三日月怪異記

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三日月怪異記

 手前には、決して忘れられぬ記憶がある。  幼少の時分、手前には、真に唯一無二の友人がいた。知り合ったのは、お互い十の(よわい)を数えたばかりの頃だっただろう。知り合ったのがどこやら、仲を深めたのがいつやら、細かいことは忘れてしまった。手前と彼との関係では、そのようなことは真に下らぬ些事であるからだ。  あれは、都からは外れた地方にある、ささやかな村であった。  手前も彼も、共に農家の生まれだった。とはいえ、此方(こちら)の家は、村でも一二を争う有力な農家であった。所有する土地は広く、それに比例した権力を有し、亭主である手前の父親は、多くの村人に顔が利く人物だったと記憶している。  一方、彼方(あちら)の家はというと、特段富裕でもなく、しかし特別窮乏しているということもなく、ただし、十分に人間足る生活を送っていた。日々を編み、人を営んでいた。  手前は、彼の詠む歌がたまらなく好きだった。頭の悪い浅学の身には、その興趣を十全には理解できてはいなかったのだろうが、それでも、彼の口から紡がれる言の葉とか、その際の声音とか、優美というか幽遠といえばよいのか、彼の詠歌する風景は、この有り触れた村に在るただ一つの特別だと、私の眼には見えた。  手前には、出来ぬことだった。勉学も芸術も(かた)い。体格には恵まれており、膂力(りょりょく)にも秀でていた。刀の手解きを受け、その扱いの上達も速い自負はあった。だがそれだけである。図体ばかり大きい、何も為せない人であった。  だから取り敢えずは、友人を守る為にこの力を使っていた。  素晴らしく怜悧(れいり)であり、芸術の精髄をも解している彼が、この村の白眉であることは、少なくとも手前には、明らかであった。しかし、誰しもがこの認識をしているわけではない。飛びぬけて聡明である一方で、彼の身体は小柄で、気も弱く病気がちであった。  一瞥(いちべつ)に弱いと知れる人間を攻撃する輩というものはいる。同年代では比肩する者のない彼の才に嫉妬してなのか、いや、きっと大方はその才を悟ることのできぬ凡愚達だったのであろうが、ともかく、かの友人を苛め虐げ足蹴にしようとする人間はいた。少なくなかった。  手前は、この珠玉の全きであることを守りたかったのだ。(きず)をつけてはならぬ。欠けてはならぬ。そういうわけで、友人を(さいな)む、短慮愚昧な不届き者共を払い除けることに、手前の力を使っていた。当時の手前の身体にて遂行できる、また当時の手前の頭にて捻出できる、唯一の善きことであった。  彼は不思議がって手前に訊くことがあった。――なぜ自らを助けてくれるのかと、有力農家の跡取りが、なぜ自分などを好んで守ってくれるのかと、残念ながら、その温情に報いるものごとを持ち合わせていないと、いかにも申し訳ないといった表情で、手前に訊くのだった。  勿論、見返りなどは求めておらぬ。  何か切欠さえあれば大成するであろう、彼の行末(ゆくすえ)を空想しながら、隣で、ただ歌を詠んでくれることで、全く、手前は満ち足りるのだから。  ――であるから友人だろう、と、手前は彼に返すのだった。  或る日、風聞が耳に入ってきた。  久しく、友人の父親を見た人がいないと。村の寄合にも、音沙汰も寄越さずに、長い間姿を見せていないと。  夕闇の山に入り彼岸へ越えてしまっただの、いや妖怪に喰われてしもうただの、いや顔を合わせるのも(はばか)られる悪事を働き村から逃げ出しただの、空言(そらごと)としか思えぬことを触れ回る者もあった。  ただし大方の人間は、病に臥せているのだろうと、そう話していた。しかし、薬師(くすし)に掛かる様子もなく、見舞いも門前払い、家族しか家に出入りしていない。こういう異様から、様々な流言がしきりに立っていたのだった。  耳に入ってくる根も葉もない噂に堪えかねて、終いに、手前は友人へと、父親の子細を尋ねた。友人は口を閉ざし、長い逡巡ののちに、決心を顔に浮かべ、手前を彼の家へと招き入れてくれた。  果たして、友人の父親は病床にあった。  目を引いたのは、その顔貌であった。顔全体が酷く歪んで、鼻骨は陥没し、唇は曲がったまま戻らなかった。両手の指もまた、関節が固定されているかのように、異常に折れたままであった。  呆然と病状を眺めながら、手前は、得心していた。