三.ライトブルーの思い出

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三.ライトブルーの思い出

 小近島に住んでいたころ、母が毎朝、船で大近島に通勤していたように、大近島から小近島へ通勤してくる人もいた。真節小の低学年の先生がそうだったし、郵便局員は全員そうだった。明日実のところの養殖場にも、岡浦から通ってくる人たちがいた。  朝、彼らの出勤に合わせて、岡浦の船着き場から渡海船が出る。この時刻に岡浦からの便に乗るのは初めてだったと、あたしは船の上で気が付いた。  あたしの隣で、良一は、遠ざかっていく岡浦と近付いてくる小近島を撮影している。今日の良一のファッションは、Tシャツとハーフパンツ、スニーカー、頭には中折れハット。全部、白っぽいアースカラーだ。  あたしには、そういう色は似合わない。ふやけた印象にはなってしまう。淡い色っていうのが、どうしても似合わないんだ。柔らかい色のほうが、本当は好きなんだけど。  良一のカメラは、ギターを背負ってフードをかぶったあたしにも向けられる。 「何でこっち映すの?」 「このクールで不機嫌な女の子は、ぼくの同級生のうちの一人です。同級生といっても、ぼくを含めてたった四人しかいません。三人が同じ学年で、一人が一つ年下。ぼくたちの学校は小さかったから、四人で一つの学級でした」  カメラに接続した小さなマイクが、良一の口元にある。吹き込まれるナレーションの一人称が、ぼくになっている。仕事モードらしい。今日一日、良一はずっとカメラを回し続ける予定だ。 「あんたが映ってなきゃ意味ないんじゃない?」 「hoodiekidがRYO-ICHIの動画に映ってるのも、それはそれでおもしろいと思うけど」 「事務所の人からNG出る気がする」 「その心配はありません。だいぶ前から、マネージャーにもhoodiekidが同級生だって話はしてあって、今回も共演して問題ないって言ってもらってる」  あたしは良一に背を向けた。船のエンジン音に掻き消されないように、声を張り上げる。 「だからって、RYO-ICHIの動画に本人が登場しないのは本末転倒でしょ」 「学校探検のときは、誰かに撮影を任せるよ」 「じゃあ、あたしが撮る。映りたくないし」 「映りたくないって、覆面なしで動画配信してる人のせりふとは思えないな」 「歌う動画とこういうタイプのと、全然違うじゃん」 「結羽、ちょっとこっち向いてよ」 「うるさい。カメラ近すぎ」 「近寄らなきゃ、マイクに声を拾えないよ。渡海船のエンジン音は、後で編集して抑えるつもりだけど」  近すぎるってば。こんな距離で撮るのは、たぶんよくない。純真無垢な島育ちの美少年RYO-ICHIのファンからすれば、この近さはあり得ないと思う。これが配信されたら、あたし、RYO-ICHIのファンに刺されるんじゃないだろうか。  いや、そういうことをいちいち心配するのって、うぬぼれかな。女の子らしい女の子ってわけでもないんだし。ハンドルネームだって、最初から「キッド」って呼ばれたんだ。「ガール」じゃなくて。  今日のあたしは、黒いパーカーに白いタンクトップ、ジーンズ地のショーパンっていう格好。こんな感じがあたしの普段着だけど、そういえば、プロである良一の目にはどう映っているんだろう? 「結羽、髪が伸びたよな。染めてる?」 「そんなわけないじゃん。短かったら目立たないけど、地毛が茶髪なの」  伸ばしたいんじゃなくて、髪を切りに行くのがイヤなだけ。伸びすぎないように、自分で適当にハサミを入れているから、肩甲骨に触れるあたりの毛先はギザギザに歪んでいる。  話をするうち、あっという間に、渡海船は小近島の船着き場に到着した。タラップを踏んで、浮桟橋に降り立つ。何艘かの漁船が停泊した船着き場は、さびた鉄と海藻と機械油と腐った木の匂いが、潮の匂いに混じっている。  変わってない。  コンクリートの小箱みたいな待合所。