賢治君のチョイスと私のライフ

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 その日、貴子は厚生労働省に打ち合わせに行き、そのまま直帰することになった。まだ四時過ぎで、陽も明るい。社に電話を入れると「今から帰社したら残業になだれ込むだろう。たまにはお天道様が笑っているうちに仕事放棄してもいいんじゃないか?」、部長に言われた。ちょうど大きなプロジェクトが終わって一息ついたところだったからだろう。歩きながら、お言葉に甘えて、と言って携帯を切った。  さて。  声に出して呟いた。亮介は今頃の時間は忙しさを極めているだろう。銀行は閉まってからが戦争だ。学生時代に銀行勤務は九時三時で楽そうだなあ、と言っていたのを思い出してひとりで笑った。世の中、大人にならないと知らないことがたくさんある。自分が二十代半ばになればごく「自然」に結婚して子供を作るものだと想像していたこともそのひとつだ。  香織に電話を入れたが生憎、ママ友と青山で会食があると言う。銀座でぶらぶらショッピングでもしようとも思ったが、今、どうしても欲しいものは無いし、銀ブラなら昼休みにだって出来る。結局、早く退社したところで時間を持て余している。私の人生って仕事以外に何があるのだろう。みゆき通りのウインドウを横目で見ながらため息をついた。向かい側からデパ地下のショッピングバッグを重そうに抱えて歩く主婦が目に入った。そうだ、たまには早く家に帰ろう。スーパーに寄って新鮮な食材を買い、久しぶりに凝ったものを作ってもいい。時間をかけて美しいお料理を作って、亮介を呼んでもいい。部屋についたらメールしよう。そう決めて、スーパーでスズキ、浅蜊、ローズマリー、ディル、ジャガイモ、ルッコラ、そしてお気に入りのベーカリーでパン・ド・カンパーニュを買ってマンションに向かった。  マンションに着くと黒いハマーが止まっていた。そうか、今日は木曜日、花を交換する日だった。木曜日を勧めたのは賢治君だ。 「恋人やお友達が来るのはだいたい週末でしょう?毎週木曜日にすれば、切り花は土日に一番美しくなるから。」というサジェスチョンだった。何から何まで気配りの利く青年だ。  貴子はスーパーの茶色い紙袋を抱えてエレベーターに乗り、三階のボタンを押し、ドアの前に紙袋をいったん置いて、鍵を開けた。一瞬、呼び鈴を押そうかと迷ったが、自分の部屋の呼び鈴を押すのも変なので、そのまま開けて、中に入った。  賢治君は今日は日比谷花壇のユニフォームでは無く、Tシャツにジーンズというスタイルだった。花を選別するために中腰になって裸足の足が突き出している。彼はその姿勢のまま、振り返った。一瞬、驚いた顔を見せ、そして人懐っこく笑った。 「びっくりした。あ、お帰りなさい。」 「ただいま。」  賢治君は立ち上がり、ジーンズのベルトに挟んであったタオルで手を拭いた。亮介とは違う、若い青年の腰は硬く膨らみ、Tシャツから引き締まった二の腕が伸び、裸足の足は大きかった。痩せていてもやっぱり男、黒い制服の時とは別人のように健康的だ。 「また自分の車で来てるのね。」 「実は僕の部屋、ここからわりと近いんです。だから店のワゴン使って来て、また銀座に戻って車を返してって返って面倒なので。」 「そうなんだ。」 「随分早いんですね。」 賢治君が作業に戻り、鋏で枝の選別をしながら言った。 「ええまあ、外出先から直帰だったから。」 「それで食料品の補充ですか?」 貴子が抱えるスーパーの袋を顎で指して言った。貴子は、我に返ったようにそのスーパーの袋をキッチンのシンクの隣に置き、 「たまには時間のかかるものを料理しようと思って。」 と言いながら、シンクで手を洗った。 「料理なんてするんですかあ?」 彼が驚いたように言う。 「失礼ね、はっきり言ってプロ並みよ。」 貴子は腕を腰に当てて言った。 「ウソ、キッチン、ピカピカだから完全に使って無いと思ってた。」 「けなしてるんだか褒めてるんだか、ビミョウだわね。」 腰に当てていた腕を組んで、賢治君を睨み付けた。 「プロの味か。安倍さんがキッチン使うところを見たら信用しますよ。」  賢治君はそう言って笑った。貴子は手を洗い、食材をカウンターに並べ、料理に取り掛かることにした。  カウンターからコの字に広がるキッチンは広々としている。元々、キッチンの隣にクローゼットの無い六畳のボーナスルームがついていたが、オリジナルのオーナーが壁を取っ払って大きなキッチンに改造したのだそうだ。