賢治君のチョイスと私のライフ

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 日比谷公園で、いつもより急いでおにぎりを頬張り、唯一母から伝授した、生姜とたまり醤油を利かせた竜田揚げを口に入れ、野菜スティックをポリポリと噛み、缶のお茶を飲み干して立ち上がった。公園の一角にある日比谷花壇を訪れるためだ。どんなに反発しても香織が言うことはいつも正しい。昔から勉強は貴子の方が出来たけれど、香織はみんなの人気者でいつも輪の中心にいた。ふたりとも目立つ存在だったけれど、貴子が先生に気に入られていた理由と香織が先生に気に入られていた理由が違う。貴子は出来の良い生徒で香織は可愛い生徒。人生の選択も確実で、ちゃんと未来を見極めて選んでいる。受験勉強に必死だった貴子を尻目に、美人や芸能人が多く通うことで有名なセレブ系の大学に推薦入学をあっさり決め、貴子が英単語や代数の数式と格闘している間に、香織は英会話のスキルを磨き、美容に勤しみどんどん綺麗になっていった。  店に足を踏み入れた途端に、花の匂いが全身を包む。ここに数分いるだけで身体に匂いが定着するんじゃないかと思うくらい濃厚だ。色の洪水のように咲き誇る花で溢れた店内は数人の客がいるだけでとても静かだった。有名な花屋だからもっと混み合っているのではと思ったが、企業配達がメインで、ビジネス街だからお昼休みに花を買ってもオフィスに置き場所は無いせいだろうか。夕方、会社帰りの時間に混み合うのかもしれない。貴子は花を買っているところを会社の誰かに見られたくなかったからほっとした。二十代の小娘なら、花を買っている可愛い女の子と評判になるだろうが、三十路の女が自分で花を買っていると逆に男に贈ってもらえないから自分で買うしかない空しい女と言われかねない。そう思いながら、つくづくいじけているなあと自嘲する。が、性格というものは一日で変えることなど出来ない。ローマは一日にして成らず、なのだ。  ゆったりとした店内をゆっくり散策していると、 「何かお探しですか?」 後ろから声を掛けられて振り返った。上半身は白いシャツとベスト、腰回りに紺色のエプロンをつけたひょろっと背の高い若い店員が人懐こい微笑みを浮かべ立っていた。端正な顔をしているが、美し過ぎてどこか中性的である。胸のネームプレートに「鹿沼」と記載されている。 「あの、部屋に花を飾りたいんですが。玄関、リビング、寝室に置く。」 なんだか英語の文法みたいな喋り方になってしまった。 「承知しました。どういうイメージがお好きですか?それとも僕があなたのイメージで選ぶことも出来ますけど。」  少女趣味じゃなくて落ち着いてシックな、そんな感じの要望を伝えようとした途端に、あなたのイメージで、そう言われて好奇心が押し出される。  美形の若い男が感じる私のイメージってどうなんだろう?貴子は興味を持った。 「それじゃ私のイメージでお願いしようかしら。お昼休みなので後で自宅に届けて頂くことって出来ますか?」 青年はまた、人懐こい微笑みを浮かべ、 「承知いたしました。あなたのイメージぴったりに、もし宜しければ今夜、お届け、大丈夫ですけど。」 「それは助かるわ。」  貴子は一万円札を三枚渡した。玄関と寝室にシンプルなアレンジメント、リビングは豪華に。込み込みで一万円という予算を提示し、あとの二枚で花瓶を三つ適当に選んでほしいと告げた。彼は花瓶のセレクトのためにモダンかクラシックか、部屋のトーンは等、いくつかの質問を投げた。  配達は八時がラストと言われたので、今日は残業無しで早々に帰宅することにした。と言っても、五時や六時に帰れるご身分では無い。なんだかんだで時計はあっという間に七時を回っている。慌ててデータを保存してデスクを片付け、バッグを持って席を立った。 「あれ、安倍さん、珍しい、もう帰るんですか?週中日にデートだったりして。」  派遣の加藤由香里が声を掛ける。 「そんなんじゃないわよ。ちょっと野暮用。」 「なあんだ。安倍さんみたいな出来る美女、どんな彼だったら釣り合うんだろうって気になるんですよね~、なんか家でふたりでスーツ着てそうで。」 「私は家に帰ったら即パジャマよ。」 そう言って作り笑いを浮かべると、加藤由香里がチロッと舌を出した。新しい派遣さんはこうやって積極的に残業もするし、仕事も早い。悪い子では無いが、上下関係など飛び越えてズケズケ物を言うところがある。