天然の良港といわれる、波の穏やかな湾。ひしゃげたような格好の古い家々。山肌を切り開いた段々畑。わーしわーしと降ってくるセミの声。  海岸線は入り組んだ形で、県道は海岸線沿いにうねうねしている。県道の海側にはコンクリートの防波堤があって、反対側には山が迫っている。  島の裏側の集落へと続く峠道の途中にあるのが、小近島教会と慈愛院だ。山を上らずに海岸線沿いを進んでいくと、あのカーブの向こうにあるのが、真節小学校。  良一が、吐息のように言った。 「なつかしいな」  カメラが、ゆっくりと、小近島の風景を映している。  坂を下りてくる人がいる。自転車に乗って、二人連れで。目を凝らせば、明日実と和弘だと、すぐにわかる。自転車は、前にも後ろにも大きなカゴを付けたもので、明日実と和弘はたびたび、獲れすぎた魚をあのカゴに積んで島の人々に配っていた。  あたしと良一は浮桟橋を離れて、県道に出た。真節小のほうへ歩き始めたとき、自転車の二人があたしと良一に合流した。明日実と和弘は、自転車から飛び降りた。 「うっわー、結羽も良一も、久しぶり! わぁぁ、何か、二人とも大人っぽくなっちょる!」  はしゃぐ明日実の声は、昔のままだ。でも、明日実のほうこそ大人っぽい体つきになっている。  日に焼けた肌と短い髪、大きな目。家の仕事で鍛えられているせいか、もともとの体質なのか、腕も脚も筋肉質だ。それでいて胸もしっかりあって、見るからに弾力がありそうで。野生動物みたいにしなやかな体だ。きれいだなと思った。  一つ年下の和弘が、聞いたことのない低い声で「うっす」と言った。 「結羽ちゃん、良ちゃん、長旅、疲れたろ? 昨日は泊めてやれんで、ごめんね。いとこば泊めるスペースしかなくて。それもギリギリやったけど。ぎゅうぎゅう詰めで雑魚寝したっぞ」  小学生のころは背が低くて、あたしの肩までしかなかった和弘が、あたしと同じくらいの背の高さになっている。いや、たぶん、あたしより少し高い。  今日、八月一日、真節小とのお別れをするのは、あたしたち四人のほかにもいる。小近島内で仕事をしていて、取り壊しが始まる正午に手を空けられる人たち。明日実と和弘のいとこたちのように、この日のために戻ってきた大学生や大人たち。  真節小に向かって、四人で歩き出す。車がほとんど通らない県道を、横並びになって。並び順は、昔と同じ。いちばん右が和弘で、隣に明日実、その隣があたしで、いちばん左が良一。  話の中心になるのも、昔と同じで、明日実だった。 「うちの高校、大近島の公立やけど、課題が多くて大変よ。うちは進学するつもりもなかとに、休みの日でも、補習とか模試とかあるし」  良一は、あたしの頭越しに、自転車を押す明日実と視線を合わせた。 「小近島から通ってるんだ?」 「うん。いとこたちが高校生やったころは、大近島に下宿しちょったけどね。うちは家の手伝いもあるし」 「片道、どれくらいかかるんだっけ? 船で十五分と、バスで三十分くらい?」 「うん。でも、これくらいなら、都会の高校生の電車通学のほうが時間かかるやろ? 良ちゃんだって、仕事場、そんなに近くなかっちゃろうし」 「そう言われると、確かにそうなんだけど、船で通学するっていうのが特殊すぎて、何かすごく大変そうって思ってしまう」 「朝はともかく、帰りの船便が困りものよ。部活ば早めに抜けんば、渡海船に間に合わんと。それでね、団体競技は避けた。うち、岡浦中のときはバレー部やったけん、高校でも続けたかったけど、毎日早退じゃ、みんなに迷惑かけるもんね」 「陸上部って言ってた?」 「そう。うちも和弘も陸上部。二人して、砲丸投げと中距離走の二本立てでやりよっと。うちは砲丸投げのほうが強くて、和弘は中距離かな。今年はちょっとダメやったけど、たぶん、来年は二人そろって県大会に出られるよ」  明日実の向こう側から、和弘がこっちを見ながら、説明を付け加えた。 「今年、予選会の前に、季節外れのインフルエンザに家族じゅうでやられて、本番までに体力が戻らんやった。