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3.アーロン
セランが仕掛けてきたキスは、規律に厳しいと評判の学生会にとっては上出来な「今夜だけ」の余興だったかもしれない。
遅れてやってくる者も含め、広間の賑わいはあいかわらずだ。しかし在校生や同輩に取り囲まれたアーロンの心はどんどん落ちつかなくなっていく。先程の竜人はどこかへ消え、エシュもいまだに姿をみせない。
招待があればエシュが来ないはずがない。自分とちがって彼はこんな賑わいが好きなのだ。アーロンを慕う学生会がエシュをよく思っていなくても、いや、むしろそんな彼らをからかうようにエシュは昨年もこの会へ現れたし、仮装をしぶるアーロンを堅物と呼んで笑ったものだった。記憶のなかのエシュの眸はあの竜人にかさなるが、顔立ちに似たところがあるとは思えなかった。自分を惹きつけるものに共通点をさがしてしまうだけなのかもしれなかった。
「アーロン、どこへ?」
「静かなところだ。いや、ひとりがいい」
アーロンはセランへ穏やかに、しかしきっぱりと首をふった。セランは続けて何かいいかけたが、横から他の卒業生が声をかけてきたのもあってそちらを向いた。アーロンは広間の奥の扉へ歩いていく。途中数人が声をかけてきたが、手を振るだけで適当に応じた。出口近く、誰かの頭上に一瞬竜人の翼が浮かんだような気がしたが、まばたきすると消えてしまう。幻影だろうか。
宴もたけなわの時刻だ。静かな場所といっても庭園か館の上階か、バルコニー、そんなところしか思いつかない。ひっそり足を進めるあいだも、アーロンの耳は柱や壁龕の暗闇からかすかなため息やささやき声を聞きつける。
心の中で「無礼講の意味くらいわかるだろう」とエシュがいう。アーロンは顔をしかめた。今夜がどんな夜なのかはアーロンも知っている。というより、まじめとか堅物と呼ばれる学生ほど今夜は重要なきっかけになる。エシュにとってはどうなのだろう。
去年の舞踏会ではエシュはいつのまにかアーロンの隣から消えてしまった。手持ち無沙汰になったアーロンはそのあと知り合った卒業生と共に朝まですごした。先方の配置転換をきっかけとして自然に終わった関係ではあったが、その後も数か月は連絡をとりあっていた。
そう、このくらいのことはある。しかし、やはり自分にはこんな場所はそぐわない――「誰か」に会うまでは。
あまり明晰でない気分のまま、アーロンは「誰か」を探して館の階段を上った。夜風を通すためだろう、ほとんどの扉は開かれて、敷居で掛け布の仕切りがはためいている。
扉があろうとなかろうと、ふたり連れに占拠されれば誰もその空間を侵さない――〈地図と法〉をもたらした神はひとりとひとりの関係を侵害するのを禁じ、介入する者は竜の悪に犯されると警告した。この世の神を敬う者ならけっしてそんなことはしない。
それでも布の向こうをぼんやりと想像したとたんにアーロンの血は騒ぎはじめ、たったひとりでここにいるのを後悔した。足元をみるとブーツの大仰な留め金に鈍い光が反射している。廊下を吹き渡る風が頬と首筋の産毛を撫でる。
ふとあげた視野に飛びこんできたのは、つきあたりの戸口のむこうにはらりと開いた竜人の翼と、その脈を彩る金色の筋だ。
どうしたことか、突然冷静な思考がアーロンの中から消えてしまった。足が勝手に動きだし、つきあたりでとまる。
風に揺れる掛け布のむこうで低くささやく声が聞こえた。
「好きなの?」
「――ぁっ……なに――」
アーロンは押し殺した喘ぎにぎくりとした。あわててきびすを返そうとしたとき、低い声がまたささやいた。
「アーロン、だったかな。今年の総代」
今度はアーロンの足は縫い留められたように動かなくなった。
「彼が好きなの?」
「……まさか……」
「ダンスに誘われて嬉しかった? ずっと彼を見ていただろう。なのに列にも並ばずにいて……」
衣擦れの音、そしてベッドがきしむ音が一度。答えた声の音色にアーロンの感覚が研ぎ澄まされる。
「それは――見るさ……目立つから……」
「それだけかな?」
「どうしてそんなに……あっ……くすぐった……ぁ」
グチュっと濡れた音が響く。
「それ、オブラ――」
「私の手持ちを使うよ。いい子だから……そう……」
オブラは清浄剤をかねた潤滑油だ。医薬に使われる〈法〉で作り出されたもので、避妊もでき、感染症や傷を予防する効果もある。だから男同士の行為にも必ず使われる。
「好きな人がいるのに、こんなところで……」
