02.ホットケーキ

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02.ホットケーキ

 ケイスが目覚めると、部屋の外からシャンソンが聞こえた。  古いレコードをわざと流しているらしく、レコード特有の雑音がそのまま再現されている。  以前見た白黒の記録映画で女性ヴォーカルが歌っていた曲だ。  沖縄基地の近くに借りているコテージハウス。寝室の窓からは綺麗に刈りそろえられ、強い太陽の下で青々と輝いている。  キッチンと思われる方から炊事の音と、コーヒーの香りではなく、アールグレイの香りが漂ってきた。  口の悪さや態度に比べて、時々、家庭的な行動を取る彼女に惹かれ始めたのはいつだったろう?  ぼんやりと考えるケイスの脳に、ベーコンの焼ける音と、ホットケーキの焼ける香りが漂ってくる。  やがて、頭がはっきりしてくると、昨晩のことが思い出され、しまったとケイスは頭を抱えた。  昨夜は基地そばのバーで四人でかなりの量を飲んでいた。その後、珍しくフラフラとしているナオミをみかねて送ったのはケイスだった。  黒い顔に白い歯の並んだリックのニヤニヤ笑いと、コリーナの困った顔が目に浮かび、更に頭を抱える。 「愛の歓び、だったかな」  ベッドの上で独りごちて気を紛らわせようとするが無駄だった。 「エディット・ピアフのよ。"バラ色の人生(ラ・ヴィ・アン・ローズ)"」  部屋に姿を現したナオミは、薄いカーデガンをまとっていた。痩身だが女性らしい曲線と、褐色の肌にそれはよく似合っていた。 「朝ご飯食べるでしょ?キッチンに来て」  まだ横になっている、ケイスの頬にキスをする。  ベッドの上にあぐらをかいて、どぎまぎとナオミを見つめるケイスと、自然な態度で接するナオミ。いや、少しだけ普段より所作が女性らしい。 「あー、うーんと」  ケイスが言うと、覚悟を決めたように、ナオミをそのまま抱きしめてベットに抱き倒そうとする。ナオミがそれを軽くあしらって立ち上がり、楽しげに笑った。彼女の長い腕がケイスの首に巻かれる。  ここが前線の遙か後方で、自分がまだまだ士官学校在学中の訓練生であるというだけで、世界は平和だとケイスは思っていた。  世界では、今だに小競り合いが続いており、戦闘のあったことは基地内で放映されるニュースでも必ず流れるが、大きな戦闘には発展していなかった。  冷戦(コールドウォー)。表面の冷たい代理戦争は、二一世紀を過ぎても延々と続く。  第二次世界大戦後の世界を二分した、アメリカ合衆国を盟主とする資本主義・自由主義陣営と、ソビエト連邦を盟主とする共産主義・社会主義陣営との対立構造。  カリスマ性に富んだ指導者による終結など小説の中のフィクションでしかなく、東西に分かれての戦いは、飽きもせず一世紀近く続く。  局地的に行われる、大なり小なりの戦闘と、ごく地域を限られた戦術核の使用。  集合、離散を繰り返しながら、民族や国境の差が変化していく。  それでも世界は、三回目の世界大戦には至っていなかった。  軍の派遣や経済支援の行える大国の影がうっすらと見える小競り合いを各地で続けながら、世界は多様に勢力を変えながらコンスタントに戦争を行い、資源と人材の消費を続けていた。  ケイス達、イギリス陸軍所属の士官候補生は西側(ウエストサイド)に属する。国家の軍隊というものの存在が希薄となった世界で、それでも一応彼らは、アメリカ、日本、イギリス、台湾の統合軍に所属していた。  ベルファスト基地附属士官学校の候補生の中から選抜で選ばれた、先行動力甲冑(モータードレス)訓練生は、この極東の島国で最終調整が行われている「新兵器」の訓練を受けていた。  ナオミはしなやかな筋肉で覆われた痩身の美人ということで、ここでも話題になったのを覚えている。  高飛車な態度のナオミに格闘訓練をわざと申し込んだ海兵隊の猛者達がホイホイと宙に飛ばされ、関節をきめられる。  無様な格好で投げられ逆上した鷲鼻の白人が、訓練用の杖(ジョウ)を持ち出して襲いかかったときには、ケイス達も焦ったが、ナオミは分けもなく相手に入り身で入ってうつぶせに倒してしまう。おまけに肩の関節を外してしまった。  士官候補生達は一年にわたってナオミの教鞭を受けている。自分達の師のものすごさは我が身で十分知っていたが、ケイスも含めてあらためて驚嘆したものだ。年齢のそれほど変わらない、この少尉待遇の格闘教官がどんな訓練を受け、戦闘を経験してきたのか想像はできないが、華奢な女性下士官が、士官学校の格闘教官をしていることにあらためて納得する。 「料理が冷めるわ。早くキッチンに来て」  スラリと立ち上がると、後ろに流し目をくれて、そのままキッチンに歩いていく。後ろ姿の引き締まった腰と、白のレースのついた下着に覆われたヒップをちらりと見て、ケイスは少し赤らんだ。頭をかいてごまかすようにする。  小麦色に焼かれ、やさしい湯気の立つホットケーキと、カリカリに焼かれたベーコン、軽くボイルした後バターで丁寧に焼いたブロッコリー。白い湯気の立ち上るティーポット。  キッチンに置かれた六十年代風のアメリカンラジオからは、同じヴォーカルのシャンソンが流れる。合わせて歌われるナオミの鼻歌も流暢なフランス語だ。  ケイスとナオミがバーでしこたま飲んでここに来た時、ナオミは唯一家から持ってきた私物だと言い、大切な物を扱う様に、慎重な手つきで電源を入れ、ボリュームを調整していた。  椅子に座ると、ナオミがホットケーキにたっぷりとメープルシロップをかけ回す。  ベーコンにすこしシロップがかかり甘辛になっているところ、ケイスはフォークで口に運ぶ。香ばしい風味と、甘さが口に広がった。 「明日から訓練に戻るんだから。今日はどこに連れて行ってくれる?」  他の候補生の前では決して使わない、女性らしい言葉遣いと仕草が、朝の光の中で、余計にナオミを愛おしく見せていた。  また、頭に浮かんできたリックのニヤニヤ笑いが浮かんでくるのを振り払い、 「いいのかな?」  と言ってケイスがカップのお茶をすすり込む。アールグレイ独特の健やかな香りが花に抜けていく。  ナオミが黙ってホットケーキを切り分け、一つをケイスの前に差し出した。目が笑っている。  それをケイスがほおばると、自分も一切れ口に入れた。 「明日から、また、クソッタレの技術士官殿と狭いピットで訓練なのよ。どこか空の見えるところでのんびりしたいわ」  初日に、ナオミに投げ飛ばされた士官を思い出す。新配備されたモータードレスの使い方に自信があったらしく、初動訓練でナオミに挑んだが、手首の関節をしっかり決められて投げ飛ばされていた。 「ビーチに行きたいわ。サンドイッチを作って行きましょうよ」 「いいよ。車を出しておくよ」  窓の方に目を向けると、夏の雲がぐんぐんと沖縄特有の青い空に登っていくのがわかる。 「今日も暑くなりそうだな」 「そうね。私は暖かい方が好きだわ。だから、オキナワが好き。今度の休暇は他の島に行ってみたい」  暖かな光の中で、自分を見つめてナオミが微笑む。まぶしく光り、強い太陽の光に消えていく。
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