月明かりの下、彷徨

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 終電から降り改札を出ると、突然、券売機の陰から見覚えのある一羽の白いウサギがとび出してきたので、弓月(ゆづき)は思わず、「なんでここにいるの!?」と人気のない駅舎前で叫んでしまった。というのも、そのウサギは、弓月の自宅アパートのケージに監禁されている筈のウサギだったからだ。 「ふん、あのような檻、わたくしの手にかかればあってないようなもの」  ウサギは上体を持ち上げ胸を反らすと、「ささ、参りましょう」と言って弓月に右の前脚を差し出した。 弓月は首を傾げながらも周りに人の目が無いことを確認し、その場に屈み込むとそっとウサギの前脚に触れた。すると、一人と一羽の周りに柔らかな大小の光の球がいくつも現れ、その光が中心の二つの影を覆い隠した。    弓月が気が付いた時には、彼女の現住所のある寝静まった住宅街が、足の遥か下にあった。  古には、月と地球の行き来に月の住人が牛車を囲み行列を組む必要があったと聞くが、今はウサギ一羽を送迎に使えば事が済む。本当に便利な時代になったものだ。 「明け方までに帰ればいいんだから、ケージで大人しく待っててくれてれば良かったのに」 「だまし討ちのようにで檻に入れておいて、よく仰いますな」  弓月は月の住人であり、天女見習いだ。現在、後学の為という名目で地球に五年間滞在することを許されている身だが、年に一度の十五夜の夜には必ず月の都に帰ることを義務付けられている。  そして、天女見習い達の送り迎えを担っているのが、月の住人が従僕として使っているウサギなのだが…。 「全く、なんですか?夕方にお宅に伺ってみれば、『これから推しのライブがあるから、今ちょっと無理』って」 「だから、終電で帰れば時間的に余裕で間に合うんだから、聞き分けてアパートで大人しく待っててくれれば、閉じ込めるなんてこと、しなかったし」 「その割にはしっかり檻を準備して、用意周到だったこと」 「…そっちが融通きかないのは、織り込み済みだったもので」  少々険悪な会話を一人と一羽とが交わす間にも、ふたりはどんどんと地上から離れ、既に雲さえ遠く下になっていた。 「ところで、ケージやアパートの外に出られたのはともかく、よく駅まで来れたね」  弓月は駅舎でウサギと再会してからずっと抱き続けていた疑問を、ようやく、ウサギに問うた。月と地球を行き来する為の媒体という役割を持ちながら、月のウサギは地上での方向感覚を全く備えていないのだ。 「通り掛かりの、人のいい酔っ払いに連れて行ってもらったんです。一刻も早くお迎えに上がりたかったもので」 「……」 「脱出したアパートの近くの道で会ったんですが、その者がわたくしの言葉を解するものですから、最初は驚きました。しかし、これが十五夜の月の力というものなのでしょうね。月の言葉が地球の人間にまで通じるとは」 「いや、そこは、『最初は』じゃなくて、驚き続けるべきところだよね?」 「?」 「十五夜だろうがなんだろうが、月のウサギの言葉が、地球の人間にわかるわけないよね?」  ウサギは両の耳をまっすぐに立て、背後の暗い球体を振り返った。 「なんで通じたんでしょう…」 「相手が月の住人だったから、だろうね」 「でも、気配が全く違いました。まったく地球人の色というか」 「それは多分、長い間地球に居過ぎて、染まりきっちゃったんじゃないかな」  弓月もウサギに倣って地球を見た。都市部にきらめく明かり。あの端に、自分の今住む小さな街も収まっているのだろうか。 「とすると、あの酔っ払…あの方は…」  地球の時間で言えば五百年前、月にとっての最重要人物である一人の女性が、地球で姿を眩ました。 「……姫さま…」 「びっくりだね…」  ウサギが弾かれたように地球に引き返そうとするのを、弓月は尻尾を引っ掴んで止めた。 「っったぁっ!!」 「ごめん!でも、行ってどうすんのよ」 「どうするって、五百年も前に地球に降りて一度も月に帰っていないのでは、きっと月の都を忘れてしまっておいでです。