ねえちゃんは、ほんとやったら、砲丸投げで九州大会も確実っていわれちょったとに」 「仕方なかよ。来年に向けて、この馬鹿力ばパワーアップさせるもん。あ、今日は特別に、部活ば休ませてもらっちょっと」  明日実は、けらけらと明るい声で笑っている。  あたしは信じられない思いだった。活躍の場を失って、次のチャンスが一年後だなんて。しかも、実力不足が原因で負けたわけじゃなくて、ただ運が悪かっただけって、そんなの、あきらめもつかない。  会話はここまでだった。目的地に着いたんだ。海に突き出したカーブを曲がると、真節小が目の前にあった。  胸がギュッとする。  なつかしさと、悲しさと。何かとても大きな感情が、ぶわっと、体じゅうを包んで呑み込んだ。あたしは、ひりひりする透明な痛みの中に落ちていく。  ちんまりとした鉄筋コンクリートの三階建ての校舎は、赤みがかったベージュ色。校舎とL字を作るように建てられた体育館は、とぼけた赤色の屋根をかぶっている。  なつかしくて、だけど足りない。ものすごく足りない。ここにある景色は、記憶の中の真節小とは違う。  何もないんだ。  校庭脇に植えられていた木が、一本もない。鉄棒や登り棒、すべり台も、何もない。サッカーゴールも朝礼台もない。校旗や国旗の掲揚台すらない。  そして、誰もいない。何の気配もない。  明日実があたしと良一のほうを向いて、えくぼのある表情で言った。 「寂しかろ? 学校がちゃんと動きよったころ、この時間帯には、教頭先生が校門のところに立っちょって、おはようございますって言うてくれよったとに」  ポーカーフェイスな父は、あたしが相手でも平然として、朝の挨拶運動をやっていた。書道の授業もだ。父が書道の教科担当だったけど、まったくもって平然としていて、おかげであたしにもポーカーフェイスが身に付いた。  真節小は、海から道を一本隔てただけの場所に建っている。校舎のすぐ裏手は山。地形から推測するに、山を少し切り崩して、海を少し埋め立てて、真節小の敷地を確保したんだと思う。  和弘が淡々と言った。 「校舎ば解体するための重機は、もうすぐ、本土からの特別の船便で到着する。十時に工事開始の予定で、始まったら、何ヶ月もの間、校庭には入れんごとなる。おれ、たまにここで走りよったとけどな」  良一がチラッと腕時計を見た。 「お別れのセレモニーは、九時半に校庭に集合だよね。それまでは、校舎の中を見て回っていい」  明日実と和弘は同時にうなずいた。明日実が口を開く。 「鍵はもう開けてもらっちょっよ。昨日は、うちのいとこたちが校舎探検しよった。うちと和弘も誘われたけど、断ったと。うちらは結羽や良ちゃんが一緒じゃなからんばねって」  校庭に入ってすぐのところで、明日実と和弘は、押していた自転車のスタンドを立てた。良一は、カメラをバッグから取り出した。 「さて、そろそろ撮影開始だな。校舎を探検する間はおれも画面に入りたいから、誰かにカメラをお願いしたいんだけど」  あたしは小さく右手を挙げた。 「さっきも言ったじゃん。あたしが映すってば」  良一は肩をすくめた。 「それじゃ、お願いする。でも、結羽もちょっとは映ってほしいな」  あたしはカメラを受け取った。予想していたより重い。画面は夏の日差しに照らされて、見づらかった。カメラの上に手のひらをかざしてひさしを作って、照準を良一に合わせ、撮影開始のボタンを押す。  ふっと、熱い潮風が吹いた。良一はハットを軽く押さえて、遊具のなくなった校庭を見渡した。 「何もなくなってるんだね」  改めてつぶやいた良一に、明日実が応えた。 「遊具が撤去されたとは、けっこう前やったよ。それからね、木、花壇、温度計、池、うさぎ小屋、鶏小屋……全部、どんどんなくなっていった。学校から帰ってきたら、朝にはあったはずのものが消えちょっと。何か寂しかったな」  話す明日実に、あたしはカメラを向けていた。