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「だから、どういう風にボンボンなのよ。」
貴子が唯一心を許せる高校からの親友の香織に聞かれた。昨年、思い切って購入したマンションの、これまた勢いで買った、リビングの真ん中に鎮座するB&Bの白いカウチに、その小枝のような足を組んで座っている。
「単に我儘っていうなら可愛いというか許せるんだけどね、一応私の意見を尊重するフリしながら、自分の意見を通しちゃうのよ。」
「よくわかんないけど、具体的に言うと?」
「例えばね、レストランに行くでしょ、前菜を何にするか決めるときに貴子は何がいい?って一応聞くんだけどね。私がイサキのカルパッチョが美味しそう、とか言うでしょ。そうすると、うんいいねえ、美味しそうだね、でもここはやっぱり王道でカラマリ・フリットもいいんじゃないかな、とか言うわけ。そこで私が、いいえ、イサキの方がいい、なんて固執するのも大人気無いじゃない。だからカラマリに決定するのよ。」
「なるほどね。」
「つまり、万事が万事そういう感じなの。旅行に行こうと計画する。私は修善寺のあさば旅館にしない?って言う、いいねえ、落ち着くし、って言いながら、でも快適なのは箱根のハイアットだと思わないか、アクセスもいいし、素敵なバーもあるしって返してくる。で、結局はハイアットで決まり。これから先も、ずっとそうやって、やんわりと彼の意見に従って生きて行くのかなあって思うと、なんだかストレスたまりそう。」
貴子はキッチン・カウンターの前の、背もたれがついたベージュ色のレザーのバースツールに横向きに座ったまま、カウンターの上に片肘をついた。
「でもさあ、さっきから聞いてると、どちらにしても高級レストランや高級ホテルに連れていってくれるわけだし、私から見れば結婚相手としては合格だと思うけどね。イサキとイカ、老舗旅館と近代的ホテルの違いはあっても、エルメスのケリーが欲しいのにバーキンをプレゼントされたって文句言ってるみたいに聞こえるけど。」
そうお叱りを受けた。ちなみに香織は貸しビル業を営む富豪の男性と結婚した優雅な専業主婦である。語学を生かして外資系の証券会社に入社し、三十になる二歩手前、顧客の実業家に見初められあっさり輿入れした。今では両親のいいとこ取りの可愛らしい顔立ちの娘の母親、主婦と呼ぶにはあまりに贅沢な暮らし、港区の一等地、瀟洒な外国人向けマンション(それも夫の持ち物だ)の一階部分を住居にしている。小柄だが香織は彫りの深い美人で、黒髪和風顔の私とは正反対、金髪にしても似合いそうな大きな瞳と筋の通った鼻、折れそうに細い身体に反して、ちょっと生意気そうな雰囲気が男心をくすぐるのか、学生時代からとにかくモテた。
実は香織には付き合っていた社内恋愛の男がいて、しばらくは二股状態にあったが、現在の夫にプロポーズされると、元カレをあっけないほどバッサリとフって会社を辞めた。「香織がそんなに計算高い女だとは思わなかった」と言うと、「良い結婚って就職活動みたいなもの。要領の良い女ってつまり頭がいいってこと。貴子はお勉強は人一倍出来るけど、女としてストリートスマートじゃないのよ。良く言えばナイーブ、はっきり言えば不器用。その旅館の息子でいいじゃない。エルメスじゃなくてコーチで我慢しろって言われてるわけじゃないんだから。」
貴子は三十三年間生きて来て不器用だと言われたことは無い。勉強は小学校から常にトップクラス、スポーツはあまり得意では無いが、自慢じゃないが料理もプロ並みに作れる。遊び人の父親と、その埋め合わせのように仕事に追われる母親という家庭で、おかずもお弁当も子供の頃からずっと自分で作って来たし、ボタンが取れればそれも自分で直してきたし、三つ編みも自分で覚えた。それに学生時代から決してモテなかったわけでは無い。それなりの男性経験もしてきた。けれど、なぜか誰も「結婚」という二文字を口にしてくれない。
「つまり、貴子って俺が支えてあげなきゃって感じさせない女なのよ。高学歴高収入高身長、男に生まれていれば引く手あまただったんだろうけど、貴子みたいな女が待っている家に帰ったら、威圧感半端じゃないし、仕事の延長みたいに感じちゃうだろうね。もっと甘え上手になりなさい。」
ということだそうだ。
亮介に関して言えば、自分の意見を押し通すことだけが問題では無いのだ。声を出して言えない問題点がある。
「エッチが、つまらないの。」
声を出して思わず言ってしまった。
「えっ?」
香織が顔を上げた。
「下手なの?」
「下手って言うんじゃないけど、いつもおんなじ。」
「貴子ってセックスにバラエティーを求める人だったんだ。」
人は見かけによらないわねえ、ガラスのコーヒーテーブルの上のカップからハーブティーをひとくち飲んで、香織が含み笑いをした。
「そういうんじゃないの。」
貴子は慌てて否定した。
「じゃあ、何なのよ。」
「いつも、いわゆる正常位ってやつ。で、一度私が上に乗って始めようとしたら、彼が起きあがって言ったの。君がそんな下品な女だとは思わなかった、って。」
香織が高らかに笑った。
