最後の手紙

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 大学生から付き合っていた彼氏が亡くなった。  彼は大学生の時から国内外へと旅行に行っていたメンバーで久々にまた海外に行こうといって、彼が働いている製薬会社から有休を使い遊びに行った。東南アジアのどこかに一週間ほど行ってくる予定だった。そんな矢先の話である。  見知らぬ地で、どこの馬の骨とも知らない人に刺されて亡くなったらしい。彼の友達はバツが悪そうに私に事の顛末を話したが、頭に入ってはこなかった。  そもそもの話になるけれど、私は彼が海外に行くのには反対だった。だって彼は英語が話せないんだもの。普通に授業を受けていれば取れるはずの英語の単位を1年生の時に落とし、2年・3年と再履修してそれでも落とした。そして、最終的に4年生でカンニングをして単位を取得するという荒業を彼は使ったのだった。  普通そんなに英語ができないなら日本でおとなしくしているべきなのに、大学生の時から海外にまで足を伸ばして、そして私を悲しませていた。  彼は旅行に行く前には必ず、海外は恐いところだって私に言い聞かせては「死ぬかもしれない」って言っていた。あっけらかんと言うわけではなく、少し現実味を帯びさせるように寂しそうな顔をして言うのが彼の手口。  私はというと、彼の口車に乗せられていつも彼を心配しては涙を流していた。彼は私を悲しませては満足そうな顔をしている私を慰める、というのがいつものパターン。私は彼のおもちゃだったのかもしれない、そう思うとムッとする。だけど彼といると私はいつも楽しかったから別れずにいたのだろう。  私は彼が海外に行って一度痛い目に会えばいいよって、何度思ったことかわからない。だけど、死んじゃうのはやりすぎだよ。  神様、私はそこまで思っていませんでしたよ。ただ、彼を心配するこっちの身を少しでもわかってほしいって、あんまり心配させないで、ってそう思っていただけなんです。長い夢なら覚めてください。私はもうそんなこと思いません。どうか、どうか私の大好きな人を返してください。  彼が亡くなってから二週間ほどが経った。どれだけ泣いただろう。目元はパンパンに腫れて、触っただけで皮膚が割れて血が噴き出してきそう。  何もやる気が起きなくて会社には出勤していない。休みの連絡も入れていないから解雇されてしまうだろう。部屋は散らかりっぱなしで、彼が生きていたころのきれいな面影はない。彼と同棲していたころは私の部屋は自分で言うのもなんだが、とても綺麗だった。むしろ彼がいつも散らかして、私が彼に小言を漏らすと、彼は申し訳なさそうに片付けるというのがいつもの流れ。  そもそも彼と同棲じみたことを始めたのは大学生のころからだった。  私は実家である長野から上京して、大学の近くで独り暮らしを始めた。独り暮らしはずっとしたかったから、誰もいない自由な部屋での初めての夜はとても新鮮で感動したものだった。だけど大学にも慣れて新鮮味が無くなってからは、寂しいと思う夜も増えていったように思う。そんな味気ない生活を単純作業のように送っている中で彼に出会った。  私は初めの方は彼に良い印象はなくて、むしろ悪い印象しかなかった。いつも陽気でちゃらんぽらん、見境なくいろんな人に話しかける軽薄な信頼を培えない人。それが彼に対する第一印象。  「美咲さん、帰り道同じだから一緒に帰ろうよ!」  部活が同じで、駅までの道が一緒だったのでよく帰ることになり、そのせいでよく話すことになった。  案外話してみると結構いい人なんじゃないか、って思うことも増えていった。いつも陽気でちゃらんぽらんなところは、明るくて一緒にいて楽しいことの裏返し。見境なくいろんな人に話しかけられるところは、コミュニケーション力が高いことの裏返しだということが分かった。こちらの見方の違いで意味が全然変わってしまう、ということがよくわかる数少ない実体験である。  きっかけは忘れてしまったが、彼が家に来た。経緯はいくら思い出そうとしてもできないから些細なことが引き金となったのだろう。そして、そのまま彼は家に泊まった。それから彼は家へよく来て泊まるようになった。付き合ったのもちょうどそのころ。  初めは少なかった彼の荷物は一緒に過ごす時間を重ねるのに比例して多くなっていった。着替え、授業で使う教材、弾けもしないのにかっこつけて買ったギター、いろいろなものが増えていった。  いつの間にか彼は私の生活の一部になっていた。