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次の木曜日が来て、遅くに帰宅すると賢治君が待っていた。
「どうしたの?」
最初に口に出た言葉だ。
「花を活け終わって、安倍さんの顔を見てから帰ろうと思って。先日のお礼も言いたかったし。」
「お礼って?」
「色々ご馳走になったから。」
色々ご馳走、その言葉にあの夜のことが蘇り、顔を染めた。
「ああ…こちらこそ有難う。」
貴子が言うと、
「あんまり有り難く無いって感じ。。。」
「そんなんじゃないのよ。まだちょっと、少し混乱しているから、気持ちがちゃんと整理出来てから連絡しようかな、って思ってた。」
賢治君が笑った。
「なんでもオーガナイズしないと気が済まないんですね。ひょっとしたら八重洲ブックセンターに行って、フロイトやユングなんかの心理学の本を買い漁って、この一週間で読破したとか。」
「まさか。」
貴子は笑い飛ばした。
「そんな風に生きてて、疲れません?」
「私はその方が楽なのよ。私らしくいられる。そうやって生きてきたし。」
「そう思い込んでいるだけかもしれない。」
賢治君はそう言って立ち上がり、私の後ろに回った。
「ここに座って。安心してください。何もしないから。」
賢治君がまた、あの人懐こい微笑みを浮かべ、私をカウチに促し、自分はカウチの後ろに回った。
「したじゃない。」
賢治君は呆れたように貴子を見ながら瞳をぐるりと回した。
「忘れたんですか?誘ったのは安倍さんですよ。」
そう言われると何も言えない。
今日はマッサージだけします。だからご要望なら目を閉じて。」
「マッサージ?」
「そう。僕得意なんです。」
「別に必要無いし。」
「いいから、黙って俺に任せて。」
そう言って、貴子の肩に両手を置いて、優しく、けれど力強くゆっくりと指を動かした。とても心地良い痛みが首から肩の神経を刺激する。不思議な事だが、賢治君に触られるととても安心する。あんなことがあった後だから、実はほんの少しドキドキする。でもそれも含めた快感が身体を包み込んだ。
「自分の肩がこんなに凝っていたなんて、気がつかなかった。」
「言ったでしょ。安倍さんは自分でも気づかないストレスをいっぱい抱えているって。」
そうかもしれない。貴子は目を閉じたまま頷いた。
「君ってマッサージ師としても稼げるわね。」
「高校の時にラグビーやってて、先輩に鍛えられたから。僕の田舎って愛知なんですけど、うち等の高校ってけっこう強豪で上下関係厳しかったですからね。」
「そうなんだ。でもラグビーの出来る大学に進学したいとは思わなかった?」
「そりゃ迷ったけどね。けど、ラグビーで将来食っていこうと思わなかったし、ガキの頃から花屋やるって決めたし。兄貴が親父の畑を継いでてね、うちの薔薇は本当に見事なんですよ。機会があれば安倍さんにも一度見て欲しいくらい。天下の日比谷花壇が契約してくれるくらいでさ、やっぱりそれを扱う仕事をしたいって思った。」
「根っから花が好きなのね。」
「俺、三十までに独立して店持つって決めてるんです。男の料理ってあるでしょう?僕は男のための花屋を作る、そして男向けのフラワーアレンジのスクールを始めたい。大振りの花を活けるのって実はけっこうな力仕事、常に重いものも運ぶし、冷たい水使うしね。男のシェフがいて、男の華道家もいて、植木職人も男、なら男が花を習ってもいいでしょ。だって、男性は女性に花を贈るけど、女性は男性に花を送らない。だったら男がアレンジメント作るのって理にかなってると思いません?」
「確かに。」
「安倍さんの範疇から外れて僕は大学行って無いし、スーツを着たのは成人式くらい。まあ、何十億、何百億って金を扱ってる安倍さんの彼氏から見たら、僕の夢なんて彼の高級なスーツについた小さな埃みたいなもんでしょうけど。」
「さりげなく皮肉を言うのね。」
「事実だから。」
賢治君は肩から首を丁寧にマッサージして、最後に頭のツボをいくつか押した。
「今日はこれでお終い。」
「有難う。素直に気持ち良かった。身体が軽くなった。」
「こんなんで良ければいつでも。」
「有難う。」
貴子は同じ言葉を繰り返した。
賢治君は立ち上がり、鋏の入ったバッグと切り落とした花のステムや葉を集め、
「それじゃ、また。本当は帰りたくないけど、安倍さんのこと、こないだよりもっと思い切り抱きたいけど、今日は帰ります。」
そう言って、ちょっと寂しそうな顔で貴子を見て、部屋を後にした。
あの日のことは忘れて、そう告げるタイミングを探していたのに、それを言えなかった。亮介を愛している、でも賢治君といるとふんわりと気持ち良い。亮介といる時のような心地よい緊張感は無いけれど、ほっとして普段着の自分になれる。
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