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根元氏が待ち合わせの場所に指定して来たのはJRゲートタワーホテル内のレストラン「ゲートハウス」だった。貴子はロビーの隅にあるベルデスクに温泉用のオーバーナイト・バッグを預け、エレベーターで最上階まで登った。
化粧室で全身を鏡に映し、自分自身にオッケーマークを作る。アクリスのオフホワイトのノースリーブドレスと黒いダブルフェイスのジャケット、ロジェ・ヴィヴィエの中ヒール。片方の髪を耳にかけ、バンクリフのアルハンブラ・イヤリングを見せる。案内係の女性に促されてレストランに足を踏み入れると、明るい店内の右側壁一面の窓からスカイガーデンの緑が見えた。仕事とは言え、旅先の素敵なレストランで朝食を食べることが出来る特権に感謝した。
約束の時間まで十分ほどあったので、テーブルについて、やって来たウエイターに取りあえずコーヒーだけを注文しようとした途端に根元氏がやって来た。
「いやあ、仕事にかこつけ、一生に一度くらい安倍さんのような美女とホテルの朝食をご一緒したかったんですわ。」
根元氏は席に着くなりそう言って高らかに笑った。
「そんな、東京でお誘い頂いてもいつでもご一緒させて頂いたのに。」
「嬉しいこと言ってくれるねえ。いや、こういうのは旅先っていう非日常にこそ風情があっていいんだよ。」
貴子は相槌を打ち、搾りたてのオレンジジュースを口に入れた。焼きたてのパンを盛り付けたバスケットからイーストの香ばしい香りが漂ってくる。季節のフルーツ、スモークサーモン、半熟のスクランブルド・エッグとカリカリのベーコン。明日は和朝食だから、このメニューは嬉しい。料理はシンプルだが、どれもパーフェクトな調理で美味しかった。意図的に堅苦しくない世間話をしながら、和やかな朝食を終え、食後のコーヒーを飲み始めた頃合いを見計らって、ゴヤールのトートバッグから契約書を取り出した。
「一応、契約内容のご確認なんですが、事前にお読みになっているとは思いますが・・・」
顔を上げた時に、根元氏の頭の向こう、入り口付近で見覚え有る顔を認めて目を止めた。貴子はリーガル・ブラインドと言われるくらい強度の近視だが、コンタクトを使用しているのでその顔がはっきり見える。賢治君だ。隣りにパステル・ブルーのドレスを着た若い女性が寄り添っている。賢治君はダークスーツ姿で、若い女はそのスーツの腕に華奢な腕を絡ませて、何か囁き、賢治君が優しく微笑みかけている。長い付き合いのような親密で自然な微笑みだ。
「どうか、しましたか?」
根元さんに言われるまで、貴子は契約書類を持ったまま、だるまさんが転んだ、と鬼に言われた子供みたいに静止していたのだ。手を横に振り、
「あ、いいえ。ちょっと知り合いに似た人を見たものですから。勘違いでしたけど。」
そう言って、A4の茶封筒から書類を出して、根元氏の前に差し出した。根元氏が書類に目を通している間に、もう一度先ほどの方向に賢治君の姿を探した。
発見。
入り口から比較的近い、窓際の席にドレスの女性と差し向かいに座っている。
朝食デートってことはつまりお泊り?