あんな平凡な酔っ払いに成り下がっ、……ご自分がどなたであるかも、お忘れのことでしょう。今わたくしがお知らせしなければ、きっと、いつまでも思い出されないままですっ!」  再び地球にすっ飛んでいきそうなウサギの尻尾を、もちろん弓月は離さないままでいた。 「そうやって思い出させて、連れ帰って、先代さまはどうなったか知ってるでしょ?大丈夫、公表はしていなくても、お偉いさん方はあの御方の居場所なんて、とっくに把握してるのよ」 「何を根拠に」 「だって、私が地球に下って住んでる場所は、彼らに指定された場所だもん」 「……」  ウサギはしばらく停止した後、激しく鼻をピクピク動かした。考えを巡らせている時の、彼の癖だ。 「…弓月さまは、密偵だったのですか?」 「まさか。私だってかの御方が近所にいらっしゃるなんて、今初めて知ったし。多分、上としてはお住い近隣の情報が欲しいとか、そういうことじゃない?先代さまの時の失敗をふまえて、こちらからのコンタクトはしないんだろうけど、どんな場所に住んでるかぐらいは知っておきたいんでしょう。大切な御方なわけだし」  弓月は急に月に戻る足が重くなってきた。人生経験にと気楽に留学させてもらっている気でいたが、それは間抜けな勘違いだったようだ。事情を知ってしまった今となっては、せめて、自分があの御方の居場所を知ったことだけは上に知られることなく、涼しい顔でお気楽を装っていきたい。その為には、関係者の口止めが必要だ。 「な、なんですか?その目っ!」 「あなた、上に報告するつもり?」 「えっ?当然じゃありませんか!もし既にご承知だったとしても、何か変わったことがあれば、上に報告するのが我らの義務です!」 「ふーん、そっか……義務なら、しょうがないね…××××××」  弓月はウサギのしっぽから手を離し、儚げな笑顔を浮かべた。 「ちょっと待ってください、弓月さま!いま、なんて?!」 「え?『義務ならしょうがないね』って」 「そうじゃなくて、その後、『処罰されても』って!小声で!!」  流石、ウサギの耳。人の耳では聞き取れない声も、しっかり拾ってくれた。 「言った?そんなこと?」 「とぼけない!どういうことです?処罰って?!」 「あー…そりゃ、地球で天女以外と話したから」 「うっ…それは仕方がありません。甘んじて罰は受けます」 「…てのもあるけど、あなた、あの御方に対してどんな感じで口利いたの?ほんのちょっと前まで、酔っ払い酔っ払いって随分馬鹿にしてたみたいだけど」 「……」  月の都は、厳格な階級社会だ。従僕として使役されているウサギは、やんごとない身分の人物に対し、本来は話しかけることすら許されていない。だというのに、ウサギは普段馬鹿にしている地球の人に対する調子で、最高位の人物と話してしまった…のだろう。 「不敬罪だね」 「ひっ…」 「でも、義務なら仕方ないね。明日の朝食はウサギ肉かぁ…」 「ゆづきさ・ま」  ウサギは完全に硬直した。やり過ぎたな、と弓月の胸は痛まなくもなかったが、背に腹は代えられない。 「あなたさえ黙ってれば、問題にならないんだけどね。私は報告するつもりないし、長く地球に暮らしている方ならウサギを虐待するなんて良しとしないだろうし」  ウサギは口元をぎこちなく緩ませたが、瞳の動揺はまだそのままだった。 「ほうらっ!もうこの話はいいから、早く私を月に連れてってよ。あの御方だったら、仮に千年、月に帰らなかったとしても、奥底じゃ故郷を見失うことなんてないだろうけど、私ら天女なんて一年、月に戻らないだけで、あっという間に月のこと忘れちゃうんだから」  弓月はウサギの筋肉質な尻をポンポンと叩きながら、殊更明るい調子で言った。 「……いいのでしょうか…」 「オッケーオッケー!」 「弓月さま…地球に下りられてから、ますます軽くなられましたな…」  人がせっかく他人の不安を思いやり明るく振る舞っているのにと、弓月はウサギの自慢の耳を引っ張ってやりたくなったが、脅かすようなことを言って委縮させたのは自分だったと、ぐっと我慢した。
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