待ち焦がれていた一人の時間が無くなっていったけど、そんな愛する人と過ごす時間は一人で過ごすよりも心地がいい時間だった。そんな幸せを私に教えてくれた彼。風邪をひいて辛かった時も、学校で嫌なことがあった時もずっと一緒にいてくれた彼がいなくなったことはどうしても受け入れられない。  だめだ。彼のことを思い出すと涙が止まらない。人間の体のほとんどは水分でできているらしく、干からびてしまうほど泣いてしまった私はスルメになるかもしれない。そんな冗談を聞いてくれる彼はもういない。そんなことを思うとまだ涙が出てくる。彼に会いたい。  そういえば、そういえば彼が旅行に行く前に残していってくれたものがあった。彼が私にしたためてくれた手紙だ。  じつはこの手紙、彼が自主的に書いてくれたものではなくて私が彼に頼んで書いてもらったものなのだ。そもそもの話は、私がよく彼に書置きをしていたことから始まる。  寝坊助な彼は私の家に泊まりに来て、次の日に授業が九時からあっても授業に間に合うように起きない。私はそんな彼を起こすのだが、「もうすぐ起きるから」などとその場しのぎの嘘をついて、また夢の世界へと潜っていく。  彼のために作った朝食が傷まないように冷蔵庫に入れてあることを書いたのが初めだったと思う。それだけの手紙じみた書置きが彼には好評だったらしく、「また書いてくれ」と言われてうれしかった私はそれから手紙じみた書置きをよく書くようになった。  しかし、私は彼から書置きや手紙をもらったことはなかった。だから彼に手紙を書いてくれるようお願いしたことがあるのだが、一向に書いてくれなかった。確かに、彼から私へ書置きをするような用事なんてなかったのかもしれない。だけど彼のことだから理由はこうに決まってる。  「柄じゃないから」  そんなことを言って彼はのらりくらりと私のお願いをかわしていくのだった。  しかし、私はどうしても彼から手紙が欲しかった。だから今回彼が外国へ行って死んじゃうかもしれないから手紙を書いてよ、ってお願いをした。彼が死んじゃうかもしれないって私をからかってくるから、その仕返しにと思って。最初は絶対に書いてくれないと思っていた。だっていくらお願いしても一回たりとも書いてくれたことがなかったんだもの。だけど彼は「わかった」と言って、手紙を書き始めた。  今思えば手紙を書き始めた時点で、何かおかしいと思うべきだった。そして、彼に旅行をやめさせるべきだったのだと思う。まるで猫が死期を悟ると飼い主に感謝の気持ちを伝えて、愛する飼い主のもとを離れるかのように、彼は私への思いを整理して手紙にしていたのかもしれない。  あーもう、また涙が出てきた。  開けてはいけないパンドラの箱のように思う。パンドラの箱は開けてはいけないからこそ開けたくなるものだけど、彼からの手紙は見たいのに見たくないっていうジレンマで、私はそのジレンマに身を焼かれる。  封筒の表には「美咲へ」って書いてあって、裏には「深夜より」って。普通ならこんなきれいな字書かないのに。こんな形式的なこと絶対しないのに。 封筒は少しだが厚みがある。そんなにたくさん手紙が入ってるの?何が書いてあるのかな?想像がどんどん膨らんでいく。初めてデートしたことが書いてあるのかな、それとも感謝の気持ちが書かれてるのかな?封を切るのが楽しみになって、徐々に心拍数が上がってくのが分かる。  えい、ままよ!勢いよく封を切ると、その中には封筒。そうだ、深夜はそういうことをする人だった。そうやって私を弄んで、満足そうな表情を浮かべるのだ。  待って、美咲。あなたはもう大人。またその中にあった封筒を開けましょう。封筒が厚かったのもそういうことよ。  気を取り直して封筒を開けると、また封筒また開けると封筒。その後も封筒、その後も。これはまるで、  「マトリョーシカやないかい!」  「最後の最後まで、私をおもちゃにしたのね...私はこんなにもあなたのことを思っているのに。もうここにはいないあなたのことが忘れられないのに」  また涙が出てきた。でもこの涙は今までとは別物。もう深夜のためになんて涙を流さない。もう彼のことは忘れるんだ。  さて、片付けしますか。これからは一人で生活をしていくんだ。いらない荷物はたくさんあるから捨てていきましょう!  私にはぶかぶかの服、私の存じ上げない難しそうな内容の資料、学生が遊び半分で買うようなギター、捨てるものは山ほどある。よくもまあ私の部屋にこんなにたくさんのごみを置いていったものだ。手始めに捨てるとするなら、一番場所をとっているギターかな。  ギターを手に取ると中でカサッという音がする。