五.マリンブルーの未来図

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五.マリンブルーの未来図

 真節小の校門のところに、二つの看板が設置されていた。立ち入り禁止と大きく書かれた看板と、工事の内容を説明する看板と。  校門とはいっても、門柱が両側に立っているだけだ。門が閉ざされることもなければ、学校の敷地を囲う塀も何もない。さえぎるものが本当にないから、校庭から飛び出したボールが道を越えて、海へと転げていったことが何度もあった。  あたしたちが校門の外に出ると、工事の作業服の男の人たちが、「ごめんね」と言いながら、低いバリケードを作った。長い間ずっと開きっぱなしだった真節小の門が、今、初めて閉ざされた。  明日実と和弘は自転車を回収して、大人たちがたまっているほうへ歩き出した。校舎の裏手の、アスファルトが道幅よりも広くなった場所。そこはもともと、先生方が使う駐車場だった。  駐車場の向こうに、かつてあたしが両親と一緒に住んでいた教員住宅がある。見るともなしに、教員住宅のほうを見ていたら、まだ涙声の明日実が、気を利かせて説明してくれた。 「結羽たちが引っ越した後、半年くらいしたころに、移住者が来てあの家に住み始めたと。何かね、芸術家の人らしくて、月の半分は留守にしちょっけど」 「移住者?」 「うん。最近、島に移住してくる人、けっこうおるとよ。新しく仕事ば始めたり、農業ば手伝ったり。小近島にはまだあんまりおらんけど、漁業がやりたか人がおったら、うちに来てもらえたらな」 「そういう移住って、どんな人が? 都会から来るの?」 「都会っていうか、このへんよりいなかの場所って、なかやろ?」 「確かに」 「いろんな年代の人が来よっけど、三十代の人がいちばん多かったっちゃなかかな。実はね、うちの仕事にも、ときどき、見学の人が来ると。そういうとき、うちが案内するとよ。女の子にもできる仕事やけんっていうアピールでね」  うちは特別製の怪力ガールやけどね、と、明日実はおどけてみせた。泣き腫らした目元は真っ赤だ。  顔見知りの大人たちと挨拶を交わした。みんな口数が少なくて、力なく笑ったり、うつむいたりして、それぞれの家や職場のほうへ去っていった。  ちょうど、人々が解散してしまうタイミングで、明日実と和弘のおかあさんが軽トラを運転して、昼ごはんを届けに来てくれた。水筒に入ったお茶と、おにぎりと、魚の焼いたのと、切ったスイカだ。 「久しぶりね、結羽ちゃん、良ちゃん。元気しちょったね。ねえ、また今度、ゆっくりおいで。次んときは、うちに泊まってよかけんね」  マイペースにまくし立てて、明日実と和弘のおかあさんは、家のほうに戻っていった。話が手短だったのは、あたしの母とSNSでのやり取りが続いていて、あたしと直接話すこともないせいだろうか。  明日実があたしたちの顔を見ながら言った。 「これからどうしよっか。船、五時やもんね。だいぶ時間がある。とりあえず、お昼、どこで食べる?」  良一が答えた。 「あの防波堤のほうに行こうよ」  異議なし。  あたしたちは昼ごはんを持って、船着き場とは逆のほうを目指して、海際の道を歩いた。明日実と和弘は、カゴにいろんな道具の積まれた自転車を押している。並び順は、いつもと同じ。  海に突き出したコンクリートの防波堤では、小学生のころ、釣りをしたり泳いだりして、よく遊んだ。遊びの合間に、今日みたいに昼ごはんを届けてもらって、みんなで分け合って食べたりもした。  歩きながら、良一がつぶやいた。 「防波堤、こんなに近かったっけ? 昔は、もっともっと広い世界を四人で占領してるような気分だったんだけどな」  ギターと自転車は、防波堤のそばの、山の影に入り込んだバス停に置いた。小近島のバスはワゴン車みたいなサイズで、朝昼夕の三便、走っている。車を持っていないお年寄りが、船着き場や教会の行き来に使うんだ。  日差しを浴びっぱなしの全身がひりひりする。日に焼けた肌が赤くなりかけている。明日実や和弘みたいにきれいな日焼けができる体質ならいいのに、あたしの肌は、太陽に照らされると、すぐやけどみたいになってしまうタイプだ。  防波堤に立つ。ほんの数メートルの違いなのに、道路の真ん中よりもずっと、ハッキリと涼しく、潮風に包まれる。  