大型の食洗器とトラッシュ・コンパクターも備え付けてあるので、シンクに汚れた食器が溜ることもゴミを頻繁に集積場に持って行く必要も無い。そのオーナーはアメリカ駐在帰りの若い夫婦で、それらを購入時に特注したらしい。結局、数年住んだだけで、再び赴任の辞令が出たらしい。しばらくは長期のアメリカ駐在になるということで売りに出された。それを貴子がたまたまウェブで見つけて購入したのだ。寝室は大小二つあって、小さい方は一応親やゲストのために空けてあるが、まだ使われたことは一度も無い。 「料理しない女みたいに言われるの癪だから、よかったら食べていかない?」  賢治君は一瞬驚いた顔をしたけれど、意外なほどすんなり、 「いいんですか?」 と即答した。  亮介を呼ぶつもりが、貴子は、私、どうしちゃったんだろうと一瞬迷ったがもう遅い。若い男に料理をしない女と思われることがそんなに悔しかったのだろうか。どちらにしてもまだ亮介にはメールしていなかった。せっかくの料理を恋人以外に食べさせる自分にも呆れるが、賢治君の花に毎日癒されているのだからまあいいか、という結論で自分を納得させた。 料理を作りながら、そんな自分が可笑しくてつい笑ってしまう。 「何がおかしいんですか?」 リビングの花を活け終わった賢治君が尋ねた。 「別に。年増のオバさんが花屋の店員とは言え、若い男の子のために夕飯を作っているという事実がちょっと不思議だっただけ。」 「安倍さんはおばさんじゃありませんよ。」 「じゃあ、お姉さん。」 「僕からみるとすげえいい女だけど。」 そう言ってから慌てて、 「寝室の花、活けてきま~す。」 と言って花を抱え、廊下に歩いていった。 すげえ、というカジュアルな言葉使いといい女という台詞に、ちょっとドキッとした。 そして若い男のお世辞に反応した自分に頭を振った。これこそオバさんの反応じゃないか。 「料理、本当にすごく上手なんですね。」 スズキの香草焼きを口に入れながら賢治君が言った。 「スズキもだけど、このジャガイモ料理もすごく美味しいし。」 そう言って、フォークでポテトを指した。 「ポテト・オウ・グラタン。生クリームを使ってコクを出しているの。」 「こんな洒落た料理なんて食べたこと無いし。」  貴子は彼の顔を見た。正真正銘のハンサム君である。背も高いし、ちょっと綺麗過ぎるけど最近の若い女の子たちにとって、こういう線の細い男のコが主流だと聞いたことがある。 「そんなこと言って、彼女とイタリアンとか、ロマンティックなお店とか、行くことはあるでしょ?」 「全く無いです。」 賢治君はそう言ってフォークを持ってない方の手を振った。 「嘘ばっかり。」 「嘘じゃないですよ。彼女とかとは居酒屋とか定食屋に行きます。」 「嘘だ。」 「だから、安倍さんに嘘ついたってしょうがないじゃないですか。美味しいイタリアンとか別に嫌いで行きたくないっていうより、それなりの恰好とかマナーとか、そういう雰囲気が面倒なんですよ。そういうのを期待されるのも嫌だし。」 「なるほどね。」 「好きな女といる時くらい普段着で寛ぎたいし。」 貴子は頷いて、亮介の顔を頭に思い浮かべ、フォークを持つ手を止めた。亮介は、着るものにとても気を遣うし、いつもお洒落で美味しい店に連れていってくれる。貴子はふと思う。 (亮介は私の前でもカッコつけてるのかな。そうだ、唯一、セックスして、その最後の瞬間だけ、無防備な顔になる。その時の亮介の顔が大好きだ。とても愛おしいと思う。)  貴子がそんな亮介を思い浮かべていると、 「どうしたんですか?」 賢治君の声が聞こえた。 「え?」 「いや、なんかぼーっとしてたから。」 貴子は慌ててワイングラスをつかみ、ぐいっと飲み干した。 「ごめんなさいね。」 「彼氏のこと考えてた、とか。」 賢治君は顔を近づけ、下から覗きこむように私の目をみつめて、笑った。 「うん、まあね。私の彼って、いつもカッコつけてるタイプだなあって、ちょっと考えてた。」 「安倍さんの彼、きっとスーツが似合う、ばりばりエリートって感じなんでしょうね。」 「東大卒の銀行員。」 「うわっ、絵に描いたようなってやつ。」 「あなたの彼女は?」 「別れました。」 賢治くんが即答で答えた。 「それはご愁傷さま。」 「別にいいですよ。」 「お洒落なイタリアン、連れていかなかったからじゃない?」 今度は貴子が彼の顔を覗き込んだ。 「他に、気になる人が出来たから。」 賢治君は間髪入れずに言った。 「そうやって飽きたら交換、いいねえ、若いって。」 