賢治君のチョイスと私のライフ

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 その日も終日ジメジメした典型的な梅雨日だった。午後九時を回り、社屋のビルを出て傘を差そうとして、急に面倒になりタクシーを拾った。タクシーの中でお腹が鳴った。まだ夕食さえ食べていない。でもどこかで外食することも、買い物に寄って料理することもおっくう、そんな夜だった。家に着いたら、梅干し入りのお茶漬けでも食べよう、月に一度門前仲町の近為で買う絶品の梅干しだ。確かその時一緒に買った京のお漬物が残っているはずだ。そう思いながら座席に深く身を沈めた。  マンションの前でタクシーを降り、エレベーターで部屋に向かう。目をつぶったままでも辿りつける貴子の戻るべき巣だ。  玄関の鍵を回しドアを開け、リビングに向かった。電気をつけようとした瞬間、いきなり誰かに抱きすくめられた。叫び声をあげようと口を開けた途端に、その口を口で塞がれた。顔を上げると賢治君だった。 「ちょっと何するのよ。」  唇を離された瞬間に彼の身体を力を込めて押しのけた。賢治君はその腕を掴み、もう一度貴子をきつく抱き寄せ、濃厚なキスを仕掛けた。もがこうとしても彼はそれを許さない。絶対離さないと決心したみたいな抱き方、キスだった。全身が溶けてしまいそうな感触に、貴子は途中から彼の抱擁とキスを受け入れ、応えた。長いキスを終えると、賢治君にいきなり抱きかかえられ、寝室へと連れていかれた。  これまでこんなに激しく誰かに抱かれたことなど無い、まさに直球のセックスだった。前回のように微笑み続ける優しい賢治君では無く、真剣な顔のままひたすら求めてくる。誰かを思い切り求める、ふたつの身体をひとつにしたいというのはこういうことなんだと全身全霊で伝えるように。貴子はそんな彼が心底愛おしいと、初めて感じた。  全てが終わると、半身を私に向け、肘で頭を起こし、 「謝らないよ。」 と言った。 「悪いことをしたとは思ってないから、謝らない。」 もう一度、言い直すように言った。 「どうして?」 自分のかすれた声が恥ずかしくなる。 「今夜だけ我慢するの、やめた。そしてあなたも俺を求めていると感じたから。」  賢治君が初めて貴子を安倍さん、では無く、あなた、と呼んだ。貴子が彼を求めているか否か、あの夜からずっとずっと混乱してばかりで、自分が賢治君に何を求めて何を求めていないのかもわからない。亮介への思いと賢治君への感情がシーソーのようにばったんばったん揺れている。そしてシーソーを揺らす風は一向に止まない。  突然、お腹が鳴った。賢治君が起きあがった。そして、いつもの人懐こい微笑みを向ける。 「ひょっとして、夕飯まだだったりして。」 「何か食べるつもりが、いきなり襲われたから。」 貴子は、元に戻った声でそう言った。 「ごめん。そのことに対しては謝る。じゃあ、その謝罪として今夜は僕が料理するから。」  賢治君はベッドを降りて背中向きに立った。全裸の幅広い肩、贅肉が全く無い背中、形の良い尻が窓からの月明りに白く輝き、貴子は思わず目を逸らした。 彼は下着とジーンズを履き、Tシャツを腕に通しながら寝室のドアを半分開け、振り返って 「冷蔵庫の具材、勝手に使わせてもらうよ。」 と言って、キッチンに向かった。    賢治君が作ったのは明太子スパゲティとブロッコリーとアボカド、プチトマト、竹輪のサラダ、ゴマ・ドレッシング。冷蔵庫の中のものを組み合わせたようだ。  明太子スパゲティーを一口食べて、私は叫んだ。 「何これ!」 「ウソ、こういう庶民的な料理はダメ?」 賢治君が心配そうに貴子の顔を覗いた。 「逆よ。めちゃめちゃ美味しい。竹輪とアボカドとゴマのドレッシングの相性も抜群だし、パスタの味付け、バター、お醤油、味醂の他に何か入れた?」 「昆布茶とレモン。」 「あなたって料理上手なんだ。」 「調理師の免許持ってるからね。言ってなかったけど、週3回レストランでウエイターのバイトもしてる。」 「マジで?」 「日比谷花壇だけじゃ三十までに開店資金を溜められないってのもあるけど、花屋にカフェを隣接する予定で資格を取った。アレンジメント待っている間に寛げるような、男がひとりでも照れずに入れるような。」 「女がひとりでも入れるような、っていうのが普通なのに。」 「仕事の帰りがけに彼女や奥さんに花を買って帰る。本屋にカフェが隣接するように花屋にカフェがあってもいいはず。花ってギフトが多いから、アレンジの待ち時間を有効に使えるようにしたいし。」 「居酒屋、定食屋が好きだっていう君の発想とは思えないんだけど。」 「逆なんだよ。