第二話

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 店の奥にあるドアを開けると左手に個室が、右手には洗面台があった。洗面台で口をゆすいで、鏡をのぞく。桃はため息をつきながら前髪を整えた。  食べられるかなと思っていた大量の生クリームは明日香の様子を気にしているうちになくなっていた。食べたのは間違いなく桃だ。でも記憶がほとんどない。 「キウイ、イチゴ、バナナ……」  乗っていたフルーツを数えてみた。あとは何が乗っていただろうか。生クリームもパンケーキも甘かった気はするのだけどぼんやりとしていて思い出すことができなかった。そういえば今日のお弁当の味も、なにが入っていたかも思い出せない。どんな味だったっけ。思い出そうと記憶を探っているうちに、 「おいしいものが食べたいなぁ」  ぽつりと。ため息交じりの言葉が漏れていた。 「おいしくなかったの?」  ぽつりと。言葉が返ってきた。鏡越しに確認すると桃の後ろに葵が立っていた。 「いつから……!?」 「キウイ、イチゴ、バナナ……のあたりから。あとオレンジと黄桃、マンゴー、ブルーベリーにラズベリーも乗ってたわ」  気付かないうちに葵が立っていたことにも。乗っていたフルーツを数えていたことを見透かされたことにも驚いて、桃は目を丸くした。桃の表情を見て、葵は微笑んだまま小首を傾げた。 「やっぱり私と同じオレンジとビターチョコか、オレンジと生クリームにするべきだったんじゃないかしら。桃は柑橘類が好きだったじゃない」  桃が使っていた洗面台で手を洗いながら、葵が真剣な表情で言った。桃は一歩下がって葵の背中を見つめた。葵の口振りはまるで前から桃を知っているかのようだ。そういえば――。 「辻さんって私と同じ小学校だったんだっけ」 「そうよ。もしかして覚えてない?」 「加藤のことは覚えてないって……どうして私のこと……」 「桃は大切な幼なじみですもの。忘れるわけないわ」  幼なじみ? と桃は眉をひそめた。桃が幼なじみと認識している子は一人しかいない。桃の家の隣に住んでいた子だ。桃の近所は老夫婦が多くて、幼稚園、小学校と同じだったのはその子だけだった。でもその子は――。 「男の子だ、って思ってるんでしょ?」  また見透かしたように言って、葵は意地の悪い笑みを浮かべた。その微笑みに既視感を覚えて、桃は手のひらで前髪を押さえた。  そう。桃の幼なじみは男の子だ。確かに女の子みたいにきれいな顔をしていた。でも黒い髪は短くて、いつもズボンを履いていた――ような気がする。 「そうだと思った。桃、いつも私のことをあおくん、あおくん、って呼んでたから」 「ほんとに“あおくん”なの?」 「もちろん。――いつ気が付いてくれるか楽しみにしてたのに。桃ってば綾さんと明日香さんばかり見て、私のことなんて全然、見ようとしないんだもの」  葵は唇を尖らせてツンとそっぽを向いた。  ――そんなこともないんだけど。  でも葵の拗ねた表情や間近で見た目の綺麗さに見惚れてたなんて言えるわけがない。桃が唇を引き結んで俯くのを見て、葵は勘違いをしたようだ。短くため息をついて、そうだ、と呟いた。 「じゃあ、桃と“あおくん”しか知らない秘密の話を一つ」  え、と思うよりも早く、葵は桃の耳に顔を寄せた。 「私の好きなものだから、大好きなあおくんにも食べてもらいたかったんだ」  桃はくすぐったさに耳を、囁かれた言葉の恥ずかしさに口元を手で押さえて飛び退いた。と、言ってもあとずされるほどの空間はない。すぐに洗面台にぶつかって仰け反るような姿勢になった。 「覚えてない?」  哀しげな表情で尋ねる葵に、 「知らない!」  桃は金切り声で言い返した。今の今まですっかり忘れていた。でも言われてみれば確かに小さい頃の桃自身が言ったと思い出せた。できることなら忘れたままでいたかったけど。  桃の反応に葵はすぐに口元を緩ませた。嬉しそうに微笑む葵を、桃は唇を噛んで睨み付けた。 「バレンタインは溶かしたチョコの上に細かく切ったオレンジピール。小学校三年のときにはお洒落になってオランジェット。私が転校するときはオレンジピールと紅茶のシフォンケーキ。桃は柑橘類が大好きだったものね」  “あおくん”にプレゼントしたものまで言い当てられ、桃は頭を抱えた。にこにこ顔の葵が恨めしい。  どうやら桃の幼馴染は――初恋の相手は、男の子ではなく女の子だったようだ。
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