温まったコンクリートの上に座って昼ごはんを広げた。良一と明日実と和弘は、両手の指を組んで目を閉じて、祈りの言葉をつぶやいた。  小近島にはクリスチャンが多い。現代ではカトリックだけど、もとは隠れキリシタンだったらしい。小近島だけじゃなく、周囲の島々でも、地形が特に険しい集落には、江戸時代に迫害から逃れてきた隠れキリシタンの末裔が住んでいる。  良一は抜かりなく、昼ごはんをスマホのカメラで撮影した。明日実が「撮ってあげる」と言って良一からスマホを受け取って、おにぎりと焼き魚のラップをはがして今から噛み付くぞ、っていうところを撮った。口いっぱいにごはんを頬張った笑顔も。 「あ、これ、かなりいい写真。明日実、ありがとう」 「どういたしまして。良ちゃんって、ざまんごて、おいしそうに食べるよね」 「だって、マジでおいしいし」 「ね。島におったら、シンプルな料理ばっかりけど、うちも、全然飽きらん。いつも、あーおなか減ったー、あーおいしかーって」 「幸せなことだよ、それ。毎日食べられるのも、おなかが減るのも、おいしいって感じられるのも」  笑みを含んでサラッとした良一の言葉に、あたしは体が固まった。毎日の食事がおいしくない。あたしは今、幸せじゃないんだ。  ざくりと、良一の言葉に胸をえぐられて、それから、思い上がりだったと気付く。  良一は自分のことを語ったんだ。幼いころ、毎日の食事に不安を覚えるような生活だったことを。  十歳で小近島に来て、初めて食べ物をおいしいと感じたと、良一は五年生のころに作文に書いた。秋、学校行事で芋の収穫をして料理をして、みんなで食べたときの作文だ。良一のあの作文に大人たちが涙していたのを、あたしは覚えている。  おにぎりと魚を食べて、お茶をときどき飲んで、最後にスイカを食べて。そうしながら、良一は食べ物や景色をスマホで撮った。素早く明日実がサポートに入る。どこからともなくタオルを取り出して、良一のお手拭きにしたり、撮影を代わってあげたり。  明日実は良一のサポートだけじゃなく、あたしや和弘のほうもちゃんと見ていた。お茶を入れてスイカを出して、何だかんだと動き続けている。動くことが楽しいみたいに、ニコニコしながら。  あたしは思わず言った。 「よく働くね」 「うち? そうかな?」 「あたしはそんなに気が回らない」 「こういう役割は、得意な人、負担に感じん人がやればよかと思うよ。うちはけっこう、マネージャーんごた仕事、好きやもん。結羽は、マネージャーが付く側の、ステージの上の人たい」  急に核心に切り込んでこられて、あたしは息を呑んだ。ステージの上。その響きを噛み締めて、詰まった息を吐き出す。 「まだ、あたしは何者でもない」  明日実はかぶりを振った。 「結羽、手ば見せて」 「手? 何で?」  あたしはためらいながら、差し出された明日実の右手の上に、自分の左手を載せた。明日実の汗ばんだ小さな手は柔らかい。ぬくもりに刺されて、あたしは体がこわばる。手がビクリと震えそうになるのを、どうにか抑え込む。  明日実の指が、あたしの指先に触れた。 「ギターば弾くけん、皮が硬くなっちょっとでしょ。初めてギターにさわった小学生のころは、指先が痛そうに赤くなりよったよね」 「手、冬場はけっこう荒れるよ。ギターのネックでこすれるところとか」 「じゃあ、ハンドクリームって、使う? 今、学校の総合的な学習で、オリジナルの特産品ば考えようっていうとがあって、ツバキ油のスキンケアグッズはどうやろかって。もし試作品ができたら、結羽に送ってもよか?」  あたしが答えるより先に、良一が身を乗り出してきた。 「ツバキ油のスキンケアグッズか。それはおれも興味がある。なつかしいな、ツバキ油。山のヤブツバキの実を採ってきて、一からツバキ油を作るっていう授業、あったよな。教頭先生が作り方を知っててさ」 「そう、うちが今、学校で提案しよるツバキ油も、自分で精製できるけん、やろうって言えると。買ったら、ざまん高かもん」 「商品化できるなら、それこそ、高く売れるからいいんじゃないかな。おれも使ってみたい」 「よかよ。送るね。試作品の完成は、秋ごろになると思う。結羽も、送ってよか?」 「う、うん」  あたしは手を引っ込めた。良一は、肌荒れなんか無縁そうな頬のあたりを、するっと撫でた。 