賢治君のチョイスと私のライフ

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「昨日、商談だったんだ。」 「初美が言ったのか?」 「うん。」 「ったく、あいつ、べらべら余計なこと。」 「いろいろ褒めてたわよ、あなたが神童だったとか、大学に行けなかったんじゃなくて、行かないことを選択したとか。」 「だから、それが余計なことなんだよ。」 「どうして?正直、惚れ直したとは言わないけれど、相当見直したけど。」 「ほら、そういう目で安倍さんが僕を見ることになるだろう。」 「それって悪いこと?」 「そういうレッテルっていうかブランド志向の世の中に勝負をかけたいんだ。日本って大学大学って形ばっかりで、行かない方がマシな大学がばかりどんどん増えるから、ニートだとか自分探しの旅に出るやつが増えていく。証明したいんだよ。人生にはいろいろな選択肢があって、人と同じ価値観で生きなくても成功出来るし幸せになれるってね。」 「それはあなたに自信があるから。ほとんどの人がそんな勇気も能力も無いから、肩書で居場所を作る。私だってそのひとりだわ。一流企業に入れたから銀行もローン組んでくれてマンションも買えたし、将来の心配もしなくて済むし、親を安心させることも出来た。みんながみんなあなたみたいに自由に生きられないわ。」 「俺は、例えばラベルを隠したワインを自分だけの好みと衝動で選びたい、そう思うだけだよ。どんな大学でも出れば高卒より偉いって勘違いしてるやつばかり。名ばかりの大学はそういう勘違いを大量生産し続けるんだ。僕から言わせるとヒッピーたちの自給自足の方がずっと生産的だと思えるけどね。」 「つまりあなたは、肩書で生きる私や私の恋人を否定する?」 「頑張ってる人は否定しない。僕は別に反社会主義というわけじゃないからね。安倍さんの彼は否定するけど。安倍さんの恋人というポジションにね。でもおたくらはちゃんと頑張って自分の決めた道をみつけて、猛烈に仕事をしているんだろ。そういう人々を否定してるわけじゃないんだ。でもね、僕にはチョイスがあるけど、安倍さんたちはライフしか無い。」 「チョイスとライフ?」 「安倍さんたちは一流大学に行った段階で人生の成功の半分を手に入れ、一流企業に入って残りの半分を手に入れた。つまり人生がロックされたわけだ。だから可愛がってくれた上司が派閥闘争で敗れて出世コースから外れたりしてこんなはずじゃなかったと思っても会社を辞めるわけにはいかない。ヘッドハンティングされない限り、中途採用は間違いなく条件を下げることになるし、経歴に傷がつく。一流企業の名刺を失えば値札が下がる。だからチョイスが無い。手に入れた肩書がライフそのものなんだ。僕はどんな形であれ花屋を続けられる。花屋はどこに行っても花屋だ。名刺なんかいくらでも作り変えることが出来る。肩書に縛られないからチョイスは無限大だ。」 「つまり、あなたは高卒チョイス。」 「そう。人って本質じゃなくて値札や産地で人を判断する。仮に北海道産の生ハムにパロマ産ってラベルつけても、味の違いに気づく人は一握りでしょ。マジョリティの人はやっぱりパロマは最高ね、ってネームバリューを信じて有り難がるんだ。本当は北海道産の方が美味しいかもしれないのに。そういう奴らがベルーガ産ってラベル貼られたイミテーション・キャビアを有り難がって食うんだよ。」  貴子は香織の家で食べたベルーガ産のキャビアの味を思い出した。さすがにイミテーションとの違いはわかるけれど、あれがベルーガ産かどうかなんてわからない。  初美ちゃんにお別れの挨拶をして、帰りの道で夕陽に照らされたポピー畑があまりに美しく、賢治君に頼んで、束の間、車を停めてその圧倒的な景色を眺めた。 「絵画そのものね。」 貴子が言うと、賢治君が肩をそっと抱いて、 「肩書なんて無くたって、自分のチョイスで美しいものに囲まれて暮らすことは出来るんだよ。欲しいものはいったん手に入れると飽きてしまうけど、本当に美しい記憶は飽きないし消えない。安倍さんが思い浮かべる美しい思い出って、大学や会社の合格発表じゃなくて、子供の頃に見た富士山だったり、家族で行った旅行の景色だったりしない?そういう風景が一生の宝物になるから。」 そう言って微笑んだ。  家族と行った旅行の思い出は無いけれど、学生時代に河口湖へドライブに行ったときに目の前で見た、富士山の圧倒的な存在感は目に焼き付いている。