二.ダークブルーの憂鬱

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二.ダークブルーの憂鬱

 車は、窓から風を呑み込みながら走る。里穂さんは声を張り上げて、後部座席のあたしたちに言った。 「大近島にショッピングセンターができたって話、知っちょる? 三年前にオープンしたと」  そのニュースは、明日実が知らせてくれた。だから、あたしも知ってはいるけれど、あまり想像ができない。  里穂さんはこれから、そのショッピングセンターに向かうらしい。その前にガソリンスタンドに寄って、本土よりリッター当たり二十円高いガソリンを満タンに入れた。島には電車がなく、バスの本数も少ないから、自家用車は必需品だ。  ショッピングセンターは、大近島の真ん中あたりにあった。山の一部を切り開いて平らにした土地に、スーパーと洋服屋と農協とホームセンターと電器屋とドラッグストアが造られていた。もちろん、広々とした駐車場もある。  ショッピングセンターを中心に、大近島の各方面からの道が舗装されていた。真新しく黒々としたアスファルトは、古い道とは比べ物にならないくらいまっすぐに伸びている。  里穂さんは、ドラッグストアで、お一人さま二個限りの特売品をあたしと良一にも二個ずつ持たせてレジに並んで、ほくほく顔だった。買い物を手伝ってほしいって、要するに、こういうことだ。  ドラッグストアの戦利品を車に積んで、農協の野菜を買って車に積んで、スーパーに向かう。  予想はしていたんだけど、どの店でも、里穂さんの知り合いに声を掛けられた。相手から見た里穂さんの立場はいろいろだ。大近島の高校の卒業生としてだったり、夏井先生の奥さんとしてだったり、婦人会のメンバーとしてだったり。  大近島の面積はそこそこ大きいけれど、コミュニティは小さくて狭い。特に教師なんて職業だと、人との付き合いの範囲が広いから、家族に教師がいたら、どこへ行っても、誰からか声を掛けられる。  里穂さんに話しかける人たちは、必ずあたしと良一にも挨拶してきて、この子たちは誰なのかと里穂さんに尋ねる。  あたしと良一は、ひとまとめに「小近島の真節小の最後の卒業生」と言われることもあれば、あたしに「松本先生夫妻の娘さん」が付け加えられることもあった。  あたしの両親は、島での教師歴が二十年くらいになるから、教え子とその保護者とか、元同僚とか、付き合いのあった人たちの数がとにかく多い。年賀状なんかを通じて、あたしの名前と顔も妙に知れ渡っている。 「あらぁ、もう高校生になったとね! おねえさんになって。おかあさんに、よう似ちょらすね。なつかしか!」  一方的になつかしがられても、困る。あたしの顔立ちの雰囲気や声の感じは、母に似ているらしい。でも、キャラは全然違う。頑固で寡黙な父のほうが、まだタイプが近い。  里穂さんのまわりに咲くおしゃべりを、聞くともなしに聞いているうちに、良一が今朝到着の夜行フェリーで大近島に渡ってきたことを知った。 「ぼくは昨日、東京から博多まで新幹線で移動してきて、博多の港から夜行フェリーに乗りました。外海って、波が高いんですね。夏場だし、天気もいいのに、外海に出たとたん、揺れ始めたんですよ。だから、船酔いしないように、すぐ横になりました」  誰がどこからどう見てもカッコいい良一は、受け答えも礼儀正しくて都会的だ。里穂さんに声を掛ける女の人たちは、みんな良一を誉めちぎる。  良一は、変な謙遜はしなかった。「そんなことないです」なんて否定するんじゃなくて、照れ笑いのような表情で「ありがとうございます」と言った。  あまりにもよくできた笑顔だった。その「ありがとうございます」は、本当に、心からの言葉なの? そう疑いたくなるくらいに、良一の存在はきれいだ。きれいすぎる。  カレーの材料を中心に、いろいろと買い物を済ませた後、大型スーパーに併設された全国チェーンのドーナツ店で休憩した。三人ともおやつは食べず、飲み物だけだ。  里穂さんは島の外で暮らしたことがない。大近島の高校を卒業した後は、地元の漁協で働いて、幼なじみである夏井先生と結婚してからは専業主婦になっている。  