賢治君のチョイスと私のライフ

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 彼女は走っている。ジミ・ーチュウの8・5センチヒールを履いているのに、朝、鼻の上、若気の至りで作った小さな日焼け跡の染みを、ナーズのコンシーラーとボビーブラウンのお粉をはたいて完璧にカバーしたのに、散々迷って、ようやく決心して買ったディオールのベージュのスカートのスリットが破れそうになりながら、心臓が破裂しそうに息を切らして走っている  彼に会ったのは日比谷公園だった。 時々、公園のベンチに座ってサンドイッチやお弁当を食べる。彼女が勤務している大手の保険会社には社員食堂もあるし、徒歩圏内に安くて美味しいランチ処はたくさんある。銀座に出て老舗フレンチのお得なランチを味わうことも、帝国ホテルのカフェで優雅に正方形のサンドイッチを楽しむことだってできる。でも、お天気が良い日に日比谷公園で誰にも会わずにひとりでランチを楽しむことは、彼女のささやかな自由時間だった。数十分でも陽ざしを浴びてビタミンDを補給し、緑豊かな公園を歩いていると心から寛ける。同僚が嫌いなわけでは無いし、人付き合いが苦手という訳でも無い。ただ、ランチタイムを仕事関係の人々と過ごしたくないのだ。朝から夕方どころか、当たり前のような残業で夜遅くまで顔を突き合わせているのだから、ランチくらいお世辞笑いや話合わせの相槌を打ちたくなかった。  彼女は心の中で呟いた。  私は変わっているのだろうか。  今年の四月に三十五になった。桜が散り、スーツがまだサマにならない新入社員が配属され、逆に古参が移動、昇格や左遷など、新顔と知る顔が入れ替わる時期である。彼女の勤務する商品開発部でも、同期の男性が財務部に移動になり、新卒の男子が一名配属され、寿退社の穴埋めに契約社員が一名やって来た。  今年で十三年、変わらずこの部署に居座っている。総合職として、時代にあった新しい商品の開発や、それに伴う厚生労働省の認可申請などの業務まで一貫して行うやりがいのある仕事だ。与えられた以上の仕事をこなす優秀な社員だし、社長賞も二度授与した。子供の頃から綺麗と言われてきたし、長身でスタイルも悪くない。強いて言えば胸が小さいが、昨今は高性能のプッシュアップブラという武器がある。まあ、そんなことより多分皆さんが一番聞きたいことは恋人がいるか否か、でしょう。それなら一応いる。学生時代の友人の結婚式でたまたま隣に座っていた、大手銀行東京営業部、桜田亮介という、少女漫画に出てきそうな名前の男だ。彼女の名前は安倍貴子。キコと読めば、皇室に嫁げたかもしれないが、残念ながらタカコと読む。アベタカコ、少女漫画では絶対使われない名前だ。三十過ぎてから出会った彼のことは、その顔を思い浮かべて頬が緩むような情熱的な間柄では無いけれど、結婚相手としてはまずまず、顔も上品に整っているし、百七十二センチの貴子より十センチ背が高く、石川県の旅館の次男で東大卒という釣り書きも完璧だ。だが、彼はなんでも自分の思い通りにしないと気が済まないという性格、ようするに典型的なボンボンである
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