成程、容貌にこれほどまでの醜悪を来す病だと、姿を晒すことのできないはずである。  よく話してくれたと、友人へ深く感謝を述べ、手前は自らの家へと帰ることにした。  彼の方も、誰にも話せずにいた悩みの種を、手前一人だけにでも打ち明けられたことで、わずかばかり、晴れやかな表情を浮かべていた。  何かしなければならぬ。完治とはいかなくとも、せめて症状を抑制できないものか。高名な薬師なら、処方の(すべ)を持っているやもしれぬ。  家までの道すがら、手前に為せる善きことを、小さな頭で思案していた。  顔の広い、手前の父を頼るのはいかがだろうか。父ならば、何か方策のある人物を知っているやもしれぬと、考えたからだ。  家に着くや否や、手前は父に話した。――かの友人の父親が重篤な病におかされており、その醜い病状の為に人目を憚っている、貴方ならば、適当な措置を知悉(ちしつ)する人物と交際しておられるのではないか、であるならばどうかお力添えを戴きたいと。  黙って話を聞いていた父は、数秒考え込んだのち、短く、そうか、とだけ漏らすと、用事のあると言って、陽の傾き始めた村へと、戸を開け出て行った。  明くる朝、耳慣れない物音に、不快な目覚めをした。嫌に騒々しい。多勢の駆ける足音と、遠いがしかし、じわりと不安を掻き立てる怒号のような叫び声。  奇妙な焦燥に突き動かされ、手前は、刀を提げ村へと跳び出した。  大人の男達が、忙しなく村中を馳せ回っていた。肩には縄を担ぎ、腰には刀を携え、その顔には怒りと苛立ち、だがどこか、微々たる恐怖も滲み出していた。そして口々に、やれ下流の方はどうだ、やれ東の森は探したか、やれまだ遠くはないはずだ、とがなり立てている。あちらこちらから、怒鳴り声が(こだま)する。  村中の男衆とすれ違いながら、手前は、友人の(もと)へと疾走していた。何やらこの村が異状にあるのは、確かなようだ。であるなら手前は、彼を守らねばならぬ。  友人の家の戸は、大きく、開いていた。  (おもむろ)に、手前は敷居を跨いだ。  布団の上に、紅い、布団の上に(はらわた)を散らした死体があった。友人の父親であった。昨日面会したときと変わらず、顔は歪み指も曲がっていた。ただ、動かない。  友人を呼ぶが、返事はなかった。友人と、彼の弟と母親の姿はこの家にはなかった。  不意に、油の臭いが鼻を衝いた。近くの騒ぎ声が大きくなるのを知覚した。  外に出てみれば、いつの間にか、大勢の男達がこの家の周囲に集っていた。  ――おうい、女の方は捕らえたぞよ。  ――息子共は逃がしちまった。  ――悪鬼と交わった不浄の阿魔(あま)め。早う焼いてしまえ。  ――待て、悪鬼憑きはどうした。  ――あれならもう始末して、家ん中で死んでおる。  ――ようし、それなら家ごと燃やしてしまえ。(ことごと)く焼いてしまうのだぞ。  ――何も残してはならぬぞ。焼いてしまえ。  ――息子共も早う捕まえんといけんな。  喧々囂々(けんけんごうごう)と各々言葉を交わす男の中の一人が、手足を縄で拘束され身動きの取れない一人の女を、ひどく乱雑に、家の中へと放り込むと、これまた乱暴に、大きな音を立て戸を閉めた。  女は、友人の母親であった。  家の四方から、火の手が上がった。瞬く間に、家は巨大な炎に包まれた。  ――火は見ておくから、(ぬし)らは息子共の捜索を頼む。  ――女をひっ捕まえたとき、息子共も横にいた。そんな遠くにゃ行ってねえはずだ。  ――悪鬼の類は根絶せんといかん。決して逃がしてはならんぞよ。  そうして男達は、数人を残して、村の東へと駆って行った。  手前は、自らの家へと急いだ。  何ゆえか。  どういったわけか。悪鬼とは、あの、痛ましい病状か。して何ゆえ一夜にして皆に伝播し、かような……。  村の男達は、未だ村中やその近隣を駆け回っている。残った友人と、その弟をも、滅してしまおうと、除いてやろうと、九の憎悪と一の恐怖を顔に貼り付け、駆けている。  ふと、村人達の顔が、捻じれ始め、(たちま)ちに、見るも(おぞ)ましい醜悪なかたちになった。もはや、人の顔ではなかった。悍ましいかたちを首に乗せ、二足で疾駆する、(おびただ)しい、人然(ひとぜん)とした存在とすれ違うたびに、吐き気がこみ上げた。  自家の戸を開き内へ入ると、憔悴した手前の顔を見た、父が言った。  ――仕方の、ないことだ。我が身としては、他に、仕方のなかった。あれはもう治せぬ。