うさぎと高校球児

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「——ええ、あの日彼らに出会ったからこそ、今の私がいるんだと思います」 「なるほど……いわば、『運命の出会い』。それが首位打者に輝き、プロの世界で活躍する『今』を支えてくれているという訳ですね」 チームの優勝記念のラジオ特番は、つつがなく進む。それでも、比較的長時間のインタビューはやはり苦手だ。緊張のせいか喉の渇きを覚えて、水を口に含む。 ふとスタジオの窓の外を見上げれば、ビルの合間に月が輝いていた。 (……運命の出会い、か) そういえば、あの日もこんな満月の夜だった。 バッターボックスに入ると、ブラスバンドの演奏もチームメイトの声も、すうっと遠くなる。聞こえるのは自分の心臓の音と荒い呼吸。ただそれだけ。 二点ビハインドで迎えた九回裏、二アウト一三塁。それから、ストライクがふたつ。スコアボードは、自身が追い込まれていることを淡々と伝えてくる。 祈るような気持ちで握りしめたバットの感触。 人工芝の、目を刺すほど鮮やかな緑。どこか埃っぽい汗の匂い。 陽炎の向こう、相手の投手が振りかぶるのが見える。 迫り来る白球。 渾身のフルスイング、そのはずだった。 手応えはない、それどころか。 バットが、動かなかった。 —— 僕の夏が、終わる。 宮崎翔太、内野手。公式戦の成績、打率二割一分二厘。打点八、本塁打ゼロ。甲子園出場なし。 これが僕の高校三年間の全て。 全てが平々凡々、器用貧乏のパッとしない選手だというのは自分でもわかっていた。それでもプロの世界に、甲子園に、行くために。ただただバットを振り続けてきた。 その結果、最後の夏には無名の公立高校が三回戦まで駒を進められたんだから、自分でもよくやったもんだと思う。 小学校の頃から十年ちょっとの野球人生。もう充分、夢は見た。 それでも、どうしても未練が捨てきれずに時折モヤモヤした感情を覚える。そしてその度——今夜もだが—— ランニングに出て頭を空っぽにしに行くようにしていた。走ることに没頭すれば、他の考え事は頭から出ていってくれたから。 靴箱から取り出したランニングシューズは、夏頃と比べると随分とくたびれている。引退してからは毎晩のように走りに出ているからだろう。 ——現役時代、あれだけ走るのを嫌がってたくせに。 それがどこかおかしくて、ほんの少し、口の端を歪めた。 頬を掠める風が、火照った頬に心地良い。街路樹の赤や黄色が視界の端を通り過ぎて行く。 もう、秋だ。 夕暮れの街は全てがオレンジに染まっている。すれ違う人も、過ぎていく車も、全て。 流れてゆく景色の中に、塾の看板を見つけた。フラッシュバックする、夏期講習が、模試が、と参考書片手に話す級友たちの姿。 信号の手前で右折して脇道に入る。 信号を直進する普段のルートとは違い、こちらのルートは道は狭まるが車も人もあまり通らない。集中して走るには、丁度良い道である。 (—— そう。僕はさっさと受験勉強に集中しなくてはいけない。こんなモヤモヤに構ってる暇なんて、ない) まとわりつく思考を振り払おうと、更にスピードをあげた、その時だった。 「もしもし、そこのお兄さん」 声がした。例えるならば、ヘリウムガスを吸ったような声。もしくは、機械で加工したかのような、キンキンした声。気のせいかと思ったが、再び「お兄さんてば、」と何処からか呼ぶ声がする。 走るスピードを落とし、辺りを見回すが、路上には自分以外、誰もいない。 ぞわり、と寒気がしたのは、汗で冷えたからという訳ではないだろう。 「うしろうしろ!」 三回目の声は、すぐ近くからだった。 「え?」 思わず足を止める。ゆっくりと振り向いた、そこに。 白いふわふわの毛、長い耳、ひくひくと動く鼻。そして、つぶらな赤い瞳。 