初めて飛行機でどこまでも続く太平洋を飽きもせずに眺めたこと、上野美術館で開催されたバーンズコレクションのピカソの「少女と山羊」を肉眼で観た時。  貴子は並んだまま、無意識に賢治君の右手を取り、その手を握り締めて、しばらくその風景を眺めていた。不思議なくらいに心が満たされる。賢治君といると、綺麗なもの、気持ちいいことがたくさん見つかる。 「初恋は高校一年年の時だった。」  賢治君が、突然呟いた。 「随分と遅いのね。」   賢治君が貴子に振り返って微笑んだ。 「そうかもな。まあ、幼稚園の先生とか小学校の時に実習に来てた大学生のお姉さんとか憧れみたいなのはあったし、中学校の時に可愛いなとか思った子もいたけど、イマイチ盛り上がらなかった。だから彼女が初恋だな。意識したりドキドキしたりするのを隠そうとけっこう必死だったから。」  貴子は思わず微笑んだ。高校生の賢治君が目を逸らしたりドギマギする姿、ちょっと想像しにくいけれど。 「どんな人?」 「優等生。眼鏡かけてる真面目を絵に描いたような。でも明るくてリーダー的で、一緒に学級委員やってた。」 「優等生タイプが好きなんだ。」 「そう、安倍さんみたいに優等生。まあ、彼女は安倍さんみたいな美人じゃなかったけど、色白でライトブラウンの綺麗な目をしてた。」 「じゃあ、あなたとは優等生カップル。」 「成績で言ったら僕は彼女に勝ったことは無かった。」 「そうなの?」 「全ての学科の総合順位だと常に彼女がトップ。俺、理数系は勝てたけど暗記物とか嫌いだったし。暗夜行路の作者が志賀直哉とか、作品知らないのにあみだくじみたいに正しい答えを線で結ぶ、みたいなことが無意味に思えた。」 「一般常識として知ってた方が社会に出て恥をかかない。」 「もちろん、そういうことだとはわかっていたけど、馬鹿らしくてね。でも彼女は律儀に覚えるんだ。そしてどんなことでもわかるまで、納得するまで根気よく勉強する。無意味な暗記が嫌ならその作品読めばいいじゃない、なんて言われたりして。」  私に似ている、と貴子は思った。 「彼女はね、親が小児科医でお姉さんとふたり姉妹、お姉さんは完全な文系だったから彼女が将来医院を継ぐっていうミッションを背負ってて、そのことに疑問を抱くことなど無く、律儀に従っていた、と当時の僕は思ってた。僕は将来花屋やりたいって気持ちはあったけど、大学に行くという選択がゼロだったわけじゃ無かった。ラグビーを続けたいって気持ちも多少あったし。」 「迷ったりしてたんだ。」 「まあね、いろいろ揺れてはいた。思春期だし。」 「それで彼女は小児科のお医者さんになったの?」  賢治君が下を向いたまま首を横に振った。 「彼女、明石さんっていうんだけど、中学校から美術部の部長で、県のコンクールでも何度も優勝してた。僕は明石さんの絵も大好きだった。彼女に花を書かせるとめしべの濡れたような感じとかおしべのパウダーっぽいところもリアルで、なのに雰囲気が現実離れしてて吸い込まれるような絵を描くんだ。それで、二年生の二学期が始まった頃だった、放課後一緒に校門に向かって歩いている時に、明石さんが突然立ち止まって言ったんだ。鹿沼君が羨ましいって。親の職業と自分のやりたいことが繋がっていてブレて無いんだからって。私は本当は医者になんかなりたくない、絵描きか美術の先生になりたい。中学生の頃からずっとそう思っていたんだって。」 「ご両親は多分猛反対するでしょうね。画家は一握りの人しか認められない将来が見えない職業だし、美術の先生だって開業医のお嬢様には金銭的に苦労するのは目に見えてるし。」  賢治くんが頷いた。 「意を決して美大を受けたいって言ったら父親に、絵に描いた餅で生活は出来ない、医者になって趣味として続けろ、そう言われたって。」 「絵に描いた餅、お父様上手いこと言うわね。」 「いや、彼女はそれ以上のことを言い返した。」  そう言って、賢治君が思い出すように笑った。 「何て言ったの?」 「お父さんは私が本当に好きな人と結婚したいと言っても、お父さんが探して来たお見合い相手と結婚させて、その彼は愛人にしなさいって言うんでしょうねって。」 「あはは、言い得て妙。」 「カンカンになったお父さんに絵の具もキャンバスも全部捨てられたって言ってた。明石さんは観念して医学部受験するふりして、塾をサボってアルバイトしてお金を貯めた。そして、そのことをそっと僕に教えてくれた。」 「で、どうしたの?」 「高校を卒業すると家を出て、絵の専門学校に通い始めた。」 「美大じゃなくて?教師になりたかったんじゃなかったの?」 