賢治君のチョイスと私のライフ

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 桜田亮介は自動車部品メーカーに対する融資の稟議書を作成していた。ここは一昨年粉飾決算で新聞の見出しにも載った企業だ。その後、同族経営に引導を渡し、銀行から取締役が派遣され、昨年、従業員のレイオフを含めた大幅な経費節減が決行された。今期もまだ赤字の後を引いてはいるが、新製品であるエンジン内部の精密部品の特許も通り、ヒットすれば来季にはかなりの利益が期待される。  実は創業者の次男である社長は専務の学生時代からの友人である。先日ゴルフに顔を出したのは、その辺のところを考慮して有利な稟議を上げて欲しいという打診を兼ねたものだった。とは言え、この会社に何かあったら、責任を取らされるのは自分だ。片道切符でどこかの出向に回されるだろう。それが銀行と言う組織だ。だからこの数日間、決算書や事業計画を重箱をつつくように何度も何度も読み直した。  確かにこの新製品は魅力的だ。起死回生のチャンスはあるかもしれない。恩を売れば安定した大口の顧客として長期的な利益が見込める。万が一、新製品がぽちぼち程度だとしても、経費節減が功を奏して、潰れることはまず無い、そう結論づけて担当欄に判を押した。  ひと仕事が終え、肩に手をやって凝りをほぐす。背もたれに掛けてあったゼニアのジャケットの内ポケットから携帯を取り出し、いくつかのメッセージに返信し、それから席を立ってコーヒーでも飲もうと歩き始めたところで、デスクの内戦が鳴った。慌てて席に戻り受話器を取ると、全国にビジネスホテルチェーンを展開するエクセレント・グループの社長の恩林俊作から、相談したいことがあると言われた。  恩林は名古屋から始めて一代でホテルのチェーン化を成功させた人物だ。コンパクトな部屋、フリー・インターネット、何より、チェックインは全てネットか電話で前払いというシステムが昨今のネット社会にスムーズに受け入れられた。レストラン、ミニバーなどは一切無いが、一階に必ずコンビニエンスストアと、その横にイートインのコーナーを設けることもビジネスマンたちの人気に拍車をかけた。場所によっては女性客専用のフロアを作り、リピーターのために有料のストーレッジルームを用意して宅配で荷物を一時預かりするなど、痒い所に手が届くきめ細かなサービスが功を奏したわけだ。利益を生むのは大型ホテルでは無く、こういう小さなビジネスホテルだと亮介に認識させたのがこのエクセレント・グループである。  本社は今も名古屋で、担当も名古屋支店が扱っている。ただ、二年前、高度な買収案件が持ち上がった時に本店の専門部とやり取りがあり、その件で関わった亮介は恩林にすっかり気に入られた。本来なら投資の相談は名古屋支社の担当者に行くのが通例だが、どうも投資対象が東京なので亮介に白羽の矢が立ったということらしい。 「かしこまりました。社長のご都合に合わせてお時間空けさせて頂きます。」  そう告げると性急に今夜、ペニンシュラのつるやに七時と指定された。銀行側の接待では、自分のような若輩が差し向かいで行けるような店では無い。喜んで伺わせて頂きます、と電話を切って、貴子にメッセージを送った。 「ごめん、今夜のデートはキャンセル。取引先との会食が入った。また連絡する。」  携帯のバイブレーションが鈍い音を立てた。亮介からだった。デートのドタキャンだ。最近忙しいらしい。確か問題のある企業の稟議書に手間取っていると言っていた。まだ長引いているのだろうか。貴子は貴子で相変わらず残業続きだ。七月に入り、お盆に海外旅行へ行く同僚も多く、ハワイやパリやニューヨーク、それぞれのデスティネーションの話でみな盛り上がっている。 「安倍さんは海外には行かないんですか?」 加藤由香里がさっそく探りを入れて来た。 「私は国内。」 手短に答える。 「え~、やっぱり彼氏とですかぁ~?どこですかぁ?」 「金沢。」 「わあ、渋~い。」  貴子は無言で微笑した。毎年亮介はお盆に帰郷する。一家でお墓参りをすることがマンダトリーなのだ。長期の海外旅行は無理だが、お盆の前半に金沢や福井で貴子と二泊ほどして、帰りは別の飛行機で帰京ということになる。  この三年間、この時期になると、実家に一緒に行こうと誘われることを期待してきたが実現には至らない。今年は思い切ってひとりで海外でも行こうかとも考えたが、海外旅行の予約は最低二か月前には決めなくてはならないので、予約した後に親に会ってくれと言われたらと期待し、ずるずると予約を先延ばしにする。そして手配は手遅れになる。  