「珍しい男もいたもんね。ウチの夫だったら狂喜乱舞だわ。私はもう面倒だから、最近勝手に乗って勝手に済ませてよって感じだし。」
香織の言葉ははっきり言って、ちょっと癇に障る。こういうセリフは子供を持った女の安定自慢のようなものなのだから。桜田亮介と今年の六月で丸三年の付き合いになるが、プロポーズの言葉どころか、将来の話など一切口にしない。一度だけ、ふたりで食事の後に銀座をぶらぶら歩いていて、ティファニーの前で立ち止まりウインドウのディスプレイを覗き、「若い頃はあのティファニーブルーの袋に入った指輪でプロポーズされるのが夢だったのよね」と、思い出話のように言ったら、亮介は呆れたような顔で、意外とミーハーだったんだなと前を向いたまま言って、何も無かったように歩きだした。屈辱だった。それ以来、結婚の二文字を例え話としてすら口にすまいと心に誓った。
彼とは同い年だ。男の三十五と女の三十五は決定的に違う。二十代の恋ならとにかく、三十路を過ぎた女と付き合うということは責任を伴う、そう考えるのが普通の男だろうと声を張り上げて言いたくなる。でもプライドが邪魔して言えない。ハシタなく声を張り上げることに対するプライドでは無く、じゃあ、別れようとフラれる可能性が怖いのだ。この歳でフラれたら細い線一本で辛うじて繋がっている女としてのプライドが、断頭台に乗せられて切断されてしまう。四捨五入で繰り上がる三十五歳の女への死刑宣告だ。
その気持ちを、ハンサムで財閥の夫を悠々とゲットした香織に伝えることも、別のプライドがブロックする。プライド、プライド、プライド。そんなものにしがみついて馬鹿じゃないと言われるかもしれない。でも優等生、美人、出来る女、そう言われ続けて生きてきた若く無い独身女がプライドを捨てたら、いったい何が残ると言うのだろう?
「いつ来ても思うんだけど、あんたの部屋ってさ、高級感あるし、インテリアのセンスだって悪く無いんだけどね、乾いてるっていうか、なんかこう、女を感じないんだよね。」
突然、香織が言った。
「どういう意味?」
貴子はバースツールから立ち上がり、歩きながら部屋を見回した。壁一面の本棚、窓辺にはロールスクリーン。オフホワイトのカウチ、キッチンとの境目にあるカウンターには、青りんごを盛ったステンレスとセラミックのフルーツボウル。いつ誰が来てもいいようにきちんと掃除も整理も行き届いている。無駄な物は置いていないが、お気に入りの絵画や写真をいくつか飾っている。どこがドライだと言うのだ。
「完璧過ぎるって言うのかなあ、なんか寛げない。壁の絵だって花とかじゃなくて抽象画だし。パステルなのはいいんだけど、この絵の少女、身体中洗濯バサミだらけじゃない。」
「長い冬を過ごし春を待つ少女の心の呪縛を表現しているのよ。」
「意味不明。」
そう言いながら、香織は立ち上がって廊下を歩き、断り無く、寝室の扉を開けた。
チェリーウッドのダブルベッドとお揃いのドレッサー。ベッドサイドのナイトスタンドの下にタブレットがふたつ。SNSや映画を観るためのアイパッドと仕事用のサーフェイス・プロ。香織がドレッサーの上に目をやった。
「フェラーリのミニチュアカーって有り得ない、まるで男の一人暮らしみたいじゃない。」
洗濯バサミの絵は少女が窓を眺める抽象画で、キュビズム的な構図と色遣いの美しさに惹かれて銀座の小さな画廊の絵画展で購入した。フェラーリGTOは、二十代の一時期、F1レースにハマって、友人たちとイタリアにレース観戦に行ったときに記念に買ったものだ。茶と白を基調にした寝室に赤のアクセントが素敵と思って、同じフェラーリの写真とともにドレッサーの上に飾ってある。これを見るとあの楽しい旅行の興奮が蘇り、和むのだ。
「香織の家みたいに子供の玩具をそこらへんに置いとけばいいってこと?」
ちょっと皮肉を込めて言った。
「やだ、それやったら、亮介くんへの脅迫、果たし状になるわよ。」
香織がケラケラ笑った。香織を睨みつけたまま黙っていると、
「花を活けたら?」
香織が言った。
「花?」
「そう、花。生のアレンジメント。それだけで空気が潤って部屋が女になる。」
「部屋が女になる?」
香織がベッドに腰をかけた。
「女を感じさせる部屋にするのに、リバティープリントのコンフォーターやレースのティッシュカバーとかもいいかも。」
「勘弁してよ、そんな部屋じゃ私自身が寛げないわ。」
香織が笑った。
「冗談よ、例えば、の話。だから花。貴子だって花は嫌いじゃないでしょ?ピンクの薔薇やパステルカラーのチューリップを飾らなくても、枝物でもグリーンと白のアレンジメントだっていいのよ。花があるだけで、女が香るのよ。三十路を過ぎた女が女で有り続けるために絶対欠かしてはいけないもの、それはセックスと部屋の花。これは結婚前の私の哲学。」
「香織は三十路にはママになってたけどね。」
「私は二十五過ぎてから実行してたわ。」
「マジ?」
目の前に立つ私を見上げて、香織が言った。
「断言出来るわ。私もそうやって夫をオトしたから。」
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