画面の中に良一が入ってきて、明日実を紹介する。ついでに和弘も引っ張り込んで、紹介する。  画面越しだと、ずいぶん楽だ。良一たちと、平気で目を合わせていられる。  良一と明日実と和弘は、三人並んで、校庭を突っ切っていく。その後ろ姿にカメラを向けながら、少し離れて、あたしが追い掛ける。 「うわ、校庭の砂、全然なくなってるんだな」  スニーカーで地面をつついてみせる良一に、明日実はちょっと笑って応えた。 「ここの砂、もともと海風で飛ばされやすかったたい? 特に冬場とか、季節風で。校庭の端に吹き飛ばされた砂ば集めて、台車で運んで埋め戻したりしよったもんね。良ちゃんも覚えちょっやろ?」 「そうだったね。体育館の掃除も、冬の風物詩だったな。体育館は隙間だらけだったから、冬の季節風が吹き荒れると、フロアじゅうが真っ白に汚れて」 「うんうん。朝、学校に着いたら、授業の前に大掃除ですっち言われて。掃除なんて面倒くさかはずとに、なぜか楽しくてね」 「全校児童、たった七人で、本格的に汚れた体育館の掃除をしてたんだ。体力勝負だったよね。まずはボロのモップで拭いて、それから雑巾できれいにして。雑巾がけで競走してたよな。あのころは、四人の中でおれがいちばん遅かったっけ」 「今はね、砂がどんなに吹き飛ばされても、校庭の埋め戻しばしよらんけん、グラウンド、ととっぱげたままになっちょっと」  明日実の何気ない一言に、良一が噴き出した。 「ととっぱげた、か。なつかしい。すごい久々に聞いた」 「え、標準語やったら、何て言うっけ?」 「はげた、でいいんじゃない?」  和弘が横から口を挟む。 「つるっぱげぐらいのリズム感があるっち思う」  あはは、と声を上げて三人が笑う。あたしはカメラを手に、黙ってついて行く。  サッカーゴールが置かれていた跡には、くぼみが残っていた。鉄棒の跡も登り棒の跡も、ちゃんとわかる。二百メートルトラックの、体育館にいちばん近いコーナーがくぼんでいるのもそのままだ。あのくぼみ、水たまりがなかなか引かなかったんだよね。  でも、やっぱり、地面に横たわったいくつかのくぼみだけだ。残されているものは。  地上にのびのびとあったはずのものたちは、どんなに目を凝らしても、何ひとつ残されていない。土止めに使われていたコンクリートブロックさえなくなっているから、花壇や庭園の形がぐしゃぐしゃになっている。  以前は校庭の隅の温度計の箱のそばにあったはずの、ヤクスギのやっくんとカヤノキのかやちゃんは、もう姿が見えない。明日実が二年生、和弘が一年生のころ、真節小の五十周年を記念して、大木に育つヤクスギとカヤノキを植樹したそうだ。  この場所から未来が消えたんだなって感じた。やっくんとかやちゃんは、大きく大きく伸びていくはずだったのに、ここにあった学校が終わってしまったのと同時に、未来に続くべき歴史を、根っこから抜き取られてしまった。 「体育館から見ようか」  良一の提案で、あたしたちは体育館の玄関を開けた。  体育館は、一面、真っ白に汚れていた。校庭から吹き込んだ砂で、フロアに描かれたラインさえ見えない。土足のまま、体育館に上がる。セミの声が遠ざかる。埃っぽい空気が、むっと、こもっている。  開けっ放しの倉庫には、何も入っていない。 「空っぽやね。どこに持っていったとやろ? どこに何が置いてあったっけ?」  つぶやく明日実に、あたしは答える。 「そっちの壁際にドッジボールやバスケットボールのカゴ。隣に卓球台、反対側にマット、その手前に平均台と跳び箱、いちばん手前にスコアボード」  道具の名前を次々と挙げるあたしに、和弘が呆れた顔をした。 「よう覚えちょっね、結羽ちゃん」 「父が時間あるとき、夕方、ここでバレーボールを教えてくれてた。体育館にはよく来てたから、覚えてる」  良一がバスケットゴールの下で手を伸ばす。ほつれかけたネットが指先に触れている。 「小学校のリング、低いな。ダンクできそう」  明日実がぱちぱちと手を打った。 