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貴子は部屋に戻り、持って来ていたJブランドのスキニージーンズと白いコットンシャツに着替え、ロビーに引き返した。賢治君は貴子を見ると口笛を吹き、
「安倍さんのジーンズ姿、初めて見たけど、スタイルいいからすげえカッコいい。ますます惚れ直した。」
そう言って、貴子の手を引き、車まで引っ張っていった。
賢治君が助手席側に来てドアを開け、貴子が乗り込むと、
「化粧、しなくていいって言ったのに。」
ハマーの運転席で、前を向いたまま賢治君が言った。
三十五の女は、化粧しなくていいからと言われてもしないわけにはいかない。十歳若かったら、多分、素顔に色付きリップクリームくらいでどこにでも出掛けられた。ふと賢治君が連れていた若い女は化粧をしていただろうか、と考えた。遠目だったのでよくわからないが、メイクを施していたとしても、ごく薄化粧だったような気がする。
「オバさんにとって、化粧するなって言うのは裸で出掛けるくらい不可能なことなのよ。」
「安倍さんの裸ならとっくに見たし。」
賢治君がさらっと言ってのけた。絶句する貴子に、
「そうやって照れる顔、すっげえ可愛い。」
と畳みかけるようにのたまう。そのコメントを無視して、
「しかし君ねえ、もし私が彼と一緒にロビーに現れたら、なんて言い訳するつもりだったの?」
賢治君の横顔に言った。
「安倍さん昨日、多分、とか、思う、とか曖昧に言ってたし、決定事項じゃないなら試す価値ありって思ったし。言い訳なんて、学生時代の友達の弟、とかいくらでもあるでしょ。安倍さんを窮地に陥れるような間抜けなことはしないよ。大切な人だから。」
賢治君がそう言って、右手で貴子の頭を上からそっと撫でた。この手だ。この手が本当に気持ちいいのだ。
ハマーは海岸線を気持ちよく走り続ける。賢治君が少し窓を開けたので、潮風が車内に海の匂いを運んで来た。
「海の見える景色って落ち着く。この匂いも。」
「ところで安倍さんってどこの出身?」
「茨城県。海がいつも身近にあった。だからかな。海を見るとホッとする。」
「ウソー!てっきり東京生まれかと思った。」
「実はそういうフリをしているだけ。東京でいかにも東京っぽい連中って実はほとんどが地方出身よ、私を含めて東京出身者以上に東京っぽくなろうとしてるから。」
「へえ。そういうところでも頑張っちゃうんだ、安倍さんは。」
「歌舞伎の女形が女以上に色っぽいのと一緒、本当のお金持ちより成金の方が贅沢な暮らしをみせつけるのとかも、ね。」
「開き直りだな。そういうことわかっててもやめられない、ってわけだ。そりゃストレスたまるわけだ。」
「別に。強いて言えば演じることが三度のご飯より好きって役者と同じで、好んでそうするだけ。」
ふうん、そう言って賢治君は窓を閉めた。
「開けたままでもいいけど。潮風、気持ちいいし。」
「せっかく慌てて僕のために化粧してくれたのに、全部取れちゃったら悪いから。」
そう言ってハンドルを握りながら私の顔をちらっと見た。
「別に君のためじゃないわよ。三十路女のたしなみ。公共に向けるエチケット。」
「嘘ばっかり。」
貴子は、その悪ぶれない顔を見て、問い詰めたくなった。
「彼女、放っておいていいの?」
「へ?」
「彼女、連れて来たんでしょ。もしくは遠距離恋愛だったりして。」
「何のこと?」
「隠さなくたっていいのよ。」
賢治君は、何か言おうとして、あっ、と小さく叫んだ。
「見られてたんだ。」
「レストランでたまたま見かけただけよ。私だって恋人がいるんだから、あなたに可愛い彼女がいたって、私には関係無いし。」
