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4.エシュ
まずい相手を選んでしまったのかもしれない。
天蓋から垂れる薄布が手首にからみついたとき、俺はやっと気づいた。金髪の男は相当な上級者だ。〈法〉はもちろん、それ以外でも。
尻の穴にさしこまれた薬が、最初ひんやりと、次にぬるい感触で溶ける。オブラはこの世界ではありふれた薬剤で、ローションと浣腸とコンドームという三つの機能を兼ねている。
最初にこの薬の存在を知った時は、前の人生でもこれがあったら便利だったなどと脳天気なことを思ったが、今の俺には余計なことを考えるゆとりはなかった。内側からくすぐられるような感触とじんじんするような熱さが広がってきたからだ。
「待って、このオブラ――何かよけいなもの……ああっ」
男の生暖かい舌が俺の股間を舐め、味見でもするかのようにペニスの先端をつるりと舐めて、離れた。俺はこらえきれずに声をあげ、手首に絡みつく布で上半身を持ち上げられたまま腰をくねらせる。中途半端な快楽に不満の吐息が勝手に漏れ、後ろの穴がひくつくのを感じた。
ぬるい愛撫なんかじゃない、もっと別のものを期待しているのに、男の舌は俺のへそや胸を這っていく。片方の乳首をきつく吸われ、とたんに尻がきゅっと疼く。俺は催促するように腰を揺らす。
「今年もなかなか面白い狩りだ――」
そのあと男が何をいったのか、俺にはわからなかった。シクシク疼きながら刺激を待っていた後ろに指が――たぶん――さしこまれ、くいくいと中を弄ったからだ。
「―――っ!」
頭の中に真っ白の波が満ち、強烈な快感で顎が勝手にひらいた。声のかわりに唾液があふれ、俺を覆っていた〈法〉のベールが剥ぎとられる。間髪入れずにペニスを吸われ、爆発しそうなところまで追い上げられ、そして寸前で止められた。
「あっ……ずる――」
「おやおや」
男はひっそりと笑った。
「噂の君だ。あんな上級の法を使うとは、誰かと思ったが……」
素顔を晒していると自覚したとたん、またも腰の奥がひくひくとうねった。俺は眼を閉じたままなかばあきらめ、男が与えるもどかしい快感を受け入れる。自分で触れないし、尖端をゆるくつままれて、いきたいのにいけない。奥にも欲しいのに――頭がどうにかなってしまいそうだ。
「一度いかせて……」
懇願しても男の声は平然としている。
「せっかちだといっただろう……ん? うわの空になってはいけないよ。うん……こっちの準備も良さそうだね……」
指先で尻の中をひっかくように弄られる。
「どっちでも――どっちも……」
「せっかちなだけでなく欲張りなのか?」
口から漏れたのは情けない喘ぎだけだった。だが、心の片隅にひそむ頑強でしぶとい何かは、快楽の波のはざまで顔をあげている。
欲張り?
そうだとも、悪いか。
俺は好きにやる――その何が悪い?
