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望郷のわらべ歌
こんな歌がある。
夕立の後に朧月 でんでん太鼓の鳴る方へ
鳥居くぐれば三日月と お狐様が顔を出す
満月の下は紅牡丹 底なし井戸に月灯り
この世の果ては新月で 落ち行く先は浄土かな
「もし雨が止んだら雷の音に向かって歩け」
大雨の中、父親は少女を森に連れ出しそう呟いた。
少女は子供ながらに父の言葉を理解し、黙って首を縦に振る。
貧しい村というのは信心深く、神や迷信が人の行く末を決める。
少女はその提示された運命を受け入れ、誰もいなくなった森で額にこぼれ落ちる涙雨を見上げた。
雷は大雨が降るから鳴るものだと思っていたが、何故か雨足が弱まった後も杉や松の間をゴロゴロと言う音がすり抜けていく。
言われた通りその方向へ歩いていくと、冷たい風が吹き抜けた先に大きな赤い鳥居が姿を現した。
そして、その控え柱にもたれ掛かるように、白衣と非袴を纏った女性が立っており、彼女は少女を見るなり指差して尋ねる。
「そなたが贄か?」
冷たい視線を向ける瑠璃色の瞳、銀色に靡く雪のような長髪、その美しい姿に少女は息を飲み立ち尽くした。
「そなたが贄かと聞いておる!」
女は少女に駆け寄ると、膝を曲げ、目線を合わせながら再度問いかける。
贄という言葉の意味は分からなかったが、きっとそれは自分のことだろうと思い彼女は「う、うん!」と大声で答えた。
「そうか……ではまず、そのずぶ濡れの服を何とかせねばな」
鳥居をくぐるとそこには大きな屋敷が聳え立っていた。
少女はそれを見上げ、まるで雄大な山々を見るかのように息をつく。
「何故に入らんのじゃ?」
「汚しちゃうから……」
「良いから早う入れ! そんなとこに突っ立っておっては風邪をひく!」
玄関先で入るのを躊躇し、屋敷を見上げる少女を女は体ごと抱き上げる。
そのまま中に入ると、服を脱がされ通されたのは湯気が立ち込める大きな浴場だった。
呆気にとられる少女を見つめ、女は不思議そうに首を傾げる。
「今度は何じゃ? 風呂を知らんのか? 体くらい洗うじゃろ?」
「体は川で洗う……」
「川って……冬もか!?」
コクリと頷くと、女は大きな溜息を吐く。
そのままもう一度少女を抱き上げ、胡座をかいた体制で膝の上に乗せると、桶に湯を組み体を流す。
頭から全身にそれが伝っていくと、雨に打たれて冷え切っていた体が熱を取り戻したのか、少女は全身の力を抜いて女にもたれ掛かる。
体が洗い終わると女は少女の手を取り、そのまま湯船に招き入れて体を浸からせた。
「名前は何と言う? 年は幾つになるのだ?」
「柚葉(ゆずは)、六つ……」
指折りで答えた柚葉は女から目を反らすと、口元まで顔を湯につけ泡を立てる。
女は「無口じゃのう」と呟き、恥ずかしそうに自分を見つめる少女の頭を撫でた。
湯から上がり衣服を着替えると、女は広々とした座敷に柚葉を座らせ「そこで待っておれ」と立ち上がるが、彼女はそのまま立ち上がりトコトコと女の後ろ姿を追ってくる。
「こ、これ! 待っておれと言うに!」
首を横に振って袖を掴む柚葉を見て、女はまた大きく溜息を吐く。
「変わった童女じゃのう」
渡り廊下を歩くと、手入れの施された中庭が見える。
池には錦鯉が泳いでおり、柚葉はそれが水面を跳ねるたびに目を輝かせたが、女の後ろ姿が遠のくとまた早足で背中を追いかけた。
広い屋敷をぐるりと回り、たどり着いたのは簡素な台所であった。女は包丁を手に取ると野菜を手際良く切っていく。
柚葉はその音を聞くと、物珍しそうに女の周りで背伸びし覗き込んだ。
「これ! 刃物を持っておる時は近付くでない!」
抱き上げて板間に座らせると、柚葉は女の包丁の音に沿って体を揺らす。
暫くすると鍋が煮え立ち、囲炉裏に置かれた魚が炙られてパチパチと音を立てる。
女はそれを椀に盛り付け、折敷にそれを乗せると柚葉の前に運ぶ。
「さぁ、出来たぞ」
「…………?」
柚葉はそれを見つめ少し困った顔をすると、怪訝な顔で女の方に目をやる。
「な、何じゃ……?」
「食べても……良いの……?」
「当たり前じゃ! これ見よがしに置いたりする訳なかろう! よく噛んで残さず食べるんじゃぞ!」
合点がいったのか、柚葉は箸を手に取ると料理を口に運ぶ。
空腹だったのかあっという間にそれを平らげると、女に手を合わせ小さくお辞儀をした。
「はいはい、お粗末様じゃ」
大雨に打たれ疲れていた上に、入浴で体が温まり満腹になったからか柚葉はウトウトと首を揺らす。
そのまま横に座る女の胸元倒れこむと、小さな体を蹲らせて寝息を立てる。
「良い夢を見やれ」
そう言って女は、眠る柚葉を優しく撫で続けた。
(堪忍じゃ……堪忍じゃあ……)
何度も自分の頭を優しく撫でた手、柚葉は雨粒が滴るその冷たい掌を虚ろな目で見つめる。
目の前に浮かぶ父の顔は何故か苦痛に満ちていた。
(柚葉よう聞け! もし雨が止んだら雷の音に向かって歩くんじゃ、ええな!?)
