縁を抱く

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「こちらに、おいでになるなんて、いつ振りでしょうか」 雨が静かに降り注ぐ大地は、乾いた喉を潤すことに必死と、その数多の水を少しでも多く吸収して生きたいと、ある種の焦りさえも見えるようだ。 「ええ、直ぐにでもお顔を見たかったのですが、残念なことに」 言い淀む男が口元を歪めた。 ミスグの元を不定期に訪れては、自身の商売への不満を口にする、世を恨むかのように悲観的な考えが根深い男だった。 泥で汚れた上着は、元は白色だったのだろう。 所々に染み付いた血の色は複数人のものか、重なる血溜まりのようにも見える。 男はこの暗闇ではミスグは見えていないから問題ないと判断しているのだろう。 「……何か不幸、が?」 だから、ミスグは気付かぬ振りをする。 数年振りに訪ねてきた男の足元を、虫が騒めきながら溢れていたとしても。 そう、虫とは人の魂の残骸の成れの果てだ。 怨念によって固められた心は、醜女を生み出す。 ミスグの素顔を見た者たちは、皆、嫌悪感を露わにした。 眉を顰め、込み上げてくる胃液を態と吐き出すかのように罵った。 だから、食ってやるのは当然の行いであった。 美しい女を期待させる声音で近付き、または、心地良い低音の男の声で女を宥め、人間の心を聴き取る。 欲するべき養分が一定量貯蓄されたのならば、あとは笑ってその喉元に爪を立ててやれば良い。そうやって生きてきた。 「……不幸なんでしょうかね、好いていた女子が旅に出てしまったのです」 「どちらまで?」 「……おれの、手の届かぬところへと」 「好いているのならば、追いかけて往けば良いのでは?」 ミスグの重ねるような問い掛けに、男は小さく唸って黙り込む。 滑稽だと思う。男は女を己が手で殺めたのだろう。 その綻びた衣服と同じ男のこころは、多くの矛盾に、怒りと哀しみが満ちていた。 ぐちゃり、気紛れに自身の髪へ手を伸ばす。 ミスグが腰まで届く漆黒の髪を手入れするのは、気が向いた時だけであった。 自身は人間の真似事をしているだけであり、決して人間ではないのだからと。 そういった美意識は持ち合わせてはいなかった筈なのだが、近年は触れることが増えてきたように思う。 何故だろうか。随分と長い時間を生きてきた所為か。若しくは、人間を食ってきた所為か。 人間の感情に対して、共感にも近い、或いは同情の念を抱くようになってしまったのが、大きいのかもしれない。 怨みこそが、ミスグを形成する本質であり、生きる意味であったというのに。 はやく、その男を殺して食ってしまえばよい。 それで、ミスグの自我は保たれる。
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