いずれは、あの病態も隠し通せなくなる。その折には、今以上の混乱と動揺が村全体を襲うのだ。その為に、先の晩に、あの一家を葬るべく、夜討ちをかけよと村人らに指示をしたのだ。他に、なかったのだ。  言って、父の顔が捻じれた。例の悍ましいかたちになった。そのようなものを肩の上に据えて、人を模している目の前の不気味が(ゆる)せなくなり、だから、手前は、刀を抜いて首を()ね飛ばした。  理は、いずこにあらんや。  何ゆえに、友人は、人の世から追放されたのだろう。きっと、彼はもう、他人と関わり生きていくことはかなわない。悪鬼の子だという飛語は、すぐに千里に流布されるだろう。素性を隠して、どこか遠くの村にでも紛れて生きていけるだろうか。否、身の上が明らかになるなり命を狙われる人付き合いなど、聡明な彼がするはずはない。独りで、生きていく他ないだろう。  手前も、人の世は、無理であると、悟った。  身を置くに値しない、理不尽であると悟った。  人の世では、生きていけぬ。  そうして、手前は、自家の敷居を跨ぎ、戸を閉め、村を出て、山へと駆け出した。  人の世を捨てて十余年になる。  必然、彼は生涯でただ一人の友人であった。初めに、真に唯一無二といったのは、だから、こういう意味である。  あの村を離れてからは、山に籠り、ただひたすらに、刀の腕を磨いた。  手前が生きている限り、決して赦してはならぬ理不尽を憶えている。  かような理不尽を赦せぬ。かような理不尽を(もたら)す悪を赦せぬ。  理不尽を討ち滅ぼさねばならぬ  悪を斬り払わねばならぬ。  この決心を完遂せしめる為に、手前は刀を極めたのだ。  世に蔓延る悪を関知する目的でのみ、人里へと下る。人々の口にする街談巷説、道聴塗説に聞き耳を立て、理不尽を生む悪の香りがするのならば、その根源を追究し、斬った。  実に数多くの悪を、斬った。  無辜の民草の家へ夜盗を働き、盗むに足りず、(あまつさ)え、家の女子供だけを惨殺し去るという悪人もあった。夜な夜な山から下り、人間を食い荒らすという巨躯の熊もあった。人の寝静まった丑三つ時、人の眼球だけを持って行ってしまい、永遠の夜に閉ざしてしまうという(あやかし)もあった。  人間も、畜生も、妖怪も、各地の果てまで追求し、悪ならば、斬った。  ただ一つ、長年追いかけている大悪の跋扈(ばっこ)を咎めることができておらぬ。人里においては、三日月の怪と呼称されている悪であった。  曰く、その物の怪が現れ、三日月の夜が明けた村には、生きた人間が残っていないと。一夜にして村人を残らず殺してしまうと。  曰く、その死体というのが、とても人の仕業だと思えぬほど、皆一様に首を綺麗に切断されているのだと。なればこそ、人ではなく怪異の類であろうと。  かような恐ろしい理不尽の、早急に討たねばならぬ悪の、跳梁(ちょうりょう)を赦してしまっている現状に、煩悶している。  そのような折に、先の三日月の夜に、例の物の怪が現れ、すぐ隣の村の人間を皆殺しにしてしまったという噂が耳に入ってきた。  これは、三日月の怪を討ち払う、千載一遇の好機である。  長い間、こやつに関する情報を集めてきて、判明したこともある。ある村を襲えば、その次に襲うのは、その村からそう離れない村であるのだ。そして、此度襲われた村に近い村というのは、現在手前が居る山を北へと下りた先の、この巷説を手に入れた村の他にはない。  そこで、次の三日月の夜、その村にて待ち伏せをすることと決めた。  三日月というものは、記憶の中のそれよりも遥かに頼りない。つい先程までは陽が出ていたのだ。その落差の為だろうか。三日月の明かりは、か細く心許なく、手前の心身を硬くする。  例の怪異が次に現れると目星をつけた村、その外れにある民家の裏手の暗がりに、身を潜めていた。  悲鳴や物音のあれば、一目散に駆け付ける。そう決めて、奴の来るのを待った。  しかし、いくら待てども、異変の気配はない。村には、秋の虫の鳴く声が響き渡るばかりである。夜の闇が静粛に沈殿するばかりである。  陽の後を追い、もはや三日月も大きく傾き沈んでしまうかと思われたときに、自らが陰に隠れていた正にその民家の中から、小さな物音がした。  手前の身体を緊張が走るのが、はっきりと感じられた。  民家の表へ飛び出して、開いたままの戸を認めると、思わず唾を飲み込んだ。刀の鯉口(こいくち)に指をかけ、右手で柄を握る。そうして、恐る恐る、暗い家の中へと入った。  