課長、最近、ベルトひと穴大きくなりましたねえ、とか、作田さん、昨日と同じネクタイ、お泊りですかあ、など。観察力が鋭いのは良いことだが、これを逆に言えば完全なセクハラになる。大企業において、若さゆえの失言に法的制裁は加えられないのが日本の現状だ。事実、けなされながらも男たちは「正直でいいよなあ。なんか清々しいよ。」なんて逆に褒めたりしているのだから。ベビーフェイスで小柄なのに意外にグラマーというアンバランスがそれに拍車をかけている。  そう思いながら、貴子はふと、自分が加藤由香里の歳だった時のことを思い出した。若いから正直なんて言われたことは一度も無い。男たちにとって総合職の女はライバルなのだ。おまけにヒールを履くとほとんどの男性社員より背が高い。そのせいか、自分の意見を主張すればおっかない女として扱われたし、お茶を入れようと給湯室に行くと、一般職の女たちに変に気を遣われ、少し短いスカートを履けば「プロ意識が無い」と注意された。貴子はそうやって、だんだんと「近寄り難い女」というラベルを額にピタッと張られた女になって行ったのだ。  腕時計を見て、慌ててタクシーを拾った。ほぼ衝動買いだった貴子のマンションは目黒川に近い三階建ての低層マンションだ。部屋の間取りやインテリア、駅から続く目黒川沿いの桜並木、その途中にある天然酵母の美味しいベーカリー、貴子の求める条件をほぼ完ぺきに満たしている。即決で決めた契約の日、こんな風に求める条件をほぼ完ぺきに満たしてくれる男ともタイミング良く出会い「結婚」という契約を結べればどんなにいいだろう、そう思ったのを今でも覚えている。  部屋はすこぶる快適だ。残業が多いから、今日のように日比谷からタクシーで十五分で帰宅出来る点も便利だし。まあ、香織に言わせれば、「三十路の独身女がマンション買うってことは結婚に見切りをつけた女と男に認識されるから覚悟しなさい。で、間違ってもペットはダメよ、マンションとペット、女の人生はそこで完結してしまうから。」と忠告を受けたが。  タクシーを降りてマンションのエントランスに降り立つと、ゲスト用のパーキングスペースに大型の、ジープのような不思議な形の車が停まっていて、その車に寄りかかるように細長い人影が見えた。良く見ると昼間の店員だ。貴子を見ると、またあの人懐こい微笑みを浮かべてお辞儀をした。両手に抱えきれないほどの花を抱え、麻のショルダーバッグを肩から下げ、床には段ボールが置かれている。貴子も軽く会釈をした。 「この車、配達の車?」 「私用です。」 微笑んだまま、青年が言った。 「え?」 貴子が首を傾げると、 「本当は配達は六時までなんです。でもそう言ったら新規のお客様を逃してしまうと思ったから。 「それで八時。」 「だって、さすがに九時や十時に女性の部屋へ配達って、警戒されるでしょ。」 そう言って頭を掻いた。やっぱり若い男からも、一人暮らしとバレてしまうんだ、貴子は頭の中でそう呟いた。 「珍しい車に乗っているのね。」 「アメリカのハマーです。僕が持ってる唯一の贅沢品です。中古車ですけど、こいつがあるとどこに行っても車で寝泊まり出来るし、そういう意味では、まあ、コスパいいから。」 「なるほどね。それにしても、私用車出すなんて、仕事熱心なのね。」 「いつも熱心ってわけじゃないですけど。」  貴子はその言葉に対するリアクションを避け、オートロックのセンサーにカードをかざし、ガラスのドアを開けた。 「どうぞ。」 彼は軽く頭を下げ、貴子の後に続いた。大荷物の彼に手を差し伸べようとすると、仕事ですからとやんわり拒否された。貴子は彼の前を歩き、エレベーターで三階に上がり、玄関のドアにキーを差し込む。そしてもう一度「どうぞ」と言い、彼を招き入れた。 「素敵な部屋ですね。」 彼がリビングを見渡して呟いた。 「殺風景で男の一人暮らしみたいに色気の無い部屋だから、せめて花を活けて主人が女であることを主張しなさい、そう悪友に言われたのよ。」 貴子はバッグをカウチに落とし、手を洗いながら言った。彼は 「いいえ、逆ですよ。花にとって理想的な空間です。」 そう言って、テーブルに新聞紙を広げてその上に花を置き、麻のショルダーバッグから花鋏を取り出した。サツキ、オレンジ色の薔薇、アマリリス、クレマチス、シャクヤク、その他に名前を知らない花もある。 「大きめのボウル有りますか?」 貴子はキッチンに行き、言われた通りにガラスのボウルに水を入れ、青年に差し出した。