「大学なんてどうでも良くなったんだ。アルバイト先が小さな絵画教室で、そこの若い所長と恋に落ちて結婚した。今は夫婦で一緒に学校を切り盛りしながら、たまに個展を開いてるらしい。」 「じゃあ、あなたとは自然消滅?」 「だって付き合って無いから。」 「ウソ、告白とかしなかったの?」  賢治君が頭を掻いた。 「男と女っていうより同志、ソウルメイト的友達になっちゃってて、そういうタイミングがつかめなかった。」 「らしくないわねえ。」  貴子は賢治君の顔を覗き込んだ。 「大切過ぎて壊したくなかったから。大して好きでも無い子には手を出せたんだけどね。だから、他の女の子とデートしたりしてた。」 「呆れた。そんな軽薄なことしてるから嫌われたんじゃない?」 「僕のことは異性として見て無かったと思う。同い年の男はガキに見えたのかもしれないな。実際、結婚相手はかなり年上だったし。でも、ひとつだけ確かなのは、彼女が自分のために人生を選んだってこと。」 「一度でも後悔しなかったのかな。他人のあなたにはわからない葛藤だってあったかもしれないわよ。」 「かもな、一度だけ、東京で一緒にお茶を飲んだことがあるんだ。相変わらず眼鏡掛けてるんだけど、四角い赤い眼鏡が黒縁の丸い眼鏡に変わってたせいか、がり勉風な雰囲気は一層されて、なんかマンガチックでね。ラフなシャツとジーンズで化粧っ気無しで、親の期待っていう重荷を捨てて楽になって、それに子供が出来たら親とも和解したって。孫みたら親も目尻下げて降参みたいよ、って笑ったんだ。その時の笑顔がかつての笑いと全然違うことに僕は気づいた。いつも明るく良く笑う人だったけど、あの頃の笑いは笑うための笑い、脳が命令してその命令に忠実に従った笑い。でも、その日の明石さんは笑いたいから笑ってた。そのくらい自然な、皮膚のずっと下から溢れ出したような笑いだった。」 「つまり明石さんはとっても幸せに暮らしているのね。」 「もちろん苦労はあるだろうし、経済的にはお嬢様時代とは雲泥の差、医者のステイタスとか捨てたものが大きくて、正直、親の言う通りの選択をしたらどんな人生になっていたんだろうって思うことはあるって言ってた。働きながらの子育ては大変だし、お金のやり繰りも骨が折れるしって。それでも自分の好きな道を選べたから後悔しないって。」 「ひょっとして、あなたは彼女に感化された?」 賢治君は視線を繋いだ手に落とし、柔らかく微笑んだ。 「さあ、どうだろう。ただ、彼女が自分のやりたいこと貫いた意思みたいなものに感銘はした。誰でも出来る簡単なことじゃないから。それって医者になるよりはるかに難しい選択だから。世間的には逆で医者になる方がはるかに大変だと言われるかもしれないけど、強い意志が無いと貫けることじゃないから。」 「そしてあなたも大学に行かずに花屋になる道を選んだ。今度こそ明石さんにに負けたくなかったから。」 「その逆だよ。花屋をやりたいって気持ちはずっとあった。彼女がそのまま大学に行くって決めたら僕も迷いが生じたかもしれない。安倍さんの言う通り、学歴で格差をつけられたくなかった、同等以上でいたいって気持ち、正直あった。でも、それ以前に僕が大学に行かないって決めてたのは、やっぱり高校すら行かなかった僕の両親が丹精込めて築いた薔薇の畑を何かの形で継続したかった。僕の両親は僕に何かを強制することなんてなかったけど、子供の僕が大人になっても花屋をやりたいって強烈に思い続けるくらい美しいものを育てているから。」  優しい眼差しで語る賢治君の横顔を眺めながら、貴子はふと思った。 「逆かもしれない。」 「ん?」 「彼女があなたに感化されたんじゃないかな。」 賢治君が振り返った。 「明石さんは鹿沼君を密かに想っていた。あなたに会わなかったらそのまま医大に行ってたと思うな。」 「まさか。さすがにそれは無いだろ。」 「どうかな。あなただってそんな風に思ったこともあったんじゃない。」  私は賢治君の手を取った。 「もう一度聞く。彼女に告白しなかったこと、後悔して無い?」  賢治君が私に振り向いた。 「実はすっげえ後悔してる。ダメでもトライすべきだったって。生意気なガキだったからさ、変なプライドが邪魔した。だから、そういう後悔は二度としないって心に決めた。」  賢治君は貴子の顔を真っ直ぐ見ながら言って、少し目を細めて風に揺れるポピーたちを眺めた。
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