ファーストフード店のカフェオレには昔から憧れがあったんだと、里穂さんは笑って、おかわり自由のお手頃な味を楽しんでいる。そんなにいいものなんだろうかと、あたしは思う。  あたしは、本土に住むようになった中学時代に、初めてファミレスに入った。ハンバーグの味に違和感があって驚いた。人工的な味だと感じた。つなぎの素材の匂いが気になった。味の濃いソースでもごまかせない違和感だった。  島に住んでいれば、塩を振って焼くだけでおいしい魚が、毎日の食卓に上った。素材のままでおいしいのは魚介類だけじゃなくて、物々交換でいただく野菜や芋、農家からモミのまま買うお米、手作りの味噌、遠足で採ってきた山の実。  あたしが知っている食べ物は、現代の日本のそれとは違う。フツーの日本の暮らしをしていては、おいしいと感じられるものがない。中学校の給食には、最後まで慣れなかった。ファーストフードやインスタント食品の風味と匂いも、どうしても苦手だ。  食べなければと頑張れば頑張るほど、あたしは上手に食事ができなくなった。学校生活がガタガタに壊れていくのとも相まって、まず空腹感を忘れた。満腹感もわからなくなって、いつ何をどれだけ食べればいいのか、自分で判断がつかなくなった。  当たり前のことが、あたしにはできない。食べるとか、眠るとか、笑うとか。  カフェオレのカップを空にすると、三人がかりで大量の荷物を抱えて、車に戻った。 車のトランクには、クーラーボックスが載せてあった。冷蔵しないといけない食材を、里穂さんは手際よくクーラーボックスにしまい込む。  良一は目を丸くしていた。 「クーラーボックス持参だなんて、用意がいいんですね」  里穂さんは、何てことない様子で答えた。 「積んじょっ人、多かと思うよ。クーラーボックス。うちの場合、岡浦地区にはスーパーがなかけん、食材は一週間ぶん買いだめすると。そういうとき、やっぱりクーラーボックスがあったら便利やし、安心できるけん。ね、結羽ちゃん」 「そうですね。漁協に魚を買いに行ったりとか、釣れ過ぎた魚を急にもらったりとか、ありますし」  良一は興味深そうに、クーラーボックスをデジカメで撮影した。スーパーや農協ストアでも、新鮮で安い地元の食品を撮影していた。そのいちいちで、里穂さんに撮影の許可を取っていた。  里穂さんは、手をぱたぱたさせて笑った。 「わたしは写真も動画も気にせんよ。好きに撮ってくれて、よかけんね。島以外の人には珍しかろうし」  違う、と、あたしは気付いている。島に住んでいた良一だって、自家用車に積まれたクーラーボックスや島のスーパーの品揃えが珍しいんだ。  良一は普通の家庭で過ごしていたわけじゃない。慈愛院には、神父さまがいて、シスターが二人いて、血のつながらない兄弟姉妹が、良一を含めて六人いた。あたしにとっての島の日常と、良一が経験した暮らしでは、いろんなことが決定的に違っていた。  買い物の後は、まっすぐ岡浦に戻った。里穂さんは、観光に連れていけるよと言ったけれど、あたしは断った。良一も特にリクエストがなかった。結局、新譜を聴きながら家に帰って、里穂さんのカレー作りを手伝った。  夕方五時。  時計を見るまでもなく、その瞬間、あたしは夕方五時だとわかった。各家庭の玄関や数百メートルおきの電柱に取り付けられた防災無線のスピーカーが、雑音混じりの「夕やけこやけ」を流したんだ。 「ああ……!」  あたしと良一は、同時に、言葉にならない声を漏らした。  なつかしい。なつかしすぎて痛い。胸がギュッと絞り上げられた。  丸っこい電子音で奏でられる「夕やけこやけ」。これが鳴る時刻でもまだ、日本列島の西の最果てにあるこの場所では、日は沈まない。冬場でもだ。だけど、「夕やけこやけ」が鳴ったら家に帰るのがルールだった。  家に帰ったら、洗濯物を取り込んでたたんで、流しに漬けてある食器を洗って、お風呂掃除をする。そうこうするうちに、母が船に乗って、仕事から帰ってくる。バタバタと慌ただしげな母を手伝って、晩ごはんの支度をする。  小近島での夕方は、そんなふうだった。そうやって力を合わせなければ、何かと不便な島の暮らしは成り立たなかった。あれが当たり前だった。今となっては信じられないけれど。本当に。  