賢治君は頭を掻いた。
「バレちゃったら仕方無いな。そうだよ。どんなに頑張っても安倍さんはエリートの彼と別れる様子も無いようだから、俺も元カノと復帰しただけ。」
「そんなとこだろうと思った。」
賢治君は貴子の顔をチラチラ見ながら、堪えきれないみたいに笑い出した。
「何よ。」
「実は妬いてくれてたりして。」
「なわけ無いでしょ。」
「いや、妬いてる。ムキになってるのが、その証拠。」
そう言って、貴子の頭を叩いた。
「止めてよ。」
「止めない。」
「そのハンドル掴んで、思い切り切るわよ。」
「無理心中してくれるんだ。それも光栄だなあ。」
そう言って、また高らかに笑った。
全くもう。そう言おうとして、言葉を飲み込んだ。彼の言う通りだ。歳を聞いていないけれど、多分二十四か五。ガキの男相手に、貴子はムキになって感情をぶつけている。
賢治君は笑うのを止めて、カーステレオのスイッチを入れた。男性ボーカルの優しい曲が流れる。
「綺麗な曲ね。」
「ちょっと前に流行った曲、エド・シーランのフォトグラフ。メロディーもだけど、歌詞がすごく良くて、ここをドライブするとき、いつも聴いているんだ。」
ふたりの愛を写真に撮って
その思い出を閉じ込めよう。
そうすれば、永遠に
目を閉じることも、心が傷つくことも無くなる。
君は僕を破れたジーンズのポケットに入れて、しっかり握りしめて、
そうすれば、君は僕に会えないときもひとりじゃなくなる。
「まさに、遠距離恋愛の曲。」
貴子が言うと、ぷっと吹き出した。
「まだ、こだわってる。」
「歌詞の感想を言っただけよ。」
「安倍さんに会えない時の俺の気持ちなんだけどなあ。」
賢治君の顔を睨み付けた時に、運転席側の窓の外の景色を見て、貴子は感嘆の声を上げた。海ばかり眺めて気づかなかった景色が広がっている。
それは一面ポピーの花畑だった。真っ青な空の下、赤、オレンジ、黄色の絨毯がどこまでもどこまでも広がる。明るい太陽光線をたっぷり浴びて元気に並んで上を向くポピーが、車で走っても走っても永遠と続く。
「凄い。」
思わず叫んだ。
「だろ?これを見せたくて連れて来た。」
賢治君は、嬉しそうにハマーを走らせた。パステルカラーの風景を見つめていると、どこか異国にいるような錯覚に陥る。賢治君のアレンジメントが美しいのは、日常的に美しい景色を眺めながら育ったせいなのかもしれない。
時折、畑で作業する人々が、ハマーに向かって手を振ったり、お~い、とか声を掛けたりする。賢治君はその都度、窓を開けて、「こんちは」とか、「爺ちゃん、元気か?」「久しぶりぃ」とか声を掛ける。
「有名人なのね。」
「田舎だからね、みんな知り合い。」
ウインカーを出して、海沿いの幹線道路からやや細い道に左折して、またしばらく走った。賢治君が再び窓を下げた。潮風の匂いが消えて、ゲランの香水JOYのような匂いが車内に充満した。薔薇の香り。フロントクラスの向こうに真紅の花畑が見える。
「綺麗!」
「だろ?」
賢治君が満足そうに笑っている。薔薇園に近づくにつれ、香りはさらに濃厚になり、それぞれの花の輪郭が鮮やかに見えた。
「一輪一輪が大きいのね。」
「ダラスって言う種類なんだ。ドイツが原産国なんだけど名前はアメリカの都市。幻の薔薇って言われていて大きさも発色も香も最高級なんだ。」
「花弁がしっかりしてて、真っ赤なビロードの絨毯みたい。」
「ポピーは前座でこれが真打、安倍さんにこれこそ見せたかったんだ。」
賢治君はそう言って無邪気に微笑んだ。
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