貴子がそういうと、 「今回のは一目惚れです。一目惚れってしたこと無かったから、自分でも驚いたんですけど、最初は素敵だなあって思って、まあ、憧れ?そんな感じで、少しづつ思いが膨らんでいって、今日、確信した。」 「今日?」 「そうです、今日。」 そう言って、貴子を真っ直ぐ見据えた。 貴子はワイングラスを持ったまま、そんな賢治君の顔を見返した。 (まさか、私のこと?でも、そう告げて、全然違う人だったら赤っ恥だし。だいたい彼は私よりかなり年下だろうし、でも今日って・・・。)  それらの言葉が頭の中で五秒間くらい渦巻いた。でも口から出た言葉は、 「ふ~ん。上手くいくといいね。」 だった。 「はい、上手くいくといいなって思ってます。」 賢治君はそう言って、またあの人懐っこい笑顔を見せた。貴子は立ち上がり、 「そうそう、デザート、アイスクリーム、コーヒー、それとももっとワイン飲む?」 お皿を片付けながら尋ねた。 「食後酒って有ります?グランマニエとか?」 貴子は噴き出した。 「居酒屋や定食屋には絶対無いメニューだと思うけど。」 「カッコつけてる彼氏に対抗したくなったから。」  賢治君はそう言って、自分のお皿をキッチンに持ってきた。背中に彼の若い体臭が届き、少し身体を竦めた。彼の顎が貴子の頭のすぐ上にある。やだ、何でドキドキしてんだろう。 彼はそんな貴子の動揺に気づく様子も無くテーブルに残る食器類を次々運んで来てくれる。貴子はその都度、サンキュー、と言って食器を受け取った。  場所を移し、貴子はグランマニエが入ったグラスをふたつ置いた。賢治君がカウチに座った。その隣に座ることにちょっと抵抗があったので、少し間隔を置いて床に腰を下ろした。食事をともにしたからと言って、隣どうしに並ぶ対等な関係では無いのだから。花屋の可愛い僕ちゃんにご褒美をあげたかっただけだった。お利口なペットのプードルにビスケットをあげるみたいに。それだけのことだ。 「東京オリンピック、来年ですね。」 「何、急に。」 「どうして国はオリンピック招致にやっきになるのかなあって。」 「それは経済効果でしょう。国のメンツも多少あると思うけど、日本は戦後、東京オリンピックをきっかけに高度成長したし、アメリカに民主主義を押し付けられてから五十年以上経って、経済大国としての揺るぎない地位を獲得した、そのひとつの区切りでもあるわけだし。政治家の利権という大きな要因も赤坂の個室辺りで談合されているのだろうけど。」 「超優等生的な回答。さすが、キャリアウーマン。」 「そうやって茶化してるあなたは、どう思うの?」 「強いて言えば対岸の火事、みたいなものかな。でもね、オリンピックに出る奴って本当にすごいと思う。まさに青春全部捧げて頂点極めた人々でしょ。まさに超人。だから思い切りお祭りして盛り上げてあげるべきだとは思う。安倍さんが言う通り金が動いて政治家が儲けて、反対派がデモやってっていう面倒臭いことをしないとフェスティバルにならないのは残念だけど。」 「確かにね。四年に一回しか出られなくて、出られる確証も無い。それなのに、そのために人生を丸ごと捧げているんだものね。」 「でもさ、僕、思うんですよ。安倍さんってもしもそういう身体能力があったら、オリンピック目指しちゃう人なんだろうなあ、って。」 「何それ?」 「なんか、何でも限界ギリギリまで頑張っているって感じ。」 「そんなことないわよ。与えられたことをちゃんとしたいだけ。そうやって生きて来たから。」 「心底真面目なんですね。でも、それを自分の本能や欲求より、人に褒められるためにやっているように見える。」  そうなのかもしれない。貴子はグランマニエを口に含み、膝を抱えその上に顎を乗せた。 「小学校の時にね。成績が良くて、貴子ちゃんは賢いねえ、って先生に褒められた。それが嬉しくて、もっと勉強した。中学生になると先生だけじゃなくて、生徒たちからも一目置かれて、そういう自分が誇らしかった。父は家庭を顧みない人だったし、母親はいつも忙しくしてて家で褒められたことが無かったせいかな、他人に認められると自分の存在感がずっと意味を持つように感じた。高校生になって、それはもっとソリッドになっていった。」 「ソリッド?」 「うん。先生や生徒っていう狭い世界じゃなくて、幅広く世間的に認められたいって思うようになった。だから大学は一番人気の大学、就職が有利で将来の素敵な旦那様もみつけられる大学、就職も企業人気トップクラスで、安定して高収入が得られて絶対に潰れない業種。」 