ウサギがいた。 二足歩行して人語を話す、人間と同じくらいの背丈のウサギ。それが、三匹。目の前に立っていた。 —— いやいやいや。夢、だろ? 言葉として発する事もできず、あまりの驚きに、ただただ口をぱくぱくと開閉することしかできない。しかしウサギ達は、そんな事お構い無しにキイキイ喋り続けている。 「その日焼けした肌に坊主頭!」 「高校球児の嗜み?」 「もしやお兄さん、野球選手では?」 「……はあ、一応」 やっとの思いで頷けば、ウサギたちはぴょんぴょこ跳ね回ってはしゃぎだす。……いよいよもって、わけがわからない。 「一体なんなんですか、突然! 僕に何かご用でも?」 苛立ちを隠しきれずに声を荒げると、ウサギたちは一斉にこちらを振り向いた。キラキラした赤色たちが、じっとこちらを見つめてくる。どこか気まずさを覚えて、目を逸らした。 「あのですね」 「おにいさん!」 「ぼくたちは」 「ストップ、ストーップ! 一斉に喋らないでよ! 僕は聖徳太子じゃない、そんないっぺんに言われても聞き取れるわけないだろ!」 ウサギ達がぴたりと動きを止め、鼻を付き合わせて何事か相談を始める。ややあって、その内の一匹が進み出てきた。 「たいへん失礼をばいたしました。僕たちはあなたがた地球人が『月』と呼ぶ星から来た者、とりあえずウサギ星人とでも呼んでください。……侵略とかではなく、ただの修学旅行です。ご安心を」 言い終えたウサギは、ぺこりと頭を下げる。 —— 月に宇宙人いるのかよ。 —— なんでウサギの概念があるんだよ。 —— 修学旅行って、なんだよ。 どこから突っ込んだらいいかわからない。いや、もはや突っ込んでも意味はない気がする。 「それで? ウサギ星人さん達はなんで野球選手なんて探してたのさ」 半ば投げやりな気持ちで聞いてみると、ウサギは再び耳をぴこぴこと勢いよく振って話し始めた。 「実はですね——」 「……つまり、君達はたまたま地球から届いたラジオ放送で野球の存在を知って、どハマりした結果、修学旅行をこっそり抜け出してわざわざ野球をしに来たと。そして野球ができる地球人を探してたと。——これで合ってる?」 「ええ、ばっちり」 代表のウサギ—— 彼はパイネくん、この班の班長らしい—— が頷く。 話している間に、汗は完全に引いてしまっていた。辺りも既に日は落ちきっていて、九月下旬の夜風が思っていたよりだいぶ冷たい。 他にすることないのか、なぜ野球場の側でもないこんな街中に、等々疑問は浮かぶが、これ以上突っ込んで話が長引くのと体が冷えて風邪を引いてしまうだろう。 それに、いつまでも消えてくれないこのモヤモヤと、決着をつけられるかもしれない。根拠はないが、なんとなくそんな気がするのだ。 「……いいよ。確かここから歩いて3分くらいの所に運動公園があったはずだから、そこでやろうか」 「いいんですか!道具はさっきお土産で買ったのがありますから、早速始めましょう」 よろしくお願いします、と下げた頭に合わせて、パイネくんの耳がふわりと揺れる。 ——なんだか、おかしなことに巻き込まれたかも。 それでも、この状況にワクワクし始めている自分がいる。困惑する心とは裏腹に、公園に向かう足取りは確かに軽いものだった。 「いきますよー!」 マウンドの上のウサギが掲げた左手を振り、投球練習を始めた。パシン、パシンと小気味良い音が夜の公園にこだまする。 貸してもらったバットは、よくある金属製のバットだった。軽く振ってみても、今まで散々振ってきたバットの感覚と大差ない。道具の心配はしなくとも良さそうだ。ほんの少しほっとして、深く息を吐いた。 練習時間や対戦、それからウサギ達が仲間と合流するためのタイムリミット。それらを加味した上で決まった対戦時間は、たった一打席。 ウサギ達は相談とジャンケンの末に、投手にはカルロくん、捕手にはレオネくんがそれぞれつくという。