柚葉にとって、父が泣く顔を見るのは初めてのことだった。
小さく頷くと、父親はいつもの優しい顔に戻る。
(安心せぇ……お狐様が……お狐様きっとお前を極楽浄土へ連れて行ってくださる……ワシはちゃんと閻魔様の罰を受けるけんのぉ……)
「おっ父!!」
見知らぬ天井が目の前に広がり、柚葉は体を起こし辺りを見回す。
そこには畳張りの座敷になっており、彼女はその真ん中で布団に寝かされていた。
座敷には柚葉以外誰もおらず、時間が止まったような静寂の中、鈴虫が庭先で鳴いているのだけが聞こえる。
心細さから布団を飛び出し、障子戸を開けて渡り廊下に出ると、軒先に女が扇子を仰ぎながら佇んでいた。
「おや? 目を覚ましたのか」
柚葉は女に駆け寄るとその胸に顔を埋め、彼女が理由を何度尋ねても何も答えず、その小さな体を震わせる。
「起きたら妾がそばにいなくてびっくりしたのか?」
「おっ父は……悪くない……だから……閻魔様の所には行かせないで……」
柚葉は顔を上げ、懇願するように女の着物を掴んだ。
目に涙を浮かべ呟いた柚葉に彼女は一瞬、驚いたような表情を向けたが、そのまま柚葉を抱きしめる。
「そうか……記憶がまだ残っておったのだな」
(堪忍じゃ……堪忍じゃあ……)
何度も自分の頭を優しく撫でた大きな手は、柚葉の首筋に伸びていく。
(柚葉よう聞け! もし雨が止んだら雷の音に向かって歩くんじゃ、ええな!?)
頷いた柚葉に優しく微笑むと、父親はその喉元を強く握りしめた。
焼けるような息苦しさと体から体温が逃げていくような冷たさ、瞼がゆっくりと落ちていき、目の前が暗くなっていく。
(安心せぇ……お狐様が……お狐様きっとお前を極楽浄土へ連れて行ってくださる……ワシはちゃんと閻魔様の罰を受けるけんのぉ……)
だが、気が付くと柚葉は森の中で一人になっていた。
覚えているのは「雨が止んだら雷の音に向かって歩け」という曖昧な記憶だけ、きっと森に置き去りにされたのだと思い、その言葉通りにこの屋敷へと辿り着いたのだ。
「柚葉、こっちにおいで」
女は柚葉を庭に連れ出すと、ゆっくりと歩きだす。
池に架かる平橋を渡り、咲き乱れる牡丹の前を通って松の木を潜ると、目の前に立ち塞がる油土壁の隅に小さな木戸が現れた。
「すまぬが、少しの間目を瞑ってくれるかの……?」
柚葉は女の言葉に従い目を瞑ると、扉が開く音と共に微風が吹き抜けていく。
「もう良いぞ」
目を開けると、そこは何もない殺風景な原っぱが広がっていた。
突然のことに驚き、柚葉がキョロキョロと辺りを見回すと、女は人差し指を天へと向ける。
すると、空には浮かんだ満月の光が、女の指先に呼応するように一点へと集まっていく。
「井戸?」
その光へと駆け寄った柚葉が目にしたのは原っぱの中にポツンと置かれた古井戸だった。
水が入っていれば月が映り込むはずだが、覗き込んだその井戸の中は何も見えず、どこまで続くのかも分からない暗闇だけが広がっている。
「柚葉、よくお聞き。ここは現世とあの世の境目なのじゃ」
「境目……?」
「そなたは幼くして命を落とし……この境目に贄として送られてしまった。だが、幼いそなたを贄にするのは忍びない。だから妾の力を使って、そなたを新しき命へと転生させる」
そう言って女が井桁に手を翳すと、蛍のように薄ぼんやりと発光する縄ばしごが現れる。
「このはしごを降りていけば、そなたは新しき命へと転生することが出来るであろう。さぁ、もう行くのじゃ」
「嫌!」
柚葉は女に抱きつくと、胸元に顔を埋め首を横に振る。
「これこれ、我儘を言うでない……こんな所に長居しては現世への未練で魂が居座ってしまう。記憶を失っていないそなたなら尚更のことじゃ……」
「嫌……嫌!」
「どうしてそんなに嫌がる……?」
「ここに居たい……お狐様がひとりぼっちになるのは嫌……」
柚葉の言葉に女は言葉を失う。
黙ってもう一度柚葉を抱きしめると、一人満月の張り付いた虚空を見上げ小さく息を吸い込んだ。
「少しだけ……昔話をしようかの……そなたが住んでいた村の近くには昔、禍々しい力を持った妖狐が住んでおった」
妖狐はその力で人々を虐げ、年に一度、子供の贄を自分に献上するように村々へ命じる。