「あはは、ひょっとして彼氏もそうやって、人前に出して誇れる相手を選んだ?」  亮介を選んだ理由。東大卒、老舗旅館の次男坊、高身長。それ以外に彼のどこを見ているのだろう。 「安倍さんは、僕みたいな高卒の男は絶対付き合わないだろうな。まずその時点で振るいに掛けるでしょ。つまり、それって本質より、外側が大切。例えばとんかつ食べる時、豚肉そのものじゃなくて、衣のサクサク感とかの方が重要っていうか。」 「豚にも、普通の白豚、黒豚、イベリコ豚まで色々あって、私はイベリコを選ぶ。育ちや学歴は衣じゃなくて、肉そのものだと思うけど。」 「豚肉は調理する前に、プロでも無ければ、見た目でその違いはわからないでしょ。安倍さんは肉の前のイベリコという値札を信用して選ぶだけ。ひょっとしたら、突然変異の白豚でびっくりするくらい美味しいのがあるかもしれないのに。」 「でも、イベリコはそれだけのプロセスを踏んで育成され、丁寧に熟成されてきた。だから価格にも反映するのよ。」 「同じ親と環境だから肉の味が全部同じとは限らないと僕は思う。同じ親から生まれても兄弟で性格や得意科目まで違ってくるじゃないですか。」 「それは・・・」 「それでも、例えば、僕が安倍さんを好きだって言ったら、安倍さんは僕を受け入れる前に、僕の学歴や家柄でゴミ箱行き、ですよね?」 ゴミ箱行き。貴子は心の中で呟いた、その通りだと。 「それって全部、自分のためじゃなくて、人に自慢するために選んでるってことでしょ。自分に向けた幸せじゃなくて、人に見せつける幸せ。学歴とか肩書とか、全て世間体とか人を納得させるためのもの。安倍さんの人生は他人のためのものじゃないのに。」 「でもそれで私が幸せなのよ。人に認められるって重要なこと。ケースに並ぶ肉を値札で判断することも、それが大方正しいから。社会生活ってそういうことだから。」 「どうかな。だから僕の目には無理してるって映るんですよ。例えば安倍さんがオリンピック選手だったらシンクロナイズド・スイミングの選手だ。汗や水でも決して落ちない鎧みたいにガチガチに固めた化粧を施して、その作られた笑顔の下、手足は物凄い努力で必死に漕ぎ続けてる。それは本当にもう、いつか倒れちゃうんじゃないかってくらい。」 「厚化粧はしないし、そこまで必死に漕いでないと思うけど。」 「厚化粧じゃなくて鎧の方。自分で気づいていないだけですよ。で、そんな安倍さんに彼は安らぎをくれますか?」 貴子は顔を上げた。 「私が欲しいのは安らぎじゃなくて、安定した未来だから。」 突然、賢治君が貴子の腕をつかんだ。貴子は慌てて立ち上がり、 「ちょっと、何するのよ。」 そう言って、彼の手を振り払おうとした。 「今夜くらい、自分を開放してあげませんか?」 「え?」 「あ、変な意味じゃなくて。心配しないでも、天に誓って、襲ったりしないから。だって僕は天下の日比谷花壇の店員で、安倍さんは大事な顧客ですから。それに僕はそんなに女に困っているわけじゃないから。」 そう言って、貴子の肩を自分の膝にもたれさせた。襲ったりしないから、という言葉より、女に困っているわけじゃないという言葉に変な対抗意識が芽生えた。 私だって男に困っているわけじゃないし、こんな坊や、どうってこと無い。 「僕は安倍さんの規定クリアしてないから人畜無害、それでいいじゃないですか。たまには何も考えないで誰かに体重を預けるって悪くないと思うけど。」 彼はそう言って貴子の頭を撫でた。彼の大きな手が温かくの頭を包んだ。彼の言う通り性的では無い優しさ。少し酔っているせいかもしれないが、確かに驚くほど心地良い。 「気持ちいい。」 素直にそう告げた。 「それは良かった。」 賢治君が優しい声で言った。 「何年ぶりかなあ。誰かにもたれかかるのって。」 「彼氏にもたれかからないんですか?」  言われてみれば、そんなことをしたことは一度も無い。甘える隙を与えてくれたことが無いのだ。この部屋に来るときも、旅行に出ても、食事を終えて、お酒を飲みながら話をして、さて、というタイミングでエッチに移行する。 「そう言えば、こんな風にただ寄りかかるだけってことって無いかもしれない。」 「僕で良ければいつでも。」 恋人以外の若い男に言われ、その手を振り払って立ち上がろうと頭で思ったけれど、身体がそれを否定する。少しの間、この気持ち良さに身体を沈めていよう。そう決めて目を閉じた。
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