どうやらパイネくんは審判をすることになったらしく、僕の隣で 「三振の時のポーズも練習したんです!」と得意げに鼻を鳴らしている。 「それ僕が三振しないと披露できないでしょ。つい最近までずっと野球やってたんだから。僕はそう簡単に三振なんかしないよ。」 「ふふん。そちらこそ、甘く見てると痛い目にあいますからね! カルロは僕たちの中でも一番ピッチングがうまいんです。レオネは野球が上手いというわけではありませんが、一番賢い。あいつの野球脳はピカイチです」 「つまり、バッターが嫌がる配球をしてくるってわけ?」 「ええ。そりゃあもう!」 それは怖いなぁ。笑いながらそう返すと、パイネくんはまん丸の赤目を細めながら、「それに」と付け加えた。 「今夜は月が大きくて、とても近い。これならば、月の引力の影響で僕たちもちょっと身軽になれる。…… 勿論、あなたも。月まで届くホームランだって、打てるかもしれませんよ?」 「そんなバカなこと、」 あるはずがない。できるわけがない。そう言いかけて、空を見る。 黄金色に輝く満月。 あるかもしれない。実際、あそこから三八四,四〇〇キロメートルを飛び越えて、わざわざこんなとこまで、しかも野球なんかしに来る宇宙人がいるのだから。 「そろそろ、プレイボールです」 隣のパイネくんは、気持ちよさそうに夜風に髭をなびかせる。 「プレイボール!」 パイネくんの宣告。捕手のレオネくんがちらりと目を向けて軽く会釈をしてきて、僕も軽く会釈を返す。 「……負けません」 僕を見上げるレオネくんの目は、静かに、でもギラギラと燃えていた。誰かと対戦するその度に、何度も見てきた瞳。勝負に燃える瞳だ。 「僕も、だよ」 そう言ってからマウンドを見据え、バットを構える。 空気が張り詰めてゆく。 サインのやり取りを交わしていたカルロくんが、一際大きく頷いた。 —— 来る。 ワインドアップ、リリース。 ゆったりとしたフォームのアンダースロー。リリースポイントが随分と低いことに驚き、一瞬呼吸がブレた。 でも、ボールはさほど早くない。 テイクバック。 ボールが、手元でフワリと浮かんだ。 バットが空を切る。 パイネくんの甲高い声が、ストライクを宣告する。 一気に汗が吹き出し、手がベタつく感触に不快感を覚えた。 ——やばい。手強い。 対戦するほとんどの投手の、上から投げ下ろすような軌道と違い、アンダースローから投じられる球が描くのは浮き上がるような軌道。 そもそもアンダースローの投手自体、投手の中では少ない。ましてや、県大会止まりの無名校の選手が対戦する機会など、ないに等しいものであった。 アンダースローの投手に対する知識はあった。しかし、実際に目にしてみると、投手の技量も相まって想像以上に手強い。 それでも。 カルロくんが—— サブマリンが、動き出す。 二球目が来る。 たとえ、公式戦でなくとも。相手が宇宙人であっても。 負けるもんか。 思考がフル回転で動き出す。 思い出せ。今まで学んできたことを。 思い出せ。アンダースローの弱点は—— 「イチか、バチか……!」 内角高めの球。 手応えが、あった。 一塁へ向かって走りつつ、打球の行方を目で追う。ボールは勢いよく外野へと飛んで行き、そして右へ切れていった。 ファウル。結果から言えば、空振ってツーストライクに追い込まれたことと変わらない。 それでも、なんとかバットには当てられる。 ほんの少し、安堵のため息が漏れた。 「ふー……」 安堵するには全然早い。だが、打てない相手じゃない。 アンダースローの投手は、回転数が多くノビのある球を投げることができる。反面、芯から捉えれば長打が出てしまうことが多い。 凡退か、長打か。まさに、イチかバチかなのだ。 やるしかない。また、バットを強く握った。 三球目は、高めの釣り球。見送って、ボール。 