村人達は妖狐の力に逆らえず、仕方なく毎年一人ずつ選ばれた幼い命を妖狐に捧げていった。
その魂を喰らい、妖狐は何年も何年もその地で力を蓄え続けたが、ある日ついに神の怒りを買ってしまう。
「そんなに魂を喰らいたくば一生そうさせてやろうぞ!」
そう言って神は妖狐をあの世とこの世の境目に閉じ込めた。
そこには毎日のように幾つもの魂が送られてくる。だがそれは、純粋な子供の物ではなく、大罪を犯した人間達の物であった。
当然その魂は薄汚れており、罪状を聞けば耳を塞ぎたくなるような者ばかり、妖狐はそんな者達の魂を口にしようなどとは思わず、それらを選別し地獄へと送り届ける日々を送る。
一年ほどそうしている内に罪の深さを知り、妖狐からは禍々しい力が消えていった。彼女はもう、誰かの魂を取ろうなどとは思わなくなっていたのだ。
しかしその数ヶ月後、妖狐の元に新たな魂が届けられる。
それは……悪人の物でも、罪人の物でもない、穢れを知らない子供の物であった。
妖狐は愕然とし、神に涙ながらに訴える。
「こんな子供が何をしたと言うのだ!? 誰がこんなことをした!?」
しかし神の答えに彼女は言葉を失った。
「お前は自分がしたことを覚えていないのか? それはお前が虐げていた土地の子供だ!」
妖狐がいなくなっても、因習はその土地に残ってしまったのだ。
土地に根付いてしまった物は、たとえ神であっても容易に取り払うことは出来ない。
信心深い人々はそれが正しい言い伝えと信じ、子供の魂を妖狐に捧げ続けていた。
妖狐は泣いた。子供の魂を抱きかかえたまま一月泣き腫らし「どうしたらこの子は救われる!?」と神に尋ねる。
すると神は、現世へ続く古井戸をあの世とこの世の境目に置いてこう答えた。
「お前がその子を説得し、新たな魂へと転生させよ。その子がお前に心を開けば、きっと叶うであろう」
これまでの罪を贖うために、妖狐は年に一度、子供の魂を転生させることを許されたのだ。
その魂達をまるで自分の子供のように可愛がり、甘やかし、最後は一人一人の幸せな来世を願いながら送り出していった。
「そして、今年の贄がそなたじゃ……じゃが、そなたは変わっておるのぉ……幾千の子供達に新しい人生を授けたが、妾と共に居たいと申したのはそなたが初めてじゃ……」
妖狐の目からは大粒の涙が零れ落ちた。
柚葉を抱きしめたまま、彼女はその耳元で呟き続ける。
「だがそれはならぬ。妾は一番の罪人じゃ、そなたの人生を奪ったのも妾じゃ。故にそなたの父も悪くない。閻魔にそれを咎められることも無いから安心するが良い」
「でも……!」
「そなたが生まれ変わるのは、争いも差別もない平和な時代じゃ……だから……そろそろ笑って送り出させておくれ」
妖狐は柚葉を抱き上げると、そのまま井戸のそばまで歩く。
「さぁ、ここを降りれば新しき来世が始まる。怖かったら目を瞑って降りても良い」
「私は……お狐様のこと覚えてる……?」
「どうじゃろうな……もし柚葉が覚えていてくれたら妾も嬉しいぞ」
柚葉は小さな手で縄ばしごを掴むとゆっくりと暗い井戸の中を降りていく。
妖狐はその姿が見えなくなるまで優しい笑顔で彼女を見送った。
「ただいま~お母さんお腹すいた~」
「あらおかえり、夕飯もう少しで出来るから手を洗ってらっしゃい」
「は~い!!」
娘は元気よく返事すると洗面所に駆けていく。
台所には軽快な包丁の音と鍋の煮える音が響いていた。
「夕立の後に朧月~~でんでん太鼓の鳴る方へ~~」
「お母さん、それよく歌ってるけど何の歌なの?」
「え? う~ん何だったかしら?」
母は少し困ったような顔で首を傾げると、少し考え込んでこう答えた。
「でもこの歌を口ずさんでいるとね、とても懐かしい気持ちになるの」
「ふーん、じゃあお母さんが子供の頃に歌ってた歌なの?」
「でも同窓会で話しても、誰も知らないのよねこの歌……」
母はそう言った後、少しだけ嬉しそうに呟く。
「もしかしたら、お母さんだけが覚えてるのかしらね?」
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