今ってちょっと目に洒落た店構え、でも料理やサービスはがっかりって店が多いでしょ。巷では女がひとりで牛丼屋に行く時代にシフトし始めてるのにね。」 「確かに箱は人目を惹くけれど中身がっかりって店は多くなったわね。でも女が牛丼屋にひとりで行く?」 「行く行く、モツ料理の店とかも人気だし。あなたみたいなスノッブな人種は例外だけどね。」 「スノッブと言われて光栄だけど。」 「だろうね。話がちょっと逸れたけど、とにかく、花束を待つ間にメールでもしながら居酒屋や定食屋とは違う、胃にも目にも優しいものを花に囲まれて食べてもらう、そんな感じかな。」 「そこで、ローズヒップのクッキーも出すのね。」 「ああ、あれはサービスで出すつもりだったんだけど、売れるかな?」 「あれは売れる、私が保証するわ。花とクッキーって女性が喜ぶセットだし。」 「そうか。女性の意見も貴重だな、有難う。」 「どういたしまして。ね、今度賢治君がバイトしてるレストラン、食べに行ってもいい?」 「止めた方がいいと思うよ。ウチの店もご多分に漏れず、ペイはけっこういいんだけど見た目ばっかで味は大したことないんだ。俺が作った方がいいと思うくらい。免許持ってるから調理場で働けないか聞いたけど、君は接客してくれって却下されたし。」 「あなたのルックスじゃあそう言われるでしょうね。若い女のコ、集客出来るし。」  否定も肯定もしない賢治君を見ていて、ふと投資家の件を思い出した。 「そう言えば、名古屋で会った投資家の話ってどうだったの?」 「ああ、あれ、まだ決めて無い。」 賢治君はスパゲティをフォークに絡ませながら、何でも無いように言った。 「大きな資本に振り回されるのって嫌だし。」 「でも、チャンスなんじゃない?」 賢治君が食べるのを止めて貴子を見た。 「あなたの言うチャンスって、どういうチャンス?」 「三十まで待たないでジャンプスタート出来るし、資金的に余裕が出来る。」 賢治君が苦笑いした。 「いかにも大手勤務の発想だよね。僕は無理しないで自分の出来る範囲で小さく始めて、溜めたら少しずつ広げる。借金って借金を呼ぶから。」 「投資なんだから借金とは違うでしょ。」 「同じことだよ。先方だって慈善事業じゃないんだから、先方は自分に有利なように契約を持って行くよ。」 「じゃあ、あの日、どうしてスーツなんか着てわざわざ会ったの?」 「話だけは聞いておきたかった。別に意固地に人の話を絶対聞かないって言ってるわけじゃないし、オプションは多い方がいいし。」 「成人式以来スーツは着ない主義だと思った。」 「そういう無駄な主義は持たない主義だから。」 賢治君はそう言って、大きく伸びをした。 「そろそろ帰るよ。」 「もう少し、いてもらってもいい?」 ん?賢治君がこちらを向いて、貴子の顔を正面から見据えた。 「食後にもう一回?」」 貴子は目を逸らし、咳払いをした。 「賢治君っていくつなの?」 「二十五。」 間髪言わずに言われた。予想通りだが、実際に音で聞くとグサッとくる。 「若いなあ。」  思わず口にした。 「若いよ。大学行かないで働き始めたから、たいがいの人より若いし。」 そうだよね。貴子は曖昧に笑った。 「私の歳知ってる?」 「知らないけど、自分のこと三十路って言ってたでしょ。」  「三十五。」 「ぴったり十歳上だあ。」 「計算しなくて宜しい。」 「計算しなくてもわかるでしょ、それくらい。」  そう言っていきなりお姉さまぁと甘い声で抱きついてきた。貴子は彼の頬をぴしゃりと軽く叩いた。賢治君は痛え、と言って、仕返し、と笑いながら、今度は頭を掴んで髪をぐちゃぐちゃにした。そして急に真面目な顔になり、 「帰りたくないけど、泊まるわけにはいかないよね。」 そう言って貴子を見つめる。 「ごめんなさい、やっぱり・・・」 「ああ、そうだった、僕は安倍さんの想定外で範疇外だし。」  賢治君はそう言ってにっこり笑った。寂しそうな笑い。貴子は賢治君を思い切り抱きしめたくなる。ずっとこのまま一緒にいたい。もう一度抱き合いたい、朝まで一緒にいたい。そして別の自分がそれを押しのけるように否定する。貴子は突然泣きたくなった。そんな表情を見て賢治君が貴子の頭を優しく撫でた。 「いいよ。いつか、安倍さんが誰かのためじゃなくて、自分のためのチョイスが出来るまで、僕は安倍さんのトランキライザーに徹するから。」  その夜から、賢治君は時々部屋にやって来るようになった。もちろん亮介の存在は承知しているので、あの夜のように突然中で待っているようなことは無い。事前に連絡してくるし、セックスもあれ以来していない。
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