四球目、五球目と低い球が来た。それぞれ、ボール、ファウル。 苦しい。 カウントは打者不利。 頬を伝う汗が、バッターボックスに落ちる。 —— どうせなら、狙ってみようか。ホームラン。 ふと浮かんだ唐突すぎる考えに、笑いがこみ上げた。 当てるのがやっとだというのに、ホームランを狙うとは。でも、やってみようか。 空振ろうが、見逃そうが、きっとこれがラスト一球になる。どうせなら、振ったほうがいいじゃないか。 あの時みたいに後悔するよりは。 わかってたんだ。 才能なんかない。それを埋めるだけの、努力だってできる方じゃない。きっと周りはもっと頑張ってる。 それでも一度くらい、僕だって主役になってみたかったんだ。 主役になるのは。スポットライトを浴びるのは。今かもしれない。 根拠のない自信が湧いてくる。俯きかけた顔を上げて空を見た。 キラキラと瞬く星に囲まれて、眩しいほど輝く満月。 (——そうだ、きっと届く。届けてみせる。) ボールが、放たれる。 一秒が引き伸ばされてゆく感覚。 くるくると浮かび上がるボールが、やけに鮮明に見えた。 狙いを定め、渾身の力で、振り抜く。 胸元へのストレートが、バットに触れる—— 衝撃。 捉えた。そう、確信できる当たりだった。 カァンという金属バットの軽い音。手に残るビリビリとした感覚。 よろよろと、おぼつかない足取りで走り出す。 ボールはただ真っ直ぐに、空に浮かぶ黄金色に向かって遠ざかっていく。 月まで届く、ホームラン。 パイネくんの言葉が、頭をよぎった。 収録を終えてスタジオを出ると、丁度通りかかった後輩の安江が「お疲れ様です!」と肩を叩いてきた。 「先輩、特番の方やっと終わったんですね」 「うん、いつもは実況ばかりだからどうも慣れなくって。加藤選手が話し上手なお陰で、随分助かったよ。そっちは?」 「こっちはまた編集作業の手伝いっす。アナウンサーなんだから、もっと現地リポートとか、中継とか、そういうのやりたいんですけどね」 そう言って安江は小鼻を膨らませる。幼さを感じる仕草につい噴き出すと、彼は不満げにこちらを見上げた。 「そういえば、先輩野球やってたんですよね。どうしてそっちを辞めてアナウンサーになったんですか?なんか、勿体ないっていうか 」 「うーん、野球の方は満足しちゃったから、かな」 ——満足。そう、満足してしまったのだ。 あの夜、結局僕の最後の打席はセンターフライだった。 高々と上がったボールは力なく外野に飛んで、フェンスの手前で落ちた。随分と滞空時間が長かったから、もし外野手がいたなら確実に追いついていただろう。 センターフライ、とポツリ呟く。 ウサギ達は抱き合って涙を流していた。 不思議と、悔しくはなかった。 最後の一球。 カルロくんのボールは、伸びも球威もその日一番のストレートだった。 僕だって、最高の一打だった。 それこそ、今までも、この先も、きっとあの一振りを超えるスイングなんてできないと思くらいに。 ただ、勝利の女神様がたまたま向こうに微笑んだ。 それだけだったんだ。 「—— それに、こうして実況やインタビューをしていたら、いつか野球好きの宇宙人までラジオ中継が届くかも知れないからね」 「宇宙人ン?」 月に住んでるウサギとか。そう言うと、安江は「ヘンなSFの読みすぎじゃないっスか。」と人懐こく笑う。 SFなんかじゃない。あの日の出会いは—— 月明かりの下の勝負は、この胸に強く刻まれているのだから。 窓の外を見上げれば、今夜も月は優しく俺を照らしてくれる。そしてきっと今も、ウサギ達はあそこでラジオを聴き、野球をしているんだろう。 彼らに、僕の声は届いているだろうか。 心の中に思い描いた長い耳は、いつだって楽しそうに揺れている。
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