賢治君のチョイスと私のライフ

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 それでも花のある暮らしは思ったより快適だ。家に帰って花にただいま、なんて言ったりする。水を替え、膨らみ始めた蕾を確認したり、散りそうな花を選別したり、毎日愛でていたわってあげる。ペットのように遊んでご機嫌を取る必要な無いし、糞尿の始末もいらない。プラントと違って肥料も植え替えもいらない。その命は一週間、枯れる前に蕾の膨らんだ瑞々しい花に入れ替わる。何となく古女房を若い女と取り替える男の心境がわかる気がする。 貴子はカウンターの上の名刺を手に取り、そこに書かれた文字を読んだ。 日比谷花壇、フラワー・コーディネーター 鹿沼賢治 フラワー・コーディネーター。名前の下に角ばった手書きで携帯の番号が添えてある。彼の美しい顔と賢治と言う硬い名前と手書きの文字がどうも一致しない気がしてちょっと笑った。  貴子はコードレスフォンのボタンをプッシュして名刺の番号に電話をした。  そうやって、彼は貴子のフラワー・コーディネーターとして、週一回貴子の部屋にやってきて花を交換する。毎回自分の車で残業は可哀想だし、週末指定にすれば今度は貴子が家で待っていなくてはならない。それも面倒なので、スペアキーを作って渡すことにした。日比谷花壇という大手の看板がバックにあることもそうだが、彼は信用できると直感した。そしてそれ以上にあんな若い美青年が好き好んで中年女に悪さするわけが無いという思いもあった。その彼、賢治君は花を変える度、注文票の他に、小さなメッセージカードに花の説明と貴子へのメッセージを添えてカウンターの上に置いていく。 トルコキキョウの花言葉は優美。あなたそのものです。ブルースターは幸福な愛。あなたの一週間が幸福な愛に包まれますように。 今週は白と紫のクレマチスをあなたの髪の流れのように上から下に活けてみました。紫と言えば、源氏物語に登場する紫の上は完璧な女性でしたけど、完璧な女性は陰でとても努力しているものです。そんなあなたが少しでも寛げますように。 ひょっとしたらピンクはお嫌いかもしれませんが、たまにピンクが好きだった少女の自分を思い出してみては?梅雨に入る前に、一足先に紫陽花はいかがでしょう。ピンク色でも紫陽花ならそんなに甘くならないから、あなたのシャープな部屋にもよく合うと思いました。ところで紫陽花の花って子供の頭みたいだと思いませんか?よかったら、その頭を優しく撫でてあげてください。 貴子はそれらのメッセージに微笑んだ。誰かに見守られているという感覚はとても安堵するものだ。花と一緒に添えられるそのメッセージカードを、貴子は心待ちするようになっていった。 「で、どうなの?花のある暮らしは。」 香織が聞いてきた。今日は彼女のマンションにお邪魔している。旦那はゴルフで留守だという。 「週末のゴルフ、いつもは一緒に行くんだけど、今日は年寄り集めて接待ゴルフらしいから。」 と言ってシャンパンを開けた。テーブルにはマティーニ・グラスにたっぷり盛られたベルーガ産のキャビアがミニパンケーキ、サワークリーム、チャイブのみじん切りと一緒にジノリの長方形のお皿に美しく盛り付けられている。 「昼間っから豪勢ね。」 「知り合いからキャビア、箱で頂いたのよ。たくさんあるし、ふたりで一杯やろうよ。」 そう言ってアストラッド・ジルベルドの「シャンパン&キャビア」を口ずさんだ。香織の少しハスキーな声はジャズによく合う。これを箱でと言ったら、数十万単位のギフトということになる。さすが財閥は違う、そうコメントすると、だから数えきれない求婚者を振り払って結婚したんじゃない、とウインクした。 「そうか、生花で生女を連想して、盛りのついた猫ちゃんになっちゃうんだ、亮介君は。」 「っていうか、何も変わらないっていうかね。なんかもうルーティンになちゃってるのよ。会って食べて話して・・・」 「やって、じゃあ、また来週、みたいな?」 香織が続けた。 「男にとって非常に気楽で都合のいい相手になってるんじゃないかって焦ってる?」 「まあね。」 シャンパングラスの泡を見ながら言った。 「貴子は亮介君と結婚したい?」 「そりゃあね、だってお互いもう歳だし、彼だって銀行員って立場考えると、上司に言われているはずだし。」 「それなのに一向にその気配が無い。」 貴子は、両手を上げた。 「香織には何にも隠せないね。サレンダー。そう、全然将来の話とか出ないの。旅館に戻って、どっかの若~いお嬢様とお見合い結婚でもするつもりなのかなあ、とか思ったりしてね。地方の老舗旅館って、何かそんなイメージじゃない?」 「それはどうかなあ。次男坊でしょ?社会勉強のために腰掛けで銀行で修行っていうならまだしも彼の場合、本店の出世コースだし、東京にいたいと思うけどなあ。」 「彼も、旅館は兄貴に任せて、俺は自分がどこまで出世できるか試したいって言ってるんだ けどね。」 「ね、海外勤務とか無いの?それがきっかけになってプロポーズになるってよく聞くけど。銀行ってわりと多いんじゃない?」 「彼は、最初、石川の支店勤務で、私と付き合う前にヒューストンに五年行ってたそうよ。その後帰国してからはずっと東京営業部、つまり実質的に本店勤務。本店から海外ってのは左遷で飛ばされる以外、ほとんど無いそうよ。」 「そっか。」  貴子はキャビアをパンケーキの上に乗せ、サワークリームを落とし、チャイブを散らし、それを丸ごと口に入れた。噛むとキャビアが潰れて、そのジュースがサワークリームと混ざり、頬がとろけるような美味が口全体に広がった。そしてその味が消えないうちにシャンパンを注ぎ入れる。こういうものを普通に食べられる暮らしというのはものすごい特権だ。  香織のリビングを見回した。白とダークブラウン、落ち着いたモノトーンのインテリアはこれ見よがしでは無いが、床のライムストーンもその上のペルシャ絨毯も、パティオに続く壁一面の大きなガラスも、その先に続く高い壁に囲まれた中庭のジャグジーも、ステンレスの暖炉も、サントモヤマのオークションでゲットしたという十四世紀のパーソナルチェアも、それぞれがサラリーマンの年収以上の価格だろう。別に、香織と自分の暮らしを比較しているわけじゃない。貴子だって八桁プラスの年収があり、ボーナスで海外旅行に行ってシャネルのバッグを買っても充分過ぎるお釣りがくる。でも、三十代後半で独身という女に、世間は揶揄の目を向けて来るのだ。そして貴子はいつもそんな目を睨み返してしまう。  貴子はいつから近寄り難い女になり、都合の良い恋人になり、友人の暮らしをうらやむ卑屈な女に成り下がってしまったのだろう。投資目的と割り切って買ったマンションだって、その居心地の良さに慣れてくるとますます男が遠巻きに後ずさりする。頭も悪くない、顔もそれなりで、なぜ結婚されたがらないのだろう、その自問を既婚者に会うたび、恋人に会うたびに口に出さずに心の中で繰り返す。そうやって自分を攻め、自分を庇い、結論として自分を肯定するために他人を拒絶しているだけなのだ。
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