防災無線の「夕やけこやけ」からほどなくして、夏井先生が帰宅した。晩ごはんは、普段よりも早い時間帯だった。  食べ終わるころ、母から電話が掛かってきた。お世話になりますの挨拶はしたのかとか、おみやげは渡してくれたのかとか、ちょっとうるさい。そのへんの常識は、あたしだってわきまえている。  あたしはすぐにスマホを夏井先生に渡した。夏井先生から里穂さんにバトンタッチして、ついでに良一にも代わって、もう一度、里穂さんがスマホを手にして、しばらく話し込んだ。  ずいぶん経ってから戻ってきたスマホは、体温が移ってぬるくなっていた。あたしはさっさと電話を切った。  それから、空っぽになったカレーのお皿越しに、いくつかの会話が交わされた。晩ごはんの片づけを手伝って、明日の予定を確認した。  明日は、真節小の取り壊しが始まる日。真節小とサヨナラをする日だ。  そして、シャワーを浴びたら、案外あっさりと、一日が終わってしまった。  家じゅうの電気が消えて、しんとした。岡浦はお年寄りが多く住む地区だからか、集落の家々の明かりも、すでにない。  曲がりくねった県道沿いに、頼りなげな外灯がポツン、ポツンとある。船着き場の一帯だけ、少し明るい。  星が、降ってきそうに輝いている。白々とした天の川は、山の端から空の真ん中を通って、小近島の影に突っ込んで消える。  今夜は月がない。昨日は明け方に、爪を突き立てた痕みたいな形の月が、弱々しく輝いていたけれど。月のない空は、星が本当に明るい。  あたしは窓から抜け出した。真夜中の県道に立って、じっと、夜を眺めている。ケースに入れたアコギを右肩に引っ掛けただけで、財布もスマホも置いてきた。スマホで動画を撮ろうにも、岡浦の夜は暗すぎる。何も映らないだろう。  潮風が涼しい。一人だ。今夜はパーカーのフードをかぶらない。  ガードレールがひどく白い。岡浦湾の静かな波は、平たい銀色をしている。  くさむらからも山からも、虫の鳴く声が聞こえてくる。秋の虫は、夏に入れば、もう鳴き出すものだ。どこか遠くから、犬の鳴き声が聞こえた。山犬だと思う。  音はあるけれど、静かだ。人工的な音でないものたちは、一つも、うるさくない。  昔は夜が怖かった。真っ黒に沈んだ山や、そっとうなりながら波打つ海から、何が出てきてもおかしくないように思えた。  だけど、今は、闇が優しい。  不眠症と診断されたことはない。病院に行ったことがないから。でも、医者の診断なんて必要ないくらい、あたしは毎晩、一睡もしない。眠らない日々を重ねて、ごくたまに、ほんの数十分、うつらうつらと夢を見る。  あたしは夜が訪れるたび、居心地のいい暗がりを求めて家を抜け出して、ギターを弾いて歌う。今住んでいるのは、幸か不幸か、暗い山も海もない住宅街だ。遅い時間に帰宅する人々の目を避けて、パーカーのフードを深くかぶる。たまに、歌う動画を撮る。  ずっと夜ならいい。世界は明るくならず、あたしは学校に行く必要もなく、ずっと歌っているんだ。そして、食事や睡眠っていう面倒くさいことにわずらわされず、歌って歌って歌い続けて、そのまま、風に吹き払われて消えてしまいたい。  できないことだ。わかっている。夜は明けてしまうし、あたしは高校生だし、食べなければふらふらするし、眠れなくなった体は重苦しくて仕方ない。おとぎ話みたいに、跡形も残さずきれいに死んでいけるなんて、あり得ない。  でも、今は、今だけは、暗くて静かな夜の中に、あたしひとりだ。あたしがこの夜を支配しているんだ。  と、そう思ったときだった。足音を聞いた。あたしは振り返る。  良一が立っていた。  闇に慣れた目に、白いシャツがまぶしい。パジャマ代わりのイージーパンツ。意外なことに、眼鏡を掛けている。 「何やってんの?」  あたしの問いかけに、良一は、ゆるりと首をかしげた。 「それはおれが結羽に訊きたい。網戸が開く音がしたから、気になって外を見たら、結羽がどこかに行くところだった。どこ行くんだ? 何やってるんだよ?」  違和感があった。眼鏡のせいだけじゃない。表情のせいだと、あたしは気付いた。違和感の正体は、良一が商売道具みたいな微笑みを顔に貼り付けてないせいだ。  