ずぼらな彼のことだ、書類か何かだろう。本当にあきれる。死んでまでなお私にここまで世話を焼かせる人は、世界中を探しても見当たらないだろう。  サウンドホールの中に手を入れると折りたたまれた紙が何枚か出てきた。やっぱりそうだ。どれだけ彼のことを見てきたと思っているのか。とはいってもどんな書類なのかが気になり開けてみる。                                美咲へ  マトリョーシカレターはどうだったかな?気に入ってくれた?そんなことないよね、きっと美咲は怒っているだろう!僕にはわかるよ。何年一緒にいると思ってるのさ!僕は美咲の喜怒哀楽が好きなんだ。でも今回は少しやり過ぎたと思ってるよ。ごめんね。  たぶんこの手紙を美咲は僕の前では読んでくれないよね。僕が美咲を見ると、美咲はいつも顔を隠すんだもん。平安時代の貴族かって話だよ。そんな具合だから、僕からの初めての手紙は一人で読むんでしょ。泣いちゃうからね(笑)  はっ、はっ、はっ。文章に目を奪われて息をするのを忘れてた。息が苦しい。私の名前が目に入った時は、体中に電流が流れるような感覚に襲われた。文章を読み始めてからは、深夜のおどけたような口調で読み聞かせをされてるんじゃないか、という錯覚に襲われた。そしてとなりには深夜が私の表情をのぞき込んで笑ってるんじゃないか、っていう幻覚に襲われた。  知らないうちに深夜はこんなにも私の心に棲み着いてたんだ。もう離れることができない。まるで蟻地獄みたいだ。深夜が亡くなって、私は何度も深夜を忘れようとした。だけど考えれば考えるほど、もがけばもがくほどどんどん深みにはまっていくのだ。蟻地獄の主はもういないのに。  私は昆虫には詳しくないからわからないけど、主がいなくなった蟻地獄って一体どうなるのかしら。私の中の蟻地獄は、むしろいなくなった後の方が強くなってたちが悪い。  そろそろ手紙の続きを読もう。彼の知らない所をあえて残してしまうのも良いけど、私は彼の全てを知りたい。  さて、手紙だけど改めて書くことなんて特にないんだよね。だっていつも言いたいことは全部言ってるからさ。だから僕は今、すごく困ってるんだよね。美咲は悪い人だな、いつも困らせる。  あ、そうだ。困ったと言えば覚えてるかい。付き合いたての頃の話なんだけどさ、僕が美咲の家に遊びに行って帰りが遅くなって終電で帰ろうとしてた時のこと。僕がそろそろ電車がなくなるから、って帰ろうとしたら無言で服の裾を引っ張って足止めしてきたよね。そのせいで帰れなくなったんだよ。ってそれは今でも変わらないか(笑)でも泊まって二人で一緒にいるのは楽しいから気にしないでね!  美咲と過ごす時間は麻薬なんじゃないかってたまに思うんだ。八つ裂きにされそうなほど苦しくても、肝をなめるようなつらい経験をしても、一緒にいれば全て忘れられる。  実はガン患者の処方箋に麻薬が使われることがあるんだ。法律で禁止されてるはずのものが。ガンってそれほど苦しいのかもしれないけど、麻薬にはそれを和らげる力がある。それと同じくらい、中毒性もあるけどね。  僕は別に麻薬だって構わないよ。こんなに綺麗で、儚くて、かけがえのない唯一のものが麻薬なら心ゆくまで溺れたい。もうすでに溺れてるかもしれないな。  そうだ、これも覚えてるかな。僕が就活に一度失敗したときの話。僕の落ち込みようといったらもう笑っちゃうよね。不合格の通知なんてたくさんもらうのにさ。そのとき美咲は、涙を流しながら「気の利いた言葉がかけられなくてごめんね」っていって言うんだもん。なんで僕より悲しんでるのって、涙を流すところ違うんじゃないかって笑っちゃった。そのとき、この人と一緒ならどんな困難でも乗り越えられると思ったんだ。  さあ、そろそろ終わりだ。だから書きたいことなんてないんだって、いつも言ってるから。だからいつ死んでも構わないって思ってる。未練は残さないように生きてるからさ。でもそれを美咲はよしとしないんだろ?それじゃ僕に未練を残させておくれ。どうしても死にたくないって思わせるような。それじゃ、また後で。                                  深夜  あー雨が降ってきた。ここは室内なのに土砂降りだ。それがベタだって事は、そんなことは分かってる。でもどうしても止まらない。やめて、これは彼からもらった最後のものなの。滲んで読めなくなっちゃう。...早く帰ってきてよ、深夜
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!