ふと賢治君の顔が浮かんだ。彼と旅行したらどんな旅になるのだろう。五つ星のホテルは期待できないだろうけれど、きっと想像できないような美しい景色を探して、カジュアルでも飛び切り美味しいものを食べて楽しい旅になるだろう。彼がもう少し年上だったらいいのに。そんな風に思う。京大に行っててくれれば良かったのに、とも。  もしも亮介に会う前に出会ったら貴子は賢治君に恋をしただろうか?いくら神童だったと言っても高卒の花屋の店員に?しかも十歳の歳の差。冷静な自分は全面否定するけれど別の自分が自分の足を引っ張る。そして問いただす。一緒にいてあんなに楽しい男に出会ったことある?  そして現実的には冷静な方の自分が勝って、亮介を選ぶ。亮介のような男と結婚するために今まで頑張ってきたのだから、と。  亮介は畳の個室で恩林を待っている。膳の上にはすでに突き出しの鯉の荒いとビールが置かれている。時計を見た。約束の時間まで十分ほどある。恩林が現れる前に携帯をチェックする。貴子からメッセージが来ている。 「相変わらず仕事の鬼ね。でもそういう亮介が嬉しい。頑張ってね。」  貴子は気遣いの出来る女だ。しかもいつ会っても隙が無く美しい。強そうに振る舞うが、実は従順で、子供を作ることを考えても、彼女は背も高いし美人で聡明だから、容姿も頭も優れた子供になるだろう。そう、子供のことを考えると、彼女の年齢では近いうちに結婚するべきなのだろうとも思う。それなのに、プロポーズを先延ばしにしている自分がいる。どうしても結婚したいかと言うと、どうなんだろうと曖昧になってしまう。彼女が結婚相手として不十分というより、どうしても彼女と結婚したたいかと聞かれると、そうでも無いような気がする。別々に暮らす今の関係が快適で、自分の気持ちがまだ結婚に前向きになれないのだ。 「いやあ、待たせたね。」 恩林が障子戸をあけて入ってきた。 「いえ、私もたった今参ったところですから。」 そう言って立ち上がり、上座を勧めた。 「まあ、取りあえず一杯。」 恩林に言われて、亮介は慌ててビールをグラスに注いだ。 「花屋、ですか?」 「そうなんだ。花屋に投資しようと考えている。投資額は一本。」 「一億ですか。」 「本人は二千万程度の予算で始めたいようだが、私が介入するからには規模を大きくしたいと考えている。一等地でば~んとね。中途半端では意味が無い。」 「どうなんでしょう、それだけの額を花屋に投資と言うのは。」 「発想が面白い。今までに無い花屋だ。男のための花屋、男が通うフラワー教室、カフェを隣接して飲み屋ともファミレスとも違う男たちの憩いの場所、良く考えているよ。」 「男のフラワー教室。」 「面白いだろう?今までに無い発想だ。彼曰く、自分の恋人が作ったアレンジメントを貰って喜ばない女はいない。逆に女がアレンジメント作っても男は喜ばない。だから男が花を習うべきだと。どうだ、逆の発想、目から鱗だろう。しかも、その発案者はたった二十五の花屋の店員って言うんだから仰天だ。」 花屋の店員。ふと貴子と一緒にいた日比谷花壇の美青年の顔が浮かんだ。 「社長、そんな話を真に受けて一億投資するって仰るんですか?」 恩林が高らかに笑った。 「守るのが仕事の銀行さんからみたら気が違ったと思われるんだろうねえ。でも、この青年がいや、実に面白い奴でね。冷静で自信に満ちて、ブレってものが全く無いんだ。説得力もある。極めて優秀な青年だったよ。事業計画書も、多分、あらゆるところに電話やメールで経費をリサーチしたんだろうな。開業資金から売り上げ推移表までそりゃもう細かく網羅してて、それが現実的で正確なんだ。こいつは本物だと、一代で全国十七店舗のホテルチェーンを築き上げた私の勘ってやつだ。それにそろそろ道楽のひとつで博打やらかしたいってのもあるんだがね。」 「その事業計画書というのは、今お手元に?」 「もちろん持って来たよ。勘と言ってもプロの銀行さんのご意見も聞いておかんとな。急いでるわけじゃないから、時間かけてもらっていいから。」 恩林はそう言ってビールを飲み干した。    会食を終え、千代田区の自宅のマンションに戻って、恩林に渡された事業計画書を開いた。 鹿沼賢治。 聞き覚えのある名前。 鹿沼賢治。 嫌な予感がした。亮介は玄関脇のシュークローゼットの上のトレイに置いたカードケースから名刺を一枚取り出した。 日比谷花壇  フラワーコーディネーター 鹿沼賢治。 亮介は鹿沼賢治の名刺を持ったまま、その場に立ちつくした。 こんな偶然ってあるのか・・・。
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