あたしは良一から顔を背けた。 「ただの散歩」 「こんな真夜中に?」 「眠れないし。ギター弾けるとこで適当に過ごすの」 「危ないよ」 「危ないって、何が? 変質者がいるとでも? こんな小さな集落にそんなのいないって、あんただってわかってるでしょ」 「山犬とか、鹿とか、猪とか」 「食べ物が十分な夏場に、わざわざ海際まで下りてこない」  あたしは歩き出す。良一がついて来る。 「散歩って、どこまで?」 「とりあえず、船着き場。あそこなら外灯があるから、ギター弾ける」 「おれも行く」  良一はあたしの隣に並んだ。あたしは、良一とは反対側に顔を向けた。透明なダークブルーの海がある。  ついて来るな、と言った。うざいんだけど、とも言ってみた。良一は黙って聞き流した。面倒くさくなって、あたしはそれ以上、何も言わなかった。  ひび割れのあるアスファルトの真ん中を歩いていく。海は、満ちても引いてもいない頃合い。船着き場の浮桟橋は、陸と同じくらいの高さにある。コンクリートの防波堤の濡れ方を見るに、たぶん、今は引き潮だ。  浮桟橋より少し先にあるコンクリートの防波堤は、灯台の役目も兼ねているのか、白々として見えるほど明るかった。防波堤に結わえられた漁船たちが、波間で眠りに就いている。あたしは防波堤の突端を目指す。  外灯の真下で、海をのぞき込んだ。青く透き通る大きなカニが、突然落ちてきたあたしの影に驚いて、スッと泳いで逃げていった。ホコがあれば、突いてつかまえられたのに。あのカニの味噌汁はおいしいんだ。  防波堤の突端に、あぐらをかく。ジーンズ地のショートパンツ越しに、コンクリートはそっけない温度をしている。ケースからギターを取り出す。ストラップを左肩に掛けて、あぐらの膝の上にギターを抱える。  良一が、あたしの隣に膝を抱えて座った。 「そのギター、真節小にあったやつ?」 「そうだけど」 「里帰りだな」 「そんな感傷、興味ない。あたしはこのギターしか持ってないから、これをここに連れてきた。それだけ」  五弦を鳴らしてみる。Aの音の高さに、わずかに届かない。ペグを締める。再び鳴らして、パチリと感覚が整う。五弦を基準にして、低音の弦から順にチューニングする。 「結羽、絶対音感があるんだっけ?」 「すべての音に対して、とはいえないけど、五弦のAだけは完璧に合わせられる」  チューニングの後の最初のストロークはいつも、Aアドナイン。ピアノで言うところの、イ長調の変化形。開放弦が多い、伸びやかさと切なさを合わせ持つ響き。  弾き語りで初めて覚えた(うた)の一番目のコードがAアドナインだった。その唄は、あぐらの膝の上にギターを抱えてストリートで弾き語る少女歌手が、自分の命の意味を込めて作ったもので、Aアドナインは彼女がいちばん好きなコードらしい。  夜の海に、ギターの音色がさらさらと渡る。ピックを使わずに、撫でるように弾いている。誰もが寝静まった真夜中に一人で弾くときは、大きな音を出さない。  ギターと同じように、ささやくように、あたしは歌う。夜の思いを取り留めもなく語る唄を。  夜はあたしの時間だ。まわりの誰にも、何にも邪魔をされずに、音楽に没頭できる時間。唄を書くのは夜だから、月や星や闇、ひんやりと湿った空気の匂い、曇り空に反射する車のライト、そういうものたちがいつも、あたしの唄の中にいる。  正直な唄を書いて歌うのは、自分を傷付ける行為によく似ていて、眉毛用カミソリでのお手軽な自傷行為よりもずっと痛い。壊したいのに創るだなんてバカバカしくて、言い訳みたいな言葉を書いちゃうんだからずるくて、だけど、これしかないって思う。  親は、あたしが左の二の腕と肩に傷を刻んでいたときには本気で怒ったけど、夜にギターを抱えて家から抜け出すようになってからは、あまりいろいろ言わない。体に傷を付けるより心の傷をえぐるほうが、マシな人間のやることなんだろうか。  あたしの唄を、良一は聴いていた。ときどき視線を感じた。あたしは無視して、目を閉じて歌った。  もしかしたら、あたしの唄にはエレキサウンドが合うのかなって思ったりもする。ひずんで危うい音色のギターや、芯から体を揺さぶるバスドラムや、心臓の鼓動と同期するようなベースを、唄のイメージに重ねてみる。  