「できそう! 良ちゃん、やっぱり、めっちゃ背が伸びたね。百八十五やったっけ?」 「うん、公称百八十五。でも最近、身長は測ってないんだよ。着丈とかは測るんだけど」  ステージは、がらんどうだった。校章の入ったビロードの幕がない。集会用の演台もない。ステージ袖にあったはずの、古びたアップライトのピアノもない。  校歌を刻んだ木製のパネルは、ステージに向かって左手の壁に掛けられたままだった。ステージ右手の壁の時計は、三時四十二分を指したまま止まっている。  体育館の地下にある倉庫にも下りてみた。一輪車や竹馬やサッカーボール、石灰のライン引きが置かれてた場所だ。やっぱり何も残されていない。  明日実があたしのほうに笑顔を向けた。 「真節小の一輪車ってさ、松本教頭先生がここに来るまで、適当に転がされちょったと。でも、教頭先生、一輪車のサドルば引っ掛ける台ば作ってくれたやろ? あれのおかげで、一輪車のサドルが歪んだり汚れたりせんごとなった」  和弘が続ける。 「教頭先生、竹馬も作ってくれたろ? 逆上がりの練習用の台も。馬跳びタイヤのペンキも塗り直してくれた。逆上がりのやり方とか、速く走るフォームとか、一輪車のその場乗りとか、竹馬のケンケンとか、縄跳びの三重跳びとか、何でも教えてくれた」  良一も、なつかしそうに目を細めた。 「昼休みと掃除の間に、業間体育っていうのがあったよな。大縄跳びとか練習したけど、全校で七人しかいなくて、先生たちも入ってくれて、やっとまともに成立してた。それでも、8の字跳びは走りっぱなしだったよな」  明日実が、そうそう、と笑う。 「業間でレクリエーションもあった! じゃんけんで負けたら列車につながるやつ。あっという間に勝負がつきよったよね。全校でじゃんけんの列車って、普通、想像できんやろ?」 「ねえちゃん、その全校レク、大近島の八十人くらいの学校でもやりよったらしかよ。八十人やったら、五分くらいで勝負がつくとって」  何でもない話、どうでもいい話が尽きない。業間体育で持久走をやったこと。業間のレクリエーションには、詩の群読や歌のときもあったこと。業間の後の掃除は、人数が少ないのに校舎が大きいから、いろいろどうしようもなかったこと。  体育館を出て、踏み板のなくなった渡り廊下を通って、児童玄関から校舎に入った。埃っぽくて蒸し暑い。児童数よりもはるかに多かった下駄箱は、そのまま残されていた。傘立てもあった。  真節小の廊下は、板張りじゃない。砂や埃で白く覆われた廊下は、くすんだ濃いピンク色をしている。良一はしゃがみ込んで、汚れた床に触れた。 「大理石だよね、これ。梅雨とか台風とかのとき、すごい滑ったよな」  廊下の真ん中には、ペンキで白線が引かれている。昔は、白線の上に点々と、特別教室用の四角い木の椅子を彩色したものが花台として置かれていて、「廊下を走るな、右側を歩け」の標識になっていた。  玄関から入って、右手の奥にあるのが理科室だ。机も椅子も、理科準備室の棚も、何もかもなくなっている。ホルマリン漬けか何かの薬品っぽい匂いは、かすかに残っている気がする。  和弘が顔をしかめた。 「おれ、理科準備室、嫌いやった。ホルマリン漬けの魚とか蛇とか、いろいろ置いてあったろ? あれが、ざまんごて嫌いで」  良一が賛成する。 「おれも苦手だった。理科っていうより、家庭科だよ。この学校、家庭科室がないだろ? なぜか理科室で調理実習してて、調理用具の棚の向かいにホルマリン漬けがあったよな。包丁を取り出して振り返ったら、瓶の中の魚と目が合って、怖かった」  このへんだったっけ? と、良一がいい加減な場所に立つ。あたしはカメラを持ったまま、奥のほうを指差した。 「そこじゃない。あと三歩くらい奥。そのへんに置いてあったのは、リトマス試験紙とか、ヨウ素液とか」 「え、結羽、そこまで覚えてるの?」 「在庫のチェック、したことあるの。理科の実験用具はボロすぎて、目も当てられなかった」 「まあ、確かに。