第三話

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 桃は玄関に飛び込むとドアのカギをかけ、靴を脱ぎ捨てて階段を駆け上がった。 「ただいまくらい言いなさい!」  階段下から母親の怒鳴り声が響いた。 「もうすぐ夕飯だから、着替えて早く降りてらっしゃい!」 「いらない! お腹すいてない!」  桃は階段下に怒鳴り返した。母親が文句を言っているのが聞こえたけど、乱暴に自部屋のドアを閉めてシャットアウトした。お腹がすいていないというのは本当だ。まだ生クリームが腹の底に残っているようだった。  カバンを部屋の隅に放り投げた。朝のまま、カーテンが開けっ放しだ。桃は窓に歩み寄ってカーテンを閉めようとして、隣の家を見つめた。  桃の部屋の向かいが“あおくん”の部屋だった。“あおくん”の部屋には明かりがついていて、レースのカーテン越しに人影が見えた。長く真っ直ぐな髪のすらりと背の高い――間違いなく葵の姿だ。現実に桃は深々とため息をついた。  隣の家の明かりは玄関先と“あおくん”の部屋しかついていなかった。他の部屋は真っ暗だ。ふと“あおくん”の部屋の明かりが消えた。しばらくするとリビングの明かりが付いた。  ――今日もご両親、仕事でいないのかな。  桃はカーテンを閉めて、窓の脇に置かれた背の高い本棚に足を向けた。  “あおくん”の両親は仕事で家を空けることが多かった。“あおくん”は一人で留守番していることが多かった。お手伝いさんが作るご飯は彩りも栄養バランスも完璧で、たぶん味も完璧に美味しかったはずだ。でも庭に面した窓から覗くたび、“あおくん”はいつも美味しくなさそうに食べていた。  本棚の一番上の段にしまってあったクマ柄のアルバムを取り出した。桃が生まれた時から父親が撮りためた写真だ。ベッドの上に広げて、ページをめくっていく。生まれた日、退院して家に帰ってきた日。色紙に書かれた日付と一言は母親の字だ。  公園デビューをした日。このときには桃と葵は並んで写っていた。幼稚園の入園式、運動会、お遊戯会に遠足……桃は歯を見せて、“あおくん”ははにかんだ笑顔で写っていた。  桃は“あおくん”の微笑みが大好きだった。だから一人、無表情で食べる姿にショックを受けた。子供ながらに笑顔にしてあげたいと思った。  ページをめくる。オレンジピールを食べる桃と“あおくん”が並んで写っていた。母親といっしょに作ったオレンジピールを“あおくん”にプレゼントした日らしい。そこに写っている“あおくん”の笑顔は今日、葵が桃に向けた笑顔そのままだった。  小学校に入学して三年生で“あおくん”が引っ越すまで、桃と“あおくん”は集合写真の端の方でいつも二人並んで写っていた。手をつないで、顔を寄せ合って――女の子と男の子だったらクラスメイトからからかわれていただろう。本当に桃一人の思い込みだったらしい。葵を男の子だと信じていたなんて当時のクラスメイトにバレたらどんな反応をされるだろう。たぶん目に涙を浮かべるくらい大笑いされる気がする。  桃は唇を尖らせてページをめくって――手を止めた。小学三年生の桃は集合写真の真ん中に写っていた。となりに“あおくん”はいない。左右には“あおくん”が引っ越してからいつもいっしょにいたクラスメイトたちが立っていた。みんな、笑顔だ。桃も笑顔だ。でも“あおくん”とは何か――距離感のようなものが違う気がしていた。  カバンの外ポケットに入れていたスマホが光っているのが見えた。カバンを引き寄せてスマホを確認すると、綾からメッセージが届いていた。また光った。新しいメッセージは明日香だった。綾と明日香と桃の三人で作ったLINEグループだ。アイコンは夏休みの前半に三人で行った花火大会の写真だ。この時は明日香との関係がぎこちなくなるなんて思ってもみなかった。  背の小さい桃が真ん中で、左右に綾と明日香が立っている。三人とも浴衣姿でお揃いの髪飾りを付けている。手をつないで、顔を寄せ合って。綾は快活な笑顔で、明日香は澄ました笑みで写っていた。桃が望んでいるのは、この関係が続くことだった。綾と明日香と友達でいたいだけだった。  でもたったそれだけのことが簡単に揺らいでしまう。  桃はアルバムを閉じて本棚に戻した。スマホのロックを解除してグループメッセージを返した。  明日香との関係は今、ギリギリのところで完全に傾かずに済んでいた。それを葵という存在はきっと大きく揺らしてしまう。桃にはそれが怖くて仕方がなかった。
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