アコースティックの唄をエレキサウンドにアレンジするには、どうすればいいんだろう? そういう勉強をしたい。あたしが本当に必要とする知識は、学校では教えてくれない。自分で手に入れなきゃいけない。  でも、それはいつまでに? あたしは、やりたい音楽を、いつまでに勉強していつまでに身に付ければ、みじめな問題児っていう殻を破って、生きる意味のある世界へ飛び込んでいけるの?  早いほうがいい。だらだらしていたら、あたしは、自分で自分を枯らしてしまう。  あたしは、自分の中にあるほとんど全部に失望しているけれど、唄を歌っていたいっていう、この気持ちが本物であることだけは、ちゃんと証明できる。ただ、その証明には賞味期限が付いていて、いつまでも走り続けることはできない。  どうせ誰もあたしの唄なんか聴いてやしないんだって、本気で思ってしまう日が来たら、あたしは今度こそ生きていられない。生きることへの不安や不満が、死にたいという絶望感に姿を変えて、確かな形を持ってしまう。  歌いたいとか、歌うためのチカラがあるとか、そのチカラにはまだまだ伸びしろがあるとか、それだけが、あたしをこの世につなぎ止めている。切羽詰まっている。それをそのまま唄にしている。  ああ、でも、だけど。  書きたい唄の形は、本当に、くすぶったこの感情なんだろうか。  ウッ、と息が詰まってしまうような、ここがいちばん、心のとんがったところの限界点なんだろうか。突破した先って、ないんだろうか。  悩んで悩んで悩んで、今、歌うための言葉が迷子になっている。もし、響きのいい言葉だけを無理やり連れてきたとしても、それは嘘だ。うわべだけのモノで塗り固めた唄なんて、歌えない。 「……ねえ、結羽」  シャカシャカと適当なストロークを続けるあたしに、良一が声を掛けた。けっこうしばらく歌い続けた後だった。 「何?」 「おれが隣にいて、ドキドキしないの?」 「は?」  意味不明なせりふに、思わず手を止める。良一のほうを向いたら、眼鏡越しの目は笑っていなかった。前髪が無造作に流れて額を隠していて、昼間とは印象が違う。人前に出るときはセットしていたんだな、と気付く。  良一は質問を繰り返した。 「今、ドキドキしてないの?」 「何で?」 「何でって」 「平然とされてたら、イケメンモデルのプライドが許さない?」 「その言い方はないだろ」  良一はうつむいた。長いまつげの先端が眼鏡のレンズに触れそうだ。 「目、悪いんだ?」 「昼間はコンタクト。仕事のとき、やっぱり眼鏡じゃ不便だから」  動きを止めてしまった指先が、早速、うずうずし始める。弾いてなきゃダメだ。あたしは、昼間ショッピングモールの有線放送で流れていたロックバラード、星が終わる瞬間の明るい輝きをいとおしむ唄を、両手の指に歌わせる。  もともと、あたしの指は動きたがりだ。小学生のころは、授業中の「手まぜ」を注意されていた。つねにノートの上に字を書いていればいいと気付いてからは、注意されなくなった。先生の話を聞き書きする癖をつけたから、成績も上のほうで保っている。  ギターの静かな音色をBGMに、良一は言った。 「モデルとか関係なしで、一般論だよ。十六歳の男子と女子が二人きりでいたら、普通はドキドキするだろ?」 「別にドキドキしない。あたしは普通じゃないし」  答えるあたしが微妙にゆっくりな口調になったのは、ロックバラードのリズムのせい。音程こそ付けないけど、演奏の呼吸とコードを無視したしゃべりは、あたしにはできない。  良一はうつむいたままだった。あたしは空を見上げた。満天の星。島の外では見ることのできない、闇と光のシアター。この空に、ずっと会いたかった。 「結羽、おれは、ドキドキしてるよ」 「あっそう」 「クールだな。こっち向いてもくれないしさ。おれがここにいてもいなくても、結羽にとってはどうでもいい?」 「そうだね。あたしは、ギターを弾きたくてここに来たんだし」 「でも、結羽は、歌うことを自己満足で終わらせたくないんだろ? 家に閉じこもってるんじゃなくて、外に出て弾くのは、発信したいからなんだろ? 一人で好き勝手に弾くだけじゃ、イヤなんだろ? hoodiekidの動画だって」  その瞬間、ピンときた。 