理科の実験はビデオを観るのが多かったな。実際に手を動かしてみたかったけど、そんなに使い物にならなかったんだ?」 「リトマス試験紙は湿気てて反応しないし、ヨウ素液も変質してダメだったし、アルコールランプは中身が蒸発してたし、ビーカーは目盛が消えてたし、ピペットはゴムが破れてたし。でも、もうすぐ閉校する学校が新しいのを買えるわけもないでしょ?」  明日実が笑って反論した。 「でも、生物の実習は、よその小学校よりちゃんとしちょったよ。花壇で野菜ば育ててカレー会ばやったり、近所のばあちゃんちの芋畑ば手伝ったりもした」  ああ、と良一がうなずいた。 「学校でも畑仕事をしたし、教会の花壇や畑もいじった。植物って、かわいいんだよな。台風のときは、無事でいてくれって、必死で祈ったよね」 「うち、てるてる坊主もよく作りよったよ。なつかしか」  理科室を出て、児童玄関の前を過ぎると、空き教室を贅沢に使った生活科室がある。その向かい側の屋外には、給食室と名付けられた小屋が、まだ当時のままで残されていた。 「給食室、あったなー。おれ、実はあの給食のせいで、いまだにパンが苦手なんだよ」 「良一も? あたしも和弘も同じさね。結羽は?」 「パン、食べない」  給食とは名ばかりのそれは、大近島から届けられるパンと牛乳だった。あたしたちは、おかずだけの弁当を学校に持っていっていた。牛乳はともかく、パンはちょっと、ハッキリ言って、おいしくなかった。当時は文句も言わず、残さず食べていたけれど。  良一が気を取り直すように言った。 「でも、火曜日は少し楽しみだった。牛乳に入れるパウダーが付いてたろ?」  あったあった、と明日実がうなずく。 「ココアパウダーとコーヒーパウダーが、週替わりで交代に付いてきよったね。牛乳パックば開けて、粉ば入れて、ストローで掻き混ぜて飲むやつ」  和弘が顔をしかめた。 「でも、あの粉、あんまし牛乳に溶けんかった」 「和弘はよく、袋を開けるのに失敗して、粉をぶちまけてた」 「良ちゃん、変なこと覚えちょっとやな。意地悪ぞ」 「ごめんごめん。火曜がパウダーの日だったのは覚えてるんだ。別の日は、何かジャムが付いてた気がする」  給食のメニューを、三人は「うーん」とうなりながら思い出そうとする。あたしは全部、覚えている。 「月曜がたまごパン、火曜が黒砂糖パン、水曜が食パン、木曜がはちみつパン、金曜がコッペパンで、たまにパインパン。火曜は牛乳のパウダーが付いてて、水曜はジャムが付いてた」  ほー、と、三人とも同時にフクロウみたいな声を上げた。良一はあたしのほうをまっすぐ向いて、つまり真正面からのカメラ目線で、あたしに言った。 「結羽、さっきから感じてたんだけど、記憶力いいな」 「給食のパンや牛乳が余る日は、父が持って帰ってきてた。そういうのもあって、覚えてるだけ」 「それでもだよ。おれだって、真節小のころの暮らしはものすごく印象深くて、毎日毎日、できるだけたくさん覚えておこうって日記もつけてたんだけど」 「三行日記でしょ。宿題っていう名前の課題が出ない代わりに、毎日やる約束になってたもののうちの一つ。漢字の書き取りを一ページと、算数のドリルを一ページと、十五分以上の読書と、三行日記」 「それだ。おれは三行で満足してたんだけど、結羽はときどき、ものすごい長文を書いてたよな。どうやったらそんなに書けるのか、不思議でたまらなかったんだけど、今わかったよ。見てる場所が違う。見ようとするものの深さが違う」 「別に。あたしにとっては、これが普通だから」  見え過ぎる目なんて、ないほうが楽だったんじゃないか。そう気付いてしまったら、自分という生き物へのうとましさが、いっそう増した。自分で自分の首を絞めてばかりだ。そんな自分が面倒くさくて、嫌いだ、嫌いだ、嫌いだ。  廊下を歩いていく。生活科室の隣が図書室、その隣には会議室。そこにあったはずの机も椅子もカーテンもなくなって、窓ガラスは白く汚れてくすんでいる。