アーロンなんかくそくらえだ。あいつも今頃はこの館のどこかで、あの下手なキスの相手と抱き合っているのかもしれない。今夜は狩りの夜だ。アーロンは誰を狩っているのか。それとも狩られる側なのか。
「好きな彼のことを考えてる?」
敏感になった胸を噛まれ、俺は悲鳴をあげそうになる。
「……好きじゃない――」
「嘘はだめだね。それじゃいつまでもあげられない」
この男はどうしてこんなことをいうんだろう。今夜会ったばかりで、俺のことなんて何も知らないくせに。
「今のままでも気持ちいいんだろう?」
俺はイヤイヤをするように首をふる。男の手はさっきから、濡れっぱなしの俺の股間と尻のあいだをいったりきたりしている。拘束された腕と肩にだるさがしのびよる。
「……や……許し――もう――」
眼をあけたくなかった。それでも涙はこぼれた。早く解放されたい。もっと欲しい。混乱した欲望で頭の芯が痺れる。
「そうだな……」
いきなり腕が軽くなり、そして重くなった。唐突に手首を自由にされて俺はバランスを失った。ベッドに倒れそうになった背中を支えられる。
「いい子だ。キスして」
「ん……」
俺は腕をのばし、顔のすぐそばでささやく男の首に回す。
唇を重ねようとしたそのときだった。静かな空間に突然、何かをドカッと蹴るような音とこすれるような金属音が響いた。
俺は硬直し、眼をあけた。部屋には小さなランプが灯されているだけだ。開いた窓からさしこんでくる夜の光の方が明るいかもしれない。風が吹き、壁を覆うカーテンを揺らす。垂れ下がる布の影のあいだに信じられない顔をみる。
「おやおや」
ベッドの上の男は俺の背中を抱いたまま首をめぐらせている。意外な口調だが、焦ってはいない。
「エシュ。すぐそこに本命がいたじゃないか」
アーロン。まさかそんなはずはない。
この世界で「俺」が覚醒して七年になるが、いまだに途惑うことがひとつある。帝国の人間には、他人のセックスの現場をみることは神の禁忌に触れるという、とてつもなく強烈な意識がある。
ここは圧倒的な一対一の社会だ。関係が続いているあいだの不倫は常識でありえないし「一夜の遊び」も許容されない。3Pや交換だってもってのほかだ。乱交はフィクションの娯楽としてすら認められない。帝国ではしてる最中のエロ本やAVは事実上の取り締まり対象だ(存在しないわけではない、というのがまたせつない)。他人のセックス現場をのぞきたい欲求は――欲求だけなら持ってるやつは多いんじゃないかと思うが――途方もない変態扱いである。ちなみに売春は産業として管理されていて、私娼も犯罪となる。
これにはどうも「竜」――人間に使役される生きた竜ではなく、悪の根源とされる伝説の竜の生態が絡んでいるようだ。ところが一対一のセックスそのものは、相手の性別がなんだろうと問題にもされないし、特殊な性癖も許容されている。衆人環視で許されているのはキスと抱擁だけだが、それ自体はあけっぴろげだ。
だから俺はショックを受けていた。アーロンが禁忌を破ったこと、禁忌を破ってまで俺を見ていたことに。
どうしてこんなにショックなんだろう?
俺はこの世界にも外があると知っているのだ。誰かとセックスしているところを見られたって――そもそも俺は「そんなキャラ」なんじゃないか。
アーロンの視線を感じた。
時間が止まっているような錯覚におちいる。俺は背中に回された男の手を払う。あたりをみまわして着るものをさがす。みつけた服はところどころ破れていたが、黙ったまま頭からかぶり、下穿きを身につける。立ち上がろうとすると膝が笑った。股間はとっくに萎えてしまったが、興奮剤のたぐいが混ぜられたオブラと指で、中途半端に弄られた場所は欲求不満に疼いている。
「エシュ」
アーロンの声だ。俺は無視した。
俺はこの世界の倫理観にまみれているわけじゃない。前に生きていたところでは3Pもスワップも経験済みだ。
それでもアーロンには見られたくなかった。
なぜ?
知るか。
窓から風が吹いてくる。俺はふらふらとそちらに近寄る。低い窓枠に足をかけ、乗り越える。バルコニーの下の庭園はずらりとならぶ灯籠で照らされていた。黄色くぼやけた丸い光の点が、幾何学模様に刈られた樹々の黒い線をつなぐ。俺は華奢な柵に手をかけ、頭がくらっと傾ぐのを自覚する。あのオブラのせいにちがいない。
この高さじゃ死ねないな。
ぼんやりとそんなことを思った。
「エシュ!」
アーロンの声だ。それはわかった。
俺はバルコニーの柵に尻をのせてふりむいた。アーロンがそこにいた。窓枠に足をかけて、こっちへ来ようとしている。薄暗いのにアーロンの表情はよく見えた。顔が歪んで、ああ、怒っているな――と俺は思う。
おまえと最初に会ったのは四年前、この世界で俺が十四歳になったとき。四年間そこそこ仲良くしていれば、怒っているかどうか、その程度ならわかるようになる。
俺の口は勝手にゆがみ、へらへらと奇妙な笑いを形づくった。
怒っているおまえをみて、俺はこんなに欲求不満で、欲情しているなんて、馬鹿みたいじゃないか。
いやちがう。馬鹿はおまえだ。
俺はどうにかしておまえにつながる交点を減らそうとしているのに、おまえはどうしてここに来るんだ。おまえは家柄もいい堅物な品行方正だから、おまえの取り巻きは俺が嫌いだ。俺はおまえとぜんぜんちがう。拾われた孤児で、規則破りで、男をひっかけるのは今夜に限ったことじゃない。おまえは俺に愛想をつかして、捨てていくはずなのだ。
どうしてついてくる? どうして後を追う?