「lostman《ロストマン》って、あんた?」  いつもコメントを入れる、本名も顔もわからない誰かのうちの一人だ。ほかのフォロワーとは、コメントの印象がいつもちょっと違う。「この先は?」「この次は?」って訊いてくるんだ。  良一は、髪をザッと掻き上げた。 「そうだよ。そういうのを知るのがイヤだったら、ごめん」 「別に」 「モデルとして事務所に入ってさ、おれのキャラなら自分で動画配信しても大丈夫って言われて、撮ってみることにして、勉強のためにいろんな人の動画を観たんだ。そのとき、ある人が真っ先に教えてくれたのが、hoodiekidだった。結羽だからって」 「参考にもならないでしょ。フォロワーの数だって、あんたが目指すところに比べたら、全然多くないし」 「参考にしてるってば。おれは、ちょっとズルしてるよ。動画は、撮るとこだけ自分でやって、編集は人に任せてる。事務所のチェックを通さなきゃいけないって事情もあるけどさ。結羽は全部、一人でやってるだろ。パソコン、使えるんだな」  パソコンには小学生のころから触れていた。両親が、お下がりのパソコンをくれたんだ。このご時世、いつか必ずパソコンを使うことになるからって。タイピングもそのころに覚えた。スマホのフリップよりキーボードのほうが、あたしは入力が速い。 「難しい編集はしてないよ。雑音を消して、動画の長さの調整をして、明るさや色調をいじって、必要なとこにテロップ入れたり、歌詞を書き込んだり、写真を挿入したり。まあ、それなりに手間はかかってるけど、難しくはない」 「歌ってるシーンが、たまに白黒アニメに切り替わるだろ。あと、漫画のコマ割りみたいに、写真を散りばめていくアニメとか。ああいう演出の動画も自分で作ってるの?」 「スマホアプリだよ。両方とも。動画や画像を流し込むだけで、アニメ風に加工できるアプリがあるの。光のバランスとか、条件がそろわないと、きれいなアニメにならないけど」 「あ、そうなんだ。あの演出、すごいカッコいいと思ってたんだけど、スマホアプリ?」 「文字入れでも、アプリ使うことあるよ。スマホでやるほうが、パソコンよりお手軽だし」 「頭いいんだよな、結羽は。飲み込みが早くて、発想が柔らかくて。おれは、そういうんじゃないから。仕事も、覚えることだらけで必死だよ。そんなにスケジュール詰まってるほうでもないけど、それでも必死」  そう、と応える。じくじくと胸が痛むのは、嫉妬だ。  良一は仕事をしている。モデルという、表現活動の仕事。音楽とは違うにしても、自分の内側にあるものを自分だけの方法で表現するっていう、そのチャンスを持つことを社会から認められている。発信するチカラがある。  うらやましくて仕方ない。ねたましいくらいに。  あたしが黙ると、良一が口を開く。 「明日、明るいところで歌ってる結羽を撮ってもいいかな?」 「何で?」 「コラボ動画ってことで配信したい。あと、単純に、おれがそういう絵を見てみたいから。結羽のイメージってさ、やっぱり、おれにとっては小近島の青い海と空なんだよ。どこか知らない町の夜の公園じゃなくてさ」 「ハッキリ言っていいよ。がっかりしてんでしょ? あたしが、昔のあたしじゃないから」 「違う。がっかりじゃなくて……おれ、さっきからちょっと挙動不審で、言ってることが変かもしれないけど、それが何でかっていったら、さっきも言ったとおり、ドキドキしてるからで」 「それは、あたしに対してじゃない。この状況に対してのドキドキ。ここにいても気分が落ち着かないんだったら、夏井先生の家に戻って寝れば?」  良一が大きく息を吐き出した。そして、仰向けにひっくり返った。 「ここで寝る。やたらと刺激の多い一日で、妙に目が冴えちゃってるんだけど、疲れてるのも事実だし、横になってたら、どこででも寝られると思う」 「あっそう」 「風邪ひくよ、とか心配してくれないの? モデルは体が資本でしょ、とか」 「バカ」 「ご名答。確かに、バカなこと言った。心配してくれなんてさ。そこまでかまってもらわなくていいや。これくらいじゃ風邪ひかないし、この程度で傷むようなヤワな体じゃないし。あー、やっぱ硬いな、コンクリート。