「でも、明日実たち、すごいな。授業で特産品を考えたりするんだ。商業科とかじゃなくて、普通科だよな?」 「普通科けど、島やけん、特別。和弘たちは、先輩がやりよったプロジェクトの引き継ぎで、ドローンば島の産業に使えんかなって、考えよる。ね?」  話を振られた和弘は、皮だけになったスイカをポイとビニール袋に放り込んだ。しかめっ面だ。 「例えば、畑や田んぼで作物がちゃんと育ちよるか、ドローンば使えば、人が見に行くより早かやろ。そんな感じ。あとは、海に流れ着くゴミのチェックとか。ドローンプロジェクトば始めた先輩たちがすごすぎて、プレッシャー、すごかっぞ」  明日実や和弘の視線につかまる前に、あたしは海のほうを向いた。じくじくと、胸の奥にイヤな感情が湧いてくる。どうせあたしは、と思う。フツーに学校生活を楽しむことすらできない、落ちこぼれみたいなものなんだから。  明日実があたしの名を呼んだ。 「ねえ、結羽。hoodiekidって、動画、上げるだけ? オーディションとか、受けんと?」 「受けるよ。楽器店が主催するやつ。来週、県予選があって、次が地方予選。九月半ばに全国大会がある。去年は地方予選まで行けたから、今年は支店での予選が免除で、いきなり県のに出られるの。今年は絶対、全国に行きたい」  参加資格が二十歳未満のオーディションだ。インディーズで活躍する大人を相手にする大会より、ずっとチャンスが大きい。全国大会で賞を獲ったり注目を集めたりして、スポンサーが付けば、メジャーデビューが約束される。  あたしはチャンスをつかみたい。デビューして胸を張りたい。自信を持って名乗れる自分になりたい。自立して生きていきたい。両親にとっての厄介者じゃなくなりたい。ほら、生きていてよかったじゃないかって、死にたかった自分に言いたい。  良一が急に言った。 「結羽、そのまま。海のほう見てて」  その瞬間、スマホのカメラのシャッター音。 「何? 何で撮るの?」 「いや、すごくいい表情だったし、いい絵だなと思ったし。ほら、見てよ。キマってる。このままCDのジャケットになりそう」  あたしは、スマホの画面を見せようとする良一から、体ごとそっぽを向いた。 「撮られるのは好きじゃないんだけど」 「慣れときなよ。何なら、撮られるコツ、いくつか教えるよ」 「撮られる立場になることも決まってないのに、余計なとこに気を回さなくていい」  良一は笑った。 「素直じゃないな。まあ、結羽は普通に絵になるから、自然体でもいいけどね」  あたしは横目で良一をにらんだ。 「からかわないで。あんたは仕事柄、カメラがそばにあっても気にならないんだろうけど、あたしは違うんだから。校舎の探検のときだって」  ふと、良一は表情を引き締めた。声のトーンもまじめそうに低く落ち着く。 「勝手に撮影を押し通したのは、確かに、よくなかった。でも、結羽だって記録は残すつもりだっただろ。動画、おれたちだけの保存用とおれのチャンネルで配信するバージョンと、二つ用意するから、勝手にカメラを回し続けたこと、許してくれないか?」 「許すとか、別に」 「ずっと怒ってるっていうか、機嫌悪いよな、結羽。おれが何か気に障ることしてる?」  自分の中に台風を飼っているような気分だ。良一に近付くと、台風がぐるぐる、激しく暴れ出すのを感じる。 「あたしがイライラするときは、人の行動の理由や意味がわからないとき。真節小の取り壊しのことを動画で流して、何になるの? あんたが主人公のストーリーに欠かせない絵だから撮ったの?」  良一は即答しなかった。逆に、あたしに訊いた。 「結羽だって、自分が主人公のストーリーを生きてるだろ? 自分にしか表現できないものを探して、表現するための手段や場所を勝ち取ろうとして、生きてる。自分の世界を、自分が中心に立って回してるんじゃなきゃ、こういう生き方はできないだろ?」 「そうかもしれない」 「真節小のことを、結羽はきっと唄にする。それは、おれがあの校舎の中で動画や写真を撮ることと、そんなに違いがあることかな?」  表現する方法が違うだけで、表現したいものはあたしと良一で同じだと、良一は言いたいんだろうか。  和弘が言葉を挟んだ。 「おれは、最後の学校探検、良ちゃんが記録に残してくれて、嬉しかったよ。全国、全世界に、真節小の姿ば見