月明かりの下、彷徨

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 終電には間に合ったが、終バスは行ってしまった後だった。  久し振りに友人と飲んだ帰り、吉橋初穂(よしはしはつほ)は人気の無い駅前タクシー乗り場にしばらくの間は突っ立っていたが、やがて家に向かって歩き出した。アルコールが回った頭ではタクシーを呼ぶのも煩わしく思え、ならば、酔い覚ましついでに歩くのもいいかという気になったのだ。  ついさっきまで一緒に飲んでいた友人にこの所業がばれたら、また女性としての警戒心が足らないと怒られそうだ。しかし、九月半ばの月夜。夏の暑さが尾を引く昼間とは違い涼しさを感じる空気の中で、半袖から伸びた腕を遊ばせたくもなる。  初穂が家賃の安さで住まいに選んだアパートの一室は、鄙びた駅から更に寂れた県道を四十分歩いた先にあった。いつもの通勤や外出ではバスを利用し通過する道のりは、畑、工場、資材置き場のみで構成された風景が延々続いた。  極端に大味な地上の景色にこれといって興味深いものはなく、次第に初穂の視線は晴れた夜空にギラギラと輝く満月の方へと導かれていった。今夜は世間でいうところの中秋の名月だったかしらんと、初穂は最初のうちこそ呑気に眺めていられたが、その内、段々と溜め息をつきたい気分になっていった。  初穂は、何故だか月を見ると妙に気弱になってしまう。というより、しょ気ている時に月を眺めてしまう癖があったせいで、逆に空に浮かんだ月を見ると落ち込みやすくなってしまったのかもしれない。  今晩は友達に会い、久し振りに楽しかった。楽しかったのだが、明日からの仕事を思うと気が重い。新しく派遣された職場での仕事が中々覚えられない。加えて、自分が職場で浮いてしまっている気がしてならない。同じ時期に入った年の近い同じく派遣の女性が、すぐに馴染んでいる様に見えることもあって、初穂は余計にそう感じていた。  今夜会った友人は同じ場所に長く勤めていて、今回の彼女の話題の中心も不出来な新人に対する愚痴だった。自分もどこかで同じように使えない奴だと文句を言われているのかと思うと、相槌の裏で落ち込んでしまった。  使えない人材に足を引っ張られていると感じてしまうぐらい有能な人間に、そうでなければどんな環境にでも自然と馴染む、そんな人間になりたかったと、初穂は暗い瞳にまん丸い光を反射させた。  そして、何の気もなしに零れた言葉…。 「帰りたい」  ブッと空気が抜けるような音のあと、「なに言ってんの」と茶化すような声が聞こえた。眉を顰めて抗議するより、不気味さの方が勝った。その声が、小学生の齢にも届かない子供の声だったから。  小さな子供が人も車も殆ど通らない深夜の道路脇に居るなんて。そう考えて、今度は冷静にその子供が心配になり、初穂は音と声の発生源を探した。  そうして見つけたのが、ススキの群生する荒れた空き地から歩道に顔を出す、一羽の赤い瞳の白いウサギだった。 「月の住人でもないくせに、月に帰りたいだなんて」  その言葉の音に合わせ、そのウサギはもぐもぐと口を動かした。
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