彼はシャツの腕を捲り上げ、手際よく花々を水切りし、また新聞紙の上に戻し、段ボールのテープを切って開けた。平たい花器がひとつ、一輪挿しのような細い花瓶がひとつ、そして黒い円錐形のモダンな花瓶。 「部屋の様子がわからないので、取りあえず想像で持って来ましたが、合わないようなら交換しますから。」 青年は手を動かしながらそう言って貴子を見て、また微笑んだ。ひょろっとしていると思ったのに、彼の腕は骨太で、腕を動かすたびに引き締まった筋肉が綺麗な曲線を描いた。貴子は目を逸らし、新聞の上の花々に目を移した。青年はサツキと薔薇を優しく掴み、平たい花器に乾山を立て形を作っていく。 「サツキと薔薇?」 青年は頷いた。 「和洋折衷。お客様のイメージ。和風の顔立ちなのに背がすらっとして外国人みたいなプロポーションだから。」  ああ....。私は曖昧に頷きながら彼が投げ入れる花々を眺めた。サツキのピンクと黄緑の葉、オレンジ色の薔薇が見事に調和して多国籍でコンテンポラリーなアレンジメントが出来上がっていく。  彼はリビングのアレンジメントを仕上げると、玄関用にいくつもの曲線を描く枝をバックにアマリリスを活け、寝室には大輪の赤いシャクヤクを活けた。 「フェラーリに合わせたの?」 彼が頷いた。 「それもありますが、寝室くらい、大胆で情熱的な花にして、本能を発散させてもいいでしょう?」 「え?」 「お客様、なんか隙が無いっていうか、無理して感情を抑えているみたいに見えるから。寝てる時も目を開けたまま、まわりを気にしているかもしれないって感じ。」 そう言って笑った。貴子は彼の顔を見上げた。 「あなたからもそんな風に見えるんだ、私って。」 「あ、気を悪くなさったなら謝ります。単なる比喩っていうか、あくまでイメージですよ。」  青年が頭を下げた。 「実は今日、派遣の子に、私は家にいるときもスーツ着てるように見えるって言われた。」 「背が高くて美人だから、余計にそう見えてしまうんですよ。褒め言葉として捉えた方が人生楽ですよ。」 青年はそう言ってにっこり笑い、リビングと玄関に戻り、アレンジメントひとつひとつ確認するように指して、少し枝の向きを変えたり、花を足したりして、また寝室に戻って来た。 「黒い花瓶はちょっとキツく見えますね。失敗だったな。コントラストが強すぎる。クリスタルのにすると、部屋とソフトに調和しますから、宜しければ明日、交換させて頂いていいですか?」 「明日は早く帰れないと思うんですけど。」 「じゃあ、ご都合の宜しい時、いつでもいいですから。」 青年は切り落としたステムや葉を新聞紙に包み、花瓶を運んだ段ボールに入れた。 「ゴミなら出しておくけれど。」 彼は顔の前で手を振った。 「とんでもない。お客様には完成した花だけを楽しんで頂く、ゴミを置いていったらぶち壊しですから。」 そう言って、段ボールを持ち上げた。 「あなたって若いのにしっかりプロ意識持ってるのね。それにアレンジメントのセンスも抜群だわ。」  貴子が感心して、そう告げた。 「男の癖にって言われるかもしれないけど、花が好きなんです。実家が花の栽培農家でずっと花に囲まれて育ったからかな。ウチは日比谷花壇にも花を卸してて、その関係で雇ってもらったんですけどね。」 「そうだったんだ。どうりで花の扱いに慣れているはずだわ。」 「今日活けたのは全て5月の花です。今はハウス栽培が盛んですからオールシーズン、色々な花々を楽しめますけれど、旬の野菜や果物を味わうように、僕はお客様に季節の花を愛でて欲しいんです。僕たちの地球には四季があり、その四季に沿って生活することが一番自然な暮らしだから。庭の無い部屋に庭の季節感を運んであげたいんです。」  彼はまたのご注文をお待ちしておりますとお辞儀をして、キッチンのカウンターの上に名刺を置き、部屋を後にした。  彼が去ったあと、ひとりになってリビングのカウチに身体を埋め、青年が活けたサツキと薔薇のアレンジメントを眺めた。たかが花屋の店員くらいに思っていたのに、彼の活ける花は、まるで華道家の作品みたいに美しい。そして何よりこの部屋にも驚くほど調和している。 シンプルな空間に花が咲いた。その途端に部屋が呼吸を始めたような気がする。香織が言っていたように部屋が花の芳香を吸って、それを部屋全体にまき散らす。貴子は空気が揺れるような心地良いそよ風を感じた。
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