天井にクモの巣が張っている。  職員玄関に置かれていた水槽は、もちろんもうない。キラキラ輝くメダカが飼われていたけれど、あの子たちはどこに行ったんだろう?  小学生用のトイレをのぞいて、サイズが小さいことに驚いた。それから、その隣の大人用のトイレをのぞく。和弘がニヤッとした。 「職員トイレ、初めて入る」  良一と明日実も、ただのトイレなのに、妙に楽しそうにニマニマ笑って、職員トイレの中に入った。掃除用具入れは空っぽで、水のない便器がひび割れている。  これ、撮影しちゃっていいのかな? まあ、編集する人がいるっていう話だったから、あたしが気にすることでもないか。  トイレというものにおもしろセンサーを反応させる小学生みたいな良一にカメラを向けながら、あたしは言った。 「あたし、夏休みに、職員トイレの掃除したことあるよ。使わせてもらったついでに」  明日実が目を丸くした。 「わざわざ職員トイレば使ったと? 何で普通のトイレ使わんやったと?」 「だって……トイレっていう場所、苦手だったし。真節小にはなぜか学校の怪談がなかったけど、前の学校では、トイレは怪談の宝庫だった」  昔はそういうのが苦手だった。ほかにも、理科室に近いほうの階段は、二階と三階の間の階段が十一段と十三段に分かれていて、十三階段にならないようにいつも一段ぶん飛ばして歩いていた。  和弘が含み笑いをした。 「結羽ちゃんがそげんこと言うっち想像しちょらんやった。かわいかところ、あるやんな」 「年下のくせに生意気」 「小学校時代の一歳差とか、ノーカウントやろ。生まれ年でいったら、同い年やし」 「カウントし直せ、バカ」  トイレを後にすると、その先は、子どもがあまり立ち入らなかったエリアだ。職員室があって、その奥に校長室があって、向かい側には保健室と放送室がある。  普段の学校生活では、何度そこに入る機会があっただろう? でも、ほかの子どもがいない場面で、あたしはよくそこに出入りしていた。遅くまで一人で職員室に残っている父に届け物をしたり、ときには母に言われて、父を迎えに行ったりしたんだ。  職員室と校長室と保健室だけ、冬には灯油ストーブが置かれていた。ストーブの上には、古めかしい大きなやかんが乗っかっていた。職員室は、そのお湯で淹れるお茶の匂いがほのかにしていた。  大人が使う部屋にはストーブがあって、ほかの教室は暖房器具なんてなかった。それでも過ごせる程度には、島の冬は暖かかった。  空っぽの校長室をのぞき込んで、良一がポツリとこぼした。 「初めて小近島に来た日に、あれは四月の半ばだったけど、おれ、この校長室で泣いたんだ。転校するたびに痛い目にあってきたし、慈愛院での生活がどうなるのか不安だったし。校長先生に、頑張れよって言われた瞬間、涙が出てきたんだよね」  良一が特殊な家庭事情を抱えていたことは知っている。具体的に何があったのかはわからない。良一が話さない以上、こっちから聞いちゃいけないことだと、あたしたちも子どもながらに理解していた。  あたしより半月遅れで真節小にやって来た良一は、汗ばむくらいに暖かい日だったにもかかわらず、寒くてたまらないかのように震えていた。「仲よくしましょう」という校長先生の言葉は、形式なんかじゃなく、もっと切々としていた。  良一は振り返って淡く微笑んだ。 「校長先生は、おれが泣き止むまで待ってくれた。頭や肩に、ぽんぽんって、手を載せてくれたりしてね。その手のひらが本当に優しくて、何を言ってもらったのかは覚えてないんだけど、受け入れてもらってるって感じたのはよく覚えてる。嬉しかった」  たぶん、そのときの良一は、初めは校長先生の手のひらにおびえただろう。良一にはあまり自覚がないようだったけれど、何気なく触れようとすると、良一のやせっぽちの体はビクッとこわばった。  夏が近付いて、みんな、だんだん日焼けしていった。気温が上がっていくのにつられるみたいに、良一は震えなくなった。