またグチュグチュっと濡れた音が響く。いつのまにかアーロンの足は掛け布に触れるほど近づいている。もうすこしで隙間から声の主がみえるのではないか。
背徳感と罪悪感で頭に血がのぼったが、理性とは無関係に体の中心は力がみなぎり、苦しいほどに大きくなっていく。
「そんなこといっ――ぅっ――あ、ぁあ……やってんの、誰だよ……」
「きみのような子が趣味なんだ。たまらなくてね……」
「しゅみ――?……わるい――かってに――……誰がどうとか決め……ん、あ――」
「奥まで入れるよ? 溶けるからね……」
「待って、このオブラ――何かよけいなもの……ああっ」
右手が勝手におのれの下半身へのび、はっとしてアーロンは拳を握りしめた。いったいどういうわけだろう。甘い喘ぎと対照的な低い声の応酬がアーロンの耳に鮮明に届く。
「今年もなかなか面白い狩りだ。……そろそろ幻影を剥がそうか?」
突風が吹いた。
アーロンの眼の前で掛け布が巻き上がり、小さなともしびに照らされた部屋があらわになった。
はっとして下がろうとした――はずなのに、アーロンの足は動かない。一度まばたきをし、二度まばたきをしたとき、ぱっと空中に金の筋が入った翼が出現し、一度はためいて消えた。かわりにあらわれたのは金の筋が入った黒い髪だ。
ベッドの上でエシュが上体を起こしている。天蓋から下がる薄布が広げた両腕に巻きつき、まるで操り人形のような姿勢で裸の胸を晒している。あの竜人が着ていたものと同じ色の服が彼の腕にまとわりつき、偽物の翼のように揺れている。顔はアーロンの方を向いていたが、眼はきつく閉じられていた。唇はわずかにひらき、小さく声を漏らしている。
「あっ……ずる――」
「おやおや」
男の髪がともしびに鈍く光った。エシュとは対照的に服はほとんど乱れていない。
「噂の君だ。あんな上級の法を使うとは、誰かと思ったが……」
「うわさ――なんて……ろくでもな……あ――あんっ」
エシュの腰が跳ねるように上下した。そらされた喉がこくりと動く。
アーロンもまたごくりと唾を飲みこんだ。ここから離れなければ。意識の一部がそう告げても足は後ろに下がろうとしない。実際のアーロンの行為は真逆だった。喘いでいる親友をみつめたまま、壁を覆う垂れ布で自分を隠し、息を殺したのだ。
「だめ、あ、もっと――もっと下……」
「せっかちだな。ねだるならいうことを聞いてくれないと」
男の顔がうつむき、エシュの肌の上で濡れた音を立てる。エシュは腰をゆすり、布に捕らえられて自由にならない腕と背中が煽情的に揺れた。
ベッドがきしむ音と衣擦れが交互にアーロンを刺し、内部の衝動がますます膨らむ。破裂しそうだ。そんな自分の意識をよそに甘い声は続く。
「頼むから――一度いかせて……」
「せっかちだといっただろう……ん? うわの空になってはいけないよ。うん……こっちの準備も良さそうだね……」
「どっちでも――どっちも……」
「せっかちなだけでなく欲張りなのか?」
男はエシュの腰をもちあげるように抱える。エシュが漏らす荒い息がアーロンの耳を打つ。だめだ――だめだ。だめだ。声がアーロンの中でこだました。この部屋を出なければ。気づかれずに出ていけるだろうか。こちらに背を向けたままの男はアーロンの存在に気づいているのか、いないのか。
「好きな彼のことを考えてる?」
「……好きじゃない――」
「嘘はだめだね。それじゃいつまでもあげられない」
また濡れた音だ。半開きになったエシュの唇から唾液がこぼれた。
「今のままでも気持ちいいんだろう?」
「……や……許し――もう――」
「そうだな……」
男は何らかの〈法〉を使ったのだろうか。
布が擦れる音と同時にエシュの手を縛る天蓋の薄布が解けた。腕が男の首に回り、シャツの背中に指が立てられる。
「いい子だ。キスして」
「ん……」
甘い音色の吐息。
ふいにアーロンの中で衝動が熟し、破裂した。ブーツの踵が壁にあたり、衝撃音と同時に留め金の鳴る音が響いた。瞬時にエシュも男も動きをとめた。アーロンは凍りついた。エシュの眸がまっすぐにこちらをみつめている。遅れて男がふりむく。また突風が吹いた。
もうアーロンを隠しておく必要はない、そう考えた何者かの意思が働いているかのようだった。
「おやおや」
男は呆れたように頭を振った。ともしびが男の髪に鈍い艶を与え、つむじのまわりに丸い輪を描く。
「エシュ。すぐそこに本命がいたじゃないか」
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