防波堤に寝転ぶって、ほんと久しぶりだ」  良一は思いっきり伸びをして、パタッと無言になった。あたしはかまわずギターを鳴らして、だいぶ前に作った唄にアレンジを加えながら歌ってみたりして、ふと見てみたら、良一は本当に寝ていた。  ああ、確かに良一なんだなって、急に思った。力の抜けた寝顔はあどけない。初めて小近島に来たころの、小さくて頼りなげな男の子を、あたしは思い出した。  あたしは「あたし」のことしか唄にしない。でも、一曲だけ「あたし」じゃなくて「あたしたち」を歌ったことがある。よっぽどじゃないと気付かないだろうけど、歌詞にたった一行。 「八つのきらめき 海を映して」  あれは、四人ぶんの瞳の数だった。ずいぶん前に書いた唄。lostmanという名の良一は、案の定、そこに触れなかった。あの唄はあんまりコメントが多くなくて。  でも、律儀に全部の唄にコメントを付けるKzHは、あの唄にも書き込んでいたな。「恋なんてずっと知らないよ」っていうサビの歌詞に反応して、真顔で言うみたいに、絵文字も記号も使わずに。 〈KzH|初恋の人がそういうタイプだった。態度にしろ言葉にしろ、ハッキリそれを出されたら、ダメージでかいよ〉  何かあったのかなって、さすがにちょっと気になった。コメントに返信してみたら、話ができたんだろうけど。  関係ない、関係ない。あたしには、他人の人生なんて、これっぽっちも関係ない。あたしは勝手に唄を歌うし、聴きたい人は勝手に聴くし、書き込みたい人は勝手に書き込む。そのくらいの風通しがあるのが、あたしにはちょうどいい。  そのときは、そうやって、人とからまないことを貫いた。でも、印象は焼き付いた。あの唄を歌うたびに、今もここで歌いながら思い出しているように、あの「ダメージでかいよ」が頭をよぎる。これはそんなに痛々しい唄なんだと、あの言葉を通じて知った。  言葉というのは、やっぱり、交わされるために存在するのかな。あたしが紡いでいる、唄という形の言葉は、このままじゃ半透明なのかな。  あたしは、ギターを弾いて歌い続けた。良一はずっと、すやすや眠っていた。  星座の位置が変わる。潮がどんどん引いて、やがて止まって、今度は少しずつ満ち始める。真夜中よりも明け方が、いちばんひんやりしている。空気がしっとりと露を帯びる。夜が朝に近付いていく。  ダークブルーの空がわずかに白く緩み始めたころ、小近島のほうから漁船のエンジン音が聞こえてきた。その音を合図にしたように、良一が身じろぎした。うっ、と、かすかにうめく。  一瞬、あたしは、びくっとしてしまった。良一の声がひどく男っぽかったせいだ。  良一は、男っぽい感じのままで長い息をつきながら、背中を丸めがちに起き上がった。 「おはよ、結羽」 「うん」 「今、朝五時くらいだろ? あのエンジン音、明日実のとこの船だ。小六のころに、あれに明日実が乗ってるって知って以来、あのエンジン音が聞こえる時間帯には勝手に目が覚めるようになった」  良一は小近島のほうへ、眼鏡の目を向けた。船影は見えない。  同級生の明日実の家は小近島の網の元締めだ。毎朝あんなふうに、定置網とタコツボ、クルマエビの養殖場を見回るのが一日の最初の仕事らしい。明日実は小学四年生のころから、父親の見回りを手伝っている。一つ年下の弟、和弘も一緒に。  そろそろ夜明けだ。夜が、あたしの時間が、終わってしまう。  あたしはギターをケースにしまった。立ち上がろうかと思ったけれど、脚が痺れている。あたしは引っくり返って、腰をそらした。見上げる空は、闇が淡くなって、天の川が朝の光に呑まれかけている。  良一が、いまだに聞き慣れない声で、あたしの名前を呼んだ。 「結羽」  あたしが応えずにいると、良一は再び、結羽と呼んだ。 「何?」 「結羽、あのさ……そういう格好」 「脚が痺れた。腰が疲れた。眠らなくても平気だけど、たまに寝転ばないと、体がきつい」 「そういう無防備な格好、しないでくれる?」 「は?」 「ヤバいんだけど。普通にエロいよ。おれも寝起きで、ちょっと、何ていうか……心身ともに、昼間のちゃんとした状態じゃないから」  怒りが沸いた。気持ち悪いとも思った。 「何くだらないこと言ってんの? 海に蹴落としてやろうか? 