたちがぞろぞろと教室に入ってきたところだった。予想通り、葵は午前中の十分休みすべてをクラスメイトに囲まれて過ごしていた。昼休みになっても勢いはおさまっていないらしい。一番前の席に葵が座るとあっという間に人だかりができてしまった。 「辻さんって元々このあたりの出身なんだよね? 小学校はどこ?」 「うちの小学校だったよね。覚えてる? 同じクラスだった加藤なんだけど!」 「ごめんなさい。小さかったから覚えていなくて」  聞こえてきた加藤と葵の会話に桃は目を丸くした。加藤と同じなら桃とも同じはずなのだが――あんな美人、記憶にまったくない。  取り囲むクラスメイトを見上げてにこりともしない葵の表情からは、クラスメイトの態度を好意的に受け止めているのか、迷惑に思っているのか、読み取ることはできなかった。 「ねぇねぇ、辻さんも誘ってみよっか!」  突然、響いた声に桃は視線を綾に戻した。あれだけクラスメイトから話しかけられて一言二言しか返さないのだ。愛想が良い方とは思えない。そんな葵が初対面で、それも当日の放課後に遊びに行こうなんて誘われてOKするだろうか。 「そうだね、誘ってみるだけ誘ってみようか」  桃が迷っているうちに、また明日香が先に同意した。慌てて桃も頷いた。 「うん、そうだね。誘ってみよう!」 「じゃあ、桃! 辻さんに言ってきて!」 「ダメ元、ダメ元」  流れるように言う綾と明日香を見つめ、桃はかたまった。 「私が誘うの?」  綾と明日香はそろって頷いた。二人の顔をまじまじと見つめたあと、 「ダメ元だからね。断られても怒んないでよ?」  桃は深々とため息をついて立ち上がった。にこにこと笑って手を振る二人に見送られ、桃は葵の席へと向かった。 「ねぇねぇ、シンガポールってどんなとこ?」 「他にもあっちこっち転校したの? やっぱり親の仕事の都合?」  ひっきりなしに質問されて、口を挟む暇がないのか。それとも口を挟む暇がないのをいいことに、黙り込んでいるのか。葵はクラスメイトの顔を見上げるだけで口を開こうとしない。  クラスメイトたちの輪のすき間を縫って、桃は葵の斜め後ろに立った。どうせ断られるに決まっている。わかりきっている分、気楽だ。もしかしたら返事すらないかもしれないけど、それはそれで断られたのと同じことだ。 「私は立石 桃。よろしくね。今日の放課後、友達と隣駅にあるお店にパンケーキを食べに行くんだけど一緒に行かない?」 「海外を転々としてたってことは英語も喋れるの?」  桃が話しかけた直後に他の誰かがまた話しかけた。これは答えは返って来ないだろう。言うだけ言ったのだ。役目は果たしたときびすを返して人の輪から抜けようとして、 「あの、待って……!」  腕をつかまれて桃は足を止めた。クラスメイトたちのおしゃべりがぴたりと止んだ。突然の静けさに慌てて振り返ると、葵がじっと桃の顔を見つめていた。  間近で見ても肌のキメが細かくて白い。黒髪には天使の輪ができている。葵が近寄ってきて気が付いた。微かに砂糖菓子と柑橘系の良いにおいがした。  葵は桃の顔をまじまじと見つめたあと、そっと手を離してイスに腰掛け直した。ただし顔も体も桃の方を向けて。 「今、なんて言ったかしら」 「え、えっと……今日の放課後、パンケーキを」 「行くわ」  食い気味に、しかも大真面目な顔で頷く葵に桃はあいまいな笑みを浮かべた。断られるつもりで声をかけたのだ。予想外の答えに次の言葉を全く考えていなかった。 「じゃあ……えっと……」 「放課後、声をかければいいかしら」 「う、うん」  戸惑っているうちに話の主導権を葵に握られてしまった。 「それじゃあ、辻さん。また放課後ね」  そう言って話を切ると、桃は早足でクラスメイトたちの輪から抜け出した。 「辻さんって甘いものが好きなの?」  桃が輪から抜けるとクラスメイトの一人が尋ねるのが聞こえた。わずかな間のあと、 「おいしいものは、なんでも好きです」  葵が答えるのが聞こえた。 「じゃあ、この店はどうかな?」 「いやいや、女子ならこっちでしょ! 今度、いっしょに行かない?」  あっという間に再開されたクラスメイトの質問攻めに、桃はほっと胸を撫でおろした。教室にできた沈黙はとても居心地の悪いものだったから。  桃は振り返ってクラスメイトに囲まれている葵を見つめた。他のクラスメイトからの誘いに葵はなんと答えたのだろう。桃がいる場所からでは葵の声を聞き取ることはできなかった。
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