手のひらにビクビクしなくなった。そして、秋になって少しずつ肌寒くなっても、良一の温度は高いままだった。  校長室を出て、廊下と同じ大理石の階段を上る。  職員室側のこの階段は、父のトレーニングスペースだった。運動好きの父は、先生方が帰った後に校庭で走っていたけれど、雨の日には階段を走って上り下りして、運動不足を解消していた。  廊下や階段を走ってはいけませんって、先生は言うものなのにね。父は、放課後になったら、自分からそれを破って走っていた。そのことを「変だよ」って言ったら、笑ってごまかしていた。あたしも一緒に笑った。  二階に上がったところに、資料室という名の空き教室が二つ、郷土資料室が一つある。もともとは、ここも子どもたちが通ってくるための教室だったはずだ。それは何年、何十年前のことだったのか、大人たちでさえ覚えていなかった。  資料室のうち一つには、卓球のラケットとボールが置いてあった。ラケットは、ラバーがすっかりはげているのも多かった。休日、両親と卓球をすることもあって、ここに用具を取りに来た。薄暗い資料室に入るときはゾクゾクしたものだ。  空き教室群のところを離れて、低学年の教室の前を通る。四十人が入れる教室に三つだけ机が並ぶ光景は、もうない。黄ばんだカーテンも掛けられていない。朝の会で奏でられていたオルガンもない。教室の角の高い場所に設置されていた古いテレビも。  階段の脇をかすめて過ぎて、理科室の真上は図工室だ。熱がこもった部屋を、良一が見渡す。 「特別教室って広いよな。ここをおれたちだけで使ってたんだ。描きかけの絵や作りかけの作品も、ほかのクラスに気兼ねする必要がないから、図工室に置きっぱなしにしてたよな」  良一は、広い広いと歌うように言って、腕を広げて、クルリクルリと回ってみせた。その瞬間、古い図工室がステージに化けた。視線が、ハッと、良一へ惹き付けられる。  舞っているように見えた。ごく何気ない、ただクルリと回ってみせるだけの動作が、あまりにも美しくて。  埃がうっすらと、幾重もの幕を引いている。そこに差し込む夏の光が、直線から成る幾何学模様を描いている。偶然が生み出したその舞台装置の真ん中で、良一は、翼を広げるように腕を広げて、静かに微笑んで、舞っている。  見えない翼を、あたしだけじゃなく、明日実も感じたみたいだ。 「模造紙ばつなげて、全身の形ばなぞり書きして、そればベースにして自分の理想の姿ば描くっていう授業が、五年生のとき、あったね。良ちゃんは、自分の背中に翼ば描いた。あの絵、よく覚えちょっと。良ちゃん、きれいやなって」 「空、飛んでみたかったんだ。死んだら天使になるとか、そういうんじゃなくて、ただ純粋に、自由に空を飛ぶための翼がほしかった。今は、あのころ憧れてた飛び方っていうものが、少しわかったよ」 「飛び方がわかった?」  良一は両腕を広げてゆったりと羽ばたく。 「イマジネーション。空想して、表現する。自分の中にあるものを、ほかの誰かにも見える形にする。モデルの仕事をいただいて、表現活動の世界の片隅にいられるようになって。そしたら、あ、今、おれ飛んでるなって思える瞬間に、ときどき出会えるんだ」  今、飛んでる。  わかるよ。自分が飛ぶ瞬間も、良一が確かに今、飛んでいるということも。だって、あたしも飛びたいし、ときどき飛べるし、ずっと飛んでいたいと望んでいるから。  良一は、両腕に託したイマジネーションの翼をたたんだ。すたすたと、そっけなく歩いて、こっちの世界に戻ってくる。 「次、行こっか」  軽く汗を拭いながら良一が言った瞬間、図工室は、ただの古ぼけた空っぽの部屋になった。  図工室を出て、十一段と十三段の階段を上る。あたしはやっぱり、十三階段を避けてしまった。それを目撃した和弘がニヤッとする。 「学校の怪談」 「うるさい」
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