泳げば頭冷えるんじゃない?」  あたしは起き上がって、立ち上がった。まだ脚の痺れは消えていなくて、ゆっくりしか歩けない。ギターが重い。  良一は、隣には並ばなかった。数歩ぶん遅れてついて来る。 「結羽、ごめん。失礼なこと言った。ほんと、ごめん」 「うるさい」 「おれ、混乱してるんだよ。久しぶりに島の風景を見て、なつかしくて嬉しいのに、今日、真節小の取り壊しが始まる。結羽と久々に会えたのも嬉しいんだけど、明日にはもうサヨナラだろ? それで……」 「だから何?」 「結羽は、混乱してない?」 「別に」 「何でそんなふうなんだよ?」 「さあ? 感情が壊れてんじゃないの?」 「嘘だ。感情の壊れてる人間に、あんな唄が書けるわけがない。胸の中を掻きむしられるみたいな、すごく響く唄だよ。悲しくて、苦しくて、もどかしくて、いい唄ばっかりだ。でもさ、笑わなくなったよな、結羽は」 「笑わないし、泣かないよ。いつもイライラしてるだけ」 「明るい唄、書いてほしいよ。遺書みたいな、これから消えちゃうんじゃないかって不安になるような唄ばっかりじゃなくて」 「無理。あたしはそういう明るい人間じゃない」  良一は何かを言いかけて、その言葉を呑み込んだ。少し黙って、別のことを訊いてきた。 「結羽、学校行ってる?」 「行ってるよ。公立の進学校」 「寝てないんだろ? 今日みたいに」 「寝なくても生きてられるの。そういう体質」 「いつから?」 「どうでもいいでしょ。高校卒業するっていうのが、親との約束。そこから先は未定。まあ、進学はしないと思うけど」  良一の足音が止まった。あたしは反射的に振り返りそうになって、だけど、前を見て歩いた。良一の声が追いすがってきた。 「真節小のころ、結羽はおれの憧れだったよ。明るくて、ハキハキして、思いやりがあって、誰にも染まらない。カッコよくて強くて、頼れる存在だった」  あたしはひそかに安堵した。小学生のあたしは、ちゃんと、理想とする人物像を演じられていたんだ。 「昔は昔、今は今。あたしは変わったの。いや、こっちが本性だったんだと思う。昔は上手に、いい子のふりをしていられたけどね」 「どうしてそんな投げやりなことばっかり言うんだ?」 「あたしは、会いたくなかった。誰にも」 「おれは、会えてよかったよ」  声だけじゃなく、良一自身があたしに追いすがってきた。良一は、あたしの斜め前まで進み出ると、あたしの顔をのぞき込むように、後ろ向きになって歩いた。 「結羽、何があったんだよ? 中学に入ってから音信不通になって、家に電話かけても出てくれないし、教頭先生にも訊きづらいし、動画のコメントも返してくれないし。でも、こうやって再会できたんだ。話をしたいよ」 「余計なお節介。あたしは何も話したくない」 「……ごめん」  吐き捨てたあたしに、良一はうつむいた。 「傷付きたくないなら、かまわないで。傷付く覚悟もないくせに」 「覚悟、か」 「あんたがいろいろ頑張ってるのは、あたしもネットとか見て知ってる。表現活動そのものだけじゃなくて、愛されキャラって言われてて。でも、そういうやり方、あたしにまで押し付けるな」  良一が顔を上げて、無理やりみたいに笑った。 「おれのこと、見てくれてるんだ? ありがとう」  感謝を習慣にしたい、ありがとうを口癖にしたいと、インタビューで良一は答えていた。無理やりにでも「ありがとう」と言うのは、仕事だ。あたしの前でもそれをやるのか。 「あんただって変わった。昔はもっと純粋だった」  良一は笑顔を上手につくろって、完璧な仮面を作り上げた。 「純粋なだけじゃいられないよ。こうやって笑顔を保つことも、練習しなければ身に付かない。新人とはいえ、おれはプロとして仕事してるんだ」  プロとして仕事。その一言が胸に刺さる。 「あたしも早く自立したい。プロって呼ばれるようになりたい」  高校を卒業するまでに、足がかりだけでも見付けておきたい。 「やっぱりプロのミュージシャンになりたいの?」 「なりたい」 「なれるよ、結羽なら」  低い声が柔らかく響いた。反射的にイラッとした。
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