戸口から差し込む、微かな月明かりが照らしたのは、何か、(うずくま)るものの背であった。人とも畜生とも妖怪とも判然とせぬ。 「何者か」  手前の誰何(すいか)に、蹲る影が反応した。緩慢な動作で、此方を振り返った。  次の瞬間、それは、姿勢を低くしたまま、(のみ)の跳ねるが如く速さで、手前の足下に飛び込んできた。そのまま手前の脇をすり抜けて、戸口から逃走する腹らしい。  辛うじて反応できた手前は、その進路に足を置き引っ掛たので、それは、転がりながら戸外へ跳び出し、三日月の下に、姿を晒したのだった。  人間であった。左の腕はなく、右の眼球もまたなかった。代わりに(うろ)があった。してその顔は、直視するのが憚られるほど醜く(ただ)れていた。  ゆったりと立ち上がったこの人は、手前の顔を一瞥すると言った。 「久しいな」  その声は、確かに、昔日の友人のものだった。  驚愕し言葉が出ない手前を、一つの眼で見つめながら、彼は言葉を続けた。 「挨拶もなしか。(おれ)の風体が、随分と変わっているから、分からぬか」 「(なんじ)が誰かは、分かっておる。ただ、驚いているのだ。その身の変貌ぶりもだが、かような場所で、かような時刻に出会ったことに、驚いておるのだ」 「(ぬし)ばかりではないぞ、驚いているのは。己の方も動揺しているのだ」 「汝は、何をしておったのだ。かような辺境で、かような暗い夜に」 「己は、その家の人間を、殺しておった」  友人は、声の調子を変えることなく、そう言い放った。 「家に入り確かめるとよい。己が首を掻っ切ったので、もう死んでおるだろう。この家が丁度最後だったのだ、この村では。この村の人間は皆、己が、只今、殺してきたのだ」 「な……」  何ゆえの蛮行かと、尋ねようとしたのだが、よりよい質問が思いついたので、代わりにそれを訊くことにした。 「汝が、三日月の怪なのか」 「巷では、己はそう呼ばれているらしいな」 「……何ゆえに、人を殺す」  敵意を感じ取ったのか、彼は一、二歩後ずさると、滔々(とうとう)と語り始めた。 「己は、人間に見えるか。主の眼には、己は如何様に映るのか。あの晩、家に押し入った男共に、己の父は惨たらしく殺された。己と弟を連れ辛うじて村を離れた母も、陽が昇り明るくなると、村の男共に拉致され、居なくなった。弟は、その後一月ほどで、衰弱して死んだ。……己には、己にはな、己以外の、世の人間全てが、敵なのだ。敵とは、分かるか。敵というのは、己の健やかなる生存に害をなす存在のことだ。己の生きるのを妨げる存在のことだ。人間というのは、俺を殺しにくる。だから、人間は、己の命を奪おうとする天敵なのだ。蛇に睨まれた蛙、と言うだろう。食われたくない蛙は、天敵の蛇から逃げるだろう。だがな、だが己は、黙って敵に食われるか逃げるかしかない、畜生と同じではない。智恵のある人間であるから、戦うと決めたのだ。敵は、残り幾らになるのかは知らぬ。しかしな、戦う他ないのだ。己は、生きるために、敵を減らさねばならぬのだ。己は、己はな、幸せに生きる為に、人間を排していかねばならぬのだ」  彼の、隻腕隻眼の彼の、話を聞いている間に、手前は、刀の柄から手を離していた。 「実はな、主のことは人づてに聞いている。理不尽や悪を斬り捨てているそうな。己を討とうとしていることも、聞いている。主からすれば、無差別に人を殺める己は、確かに悪であろう。しかしな、そもそも悪とは、主も捨てた人の世の産物ではないのか」  話を聞き、手前には、分からなくなっていた。殺された村人達にしてみれば、理不尽であろうが、しかしこの友人からすれば、全く、(ことわり)であると、思ったのだから。  ――実に数多くの悪を、斬った。  手前には、分からなくなっていた。 「己はな、幸せに生きたいのだ」  友人は言葉を紡ぐ。 「最後に、主だけには、訊こう。主も、己の敵か」  その質問に、手前は答えることができなかった。  自失している手前の様子を暫し眺めた後、彼は言った。 「良かった。主だけは、主だけは己の手に掛けたくなかったのだ」  呟くと、彼は、夜の闇が深い森の中へと、姿を消した。  手前は、死体ばかりの、人間の居なくなった村に、立ち尽くしていた。  三日月は、既に沈んでいる。  手前には、悪は分からぬ。  ただ、世には、ごまんと人間が生きている。
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