彼女と別れたって言ってたくせに。
スーツなんて成人式以来着て無いって言ってたくせに。
恋人は洒落た店には連れていかないって言ってたくせに。
一目惚れだって言ってたくせに。
あんなに優しいセックスをしたくせに。
なんだかむしょうに腹が立ってきて、コーヒーを飲み続けた。
長身の賢治君はスーツがよく似合っている。まるでモデルみたいだ。貴子ほどでは無いが彼女も比較的背が高く、少し野暮ったいドレスが返ってイノセントな若さを強調して可愛らしい。目鼻立ちのはっきりした可愛い女の子、お似合いのカップルだ。
いいじゃないか。あの夜のことは忘れて欲しい、そう言い出す手間が省けて助かったのだから。貴子はやって来たウエイターが注いだコーヒーをまた飲み干し、根元氏に視線を戻した。
「訂正のご要望がございましたら仰って下さい。パソコンを持って来ていますから、後程修正した上でプリントアウトしてお渡しできます。」
根元氏は食事の時とは打って変わって、厳しい目で書類を確認している。そして、満期受取りの年齢制限や、投資と貯蓄のバランスなど、何か所かを指さし、
「こことこの部分、もう少し優遇してもらえませんかね。それとこのグラフは年寄りにはピンと来ないだろうから、わかりやすい具体例を入れたらどうだろう。特に定年後のベネフィットに関して、ますます高齢化が進んでいるわけだから、国のように赤字経営というわけには行かないだろうけれど、フレキシブルに対応してもらわないと。」
と、書類にマーカーペンでしるしをつけていく。根元氏は東大出のキャリアである。冗談を言って普通のオジさんのように振る舞うが、実は手ごわいくらいに頭のキレる男なのだ。少し髪が後退しているが、学生時代はフェンシング部に在籍していたそうで、きっと精悍な青年だったのだろう。貴子はいくつかのポイントで譲歩すべきところは譲歩し、譲れない箇所は別の得点をつけることで話を勧めた。貴子の仕事は商品開発だから、普段、こういう契約関係の仕事をすることは無い。けれどこうやって直接クライアントのニーズを知ることが、開発の参考にとても重要だと悟った。そのことを根元氏に告げると、
「実はそれが今回安倍さんを指名した理由でもあるんだ。美女との朝食も嬉しいが、君のような優秀な人がクライアントとダイレクトに交渉することが絶対プラスになるってね。君はすぐにそれを察知した。さすが私が惚れた人だ。」
根元氏はそう言ってにっこり笑った。また人の良さそうな普通のオジさんの顔に戻っている。
頭の良い人とする仕事は楽しい。昔、アメリカのCIAに勤務する最大の利点は約束された高収入でも驚くほどの福利でも無く、トップレベルの頭脳集団だけを集めた環境で仕事が出来ることだ、と何かの雑誌で読んだことがある。仕事の出来ない連中と働くのはイライラしてストレスがたまる。一を言えば十を理解してくれる選ばれた人だけと仕事が出来たら、それはすごくエキサイティングだろう。
コーヒーを飲み過ぎたせいかトイレに行きたくなった。根元氏に断って化粧室に向かい、用を済ませ、洗面所の大きな鏡に向かってルーセント・パウダーを叩いた。口紅を塗り直している時に、目元に今まで気づかなかった小さな小皺を見つけた。ショック。私は慌ててポーチから携帯用のアイクリームを取り出し、皺の箇所に指先を使って薄く伸ばした。二十五がお肌の曲がり角なら三十五は後退の一方通行なのだろうか。
ため息をついて化粧道具をポーチにしまい、バックを肩にかけ化粧室を出たところでいきなり腕を掴まれた。
振り向くと、賢治君が立っている。
「驚いた。」
レストランですでに見てたから、賢治君がここにいることに驚いたのではなく、見つかって腕を掴まれたことに驚いた。
「驚いたのはお互いさまだよ、トイレに行こうとしたら安倍さんの姿が見えて。週末留守っていうのは名古屋に出張だったんだね。」
貴子のジャケットから足元まで視線を上下して賢治君が言った。
「あなたこそ、何でこんなところにいるの?」
「言わなかったっけ。俺、愛知出身だって。と言ってもずっと田舎だけどね、月一くらいで花畑をチェックしに来るんだ。今、薔薇の出荷で大忙しだし。まあ今日はちょっとした野暮用でここに来たけど。」
デートでしょ、そう言おうとして止めた。そんなことを言って卑屈にみられるのは悔しい。貴子には亮介がいるのだから。花屋の店員に恋人がいようといまいと知ったことではない。
「日帰り?」
賢治君に聞かれて、
「出張は今日までで、今夜から週末は温泉旅行、多分彼と合流すると思う。」
彼、と言う言葉を強調して言った。そして、
「ごめんなさい、クライアントが待っているから。」
と告げて、歩き出した。賢治君は何か言いたそうな顔をしていたけれど、何も言わず、スーツのポケットに両手を入れたまま、貴子を見送った。歩き出す前に見た賢治君のスーツ姿は癪に障るくらいイカしていた。
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