「……エシュ、こっちに――」
アーロンが手をのばした。俺は首をふった――ような気がする。というのも、突然背中から力が抜けたからだ。
墜ちた――と思った。子供のころ何度か飛んでいる竜の背から落ちたことがある――俺の故郷ではたまに起きる事故で、ふつうはそばを飛ぶ竜の隊列に拾ってもらえるのだ――その時とおなじように、風がぶわっと周囲を包む。
視界が暗くなり、切り替えられたように明るくなった。
俺は虚空を落下していた。最初はものすごいスピードで落ちているように感じたが、しだいにゆっくりになり、やがてふわふわと浮いているような気分になった。無重力空間みたいだ。両手と両足を開き気味にして、上をみながら俺はぷかぷかと浮いていた。魚になったような気分だった。
遠くでキラッと小さな光が生まれた。
俺は眼をみひらき、焦点をあわせようとした。できなかった。ぼやけてブルブル震える像を十回も二十回も重ねた映像のようで、どうしても直視できない。似たようなことが前にもあった、と俺は思う。
『その通りだ』
とたんに声が降ってきた。
正確には声のようなもの――俺は耳でこれを聴いてるわけじゃない。唐突に自覚してぞっとした。俺の体はどこにある?
『前も告げたが、今回も告げよう。おまえはどうやっても逃げられない』
この声なら前も聞いたことがある。
俺は口を(または口があると信じている部分を)なんとか動かした。
「なにから」
『私との約束だ。おまえは約束した。私がこの世界へ生まれさせようとおまえを引き上げたとき、私に約束した』
「望まなかった!」
俺は叫ぶ――叫んだつもりでいるが、即座に虚空に吸いこまれて周囲に響かない。
「あれは詐欺みたいなもんだ。俺は頼んでない」
返事は素っ気なかった。
『それでもおまえは約束した』
「嫌だね」
ふわふわ浮いた姿勢ではなんとも格好がつかないが、俺は断固として反論する。
「おまえの預言だの契約だのを俺は認めない。俺はそれを意志していない。おまえはたまたま俺を拾ってこっちに投げこんだだけだろう。俺は勝手にやらせてもらうし、俺のやりたいようにやる」
『――ああ、私がおまえを選んだのはおまえのその……欲望のためだった』
腹立たしいことに、声は感心したような調子になった。
『そうだな、問題はないらしい。すべて順調に進んでいる。おまえはこの世界のなかであがけ。そして使命からは逃れられないと知れ』
「おい、勝手をいうな!」
遠くへ去っていく光に向かって俺はまた叫ぶ。声がひっくりかえり、情けなく割れた。
「俺は認めないからな――あいつを殺すのが条件だなんて!」
俺はまた眼をあける。いったい俺はどこにいるんだろう。虚空か、現世か? 現世といっても――いったいどこだ?
「エシュ……」
真上にアーロンの眸がみえた。眉間に険しい皺が寄り、睨まれているような気がする。俺は横たえられていた。背中はほどよく堅いマットにくっついている。アーロンの顔のむこうにある天蓋をみて、俺はまばたきする。ここはさっきの部屋で、俺がいるのはあのベッドだ。
俺はあわてて起き上がろうとして、上にのしかかる重さのために失敗した。
「アーロン」
「二時間ほどで夜明けだ」
アーロンの腕は横たわった俺の肩に回されていた。下半身はあいつの長い足に押さえられている。おたがいに服を着ていることに俺はほっとし、次にはっとする。あの男はどこへ行ったんだろう?
一度はゆるんだアーロンの表情がまた渋くなった。
「おまえの連れなら……もう館を出た」
俺はため息をついた。
「アーロン、おまえも出ろ」
「断る」
アーロンは俺を真正面からみつめていた。眉間にはまだ小さく皺が寄っている。せっかくの顔が台無しだ。
「アーロン……」俺はつぶやいた。「おまえは俺がどんな人間か、よく知ってるだろう?」
「どうだかな」
「知ってるさ。さっきも見たはずだ。俺はおまえや――カリクやセランとは全然ちがう種類なんだ。たとえ軍の高官の養子になったって、何も変わらない。さっさと俺を置いて出ろ。ほら、あいつ……セランとつきあえばいい」
「断る」
「アーロン……頼む。俺を狩るな」
俺としては必死の思いで告げたのに、アーロンは眼をむいた。呆れたような表情だった。
「エシュ。俺はおまえがなぜそんなことをいうのか、まったくわからない。俺はおまえが好きなんだ」
「アーロン、俺は……」
「おまえは俺が嫌か?」
俺は唾を飲みこんだ。まったくなんてやつだ、と思う。真顔で聞くか! おまえを嫌いかだって?
「俺は――」
ああ――そうだ。俺は目頭が熱くなるのを感じた。そう、おまえなんか願い下げだといえばいいのだ。嫌だといって押しのけてしまえばいい。簡単なことだ。簡単なこと……
「エシュ。俺はずっと自分でも気がついていなかった。この前やっとわかった。おまえが好きだ」
俺は首を振ろうとしたが、できなかった。アーロンの腕は俺の肩をおさえたままで、膝にからむ足のぬくもりは俺にいらぬ欲望を思い出させた。ちょっと頭をもちあげればこいつの顔に届くだろう。彼の唇がうすくひらいた。赤い舌の先端が隅を舐め、すぐにひっこむ。俺の体の中で血がたぎり、あのいまいましいオブラの効き目が消えていないのを思い出させた。学生会のセランとこいつのキスシーンが脳裏を横切る。俺は何度目かのため息をついた。
「アーロン。おまえは間違ってる」
「そんなことはな――」
「キスっていうのはこうやるんだ」
俺は腕をアーロンの首に巻きつけ、唇をおしつけた。
アーロンの体がぎょっとしたように硬直する。その隙にのしかかる重さを押しのけ、今度は俺がアーロンの上に乗る。もう一度唇を重ね、舌で上唇と下唇の境目をさぐり、押し開ける。鼻で息をして彼の匂いを吸いこむ。歯をなぞり、もっと奥へ舌を入れ、口の中を味わって――
俺の背中をアーロンの腕がしめつける。こいつが着ている馬鹿げた英雄の軍服の下で、堅くなった一物を腹に感じる。俺はさらに舌を絡め、キスを続けた。唾液がまざり、あふれて糸を引いた。中途半端に置いていかれた下半身が疼く。
突然自分が情けなくなった。不覚にもまた目頭が熱くなる。俺はこいつが欲しい。
背中を撫でていた手のひらが服の裾をあげ、俺の素肌に触れる。下穿きを膝まで一気に下げられ、尻をぎゅっとつかんでくる。俺は息をのみ、いまいましいアーロンの衣装に手をかける。ボタンは案外するするとはずれた。アーロンは唸りともため息ともつかない声をあげ、俺をおしのけるようにして自分から脱いだ。素っ裸になって俺の上にかぶさってくる。足を広げられ、もちあげられ、一気に中を貫かれた。奥を突かれるたびに快楽の白い波がやってくる。
ああ……だめだ。俺は眼をつぶる。流されてしまう。流されて、投げ出される。
「エシュ、エシュ」
アーロンが俺の肩を揺さぶっていた。
「大丈夫か? きつかったのなら……すまない……」
俺は首をふる。安心しろといってやりたいのにひきつれたような声しか出なかった。ひどくだるく、喉が渇いていた。アーロンが水のコップを持ってきて、俺は一気に飲み干した。窓からみえる空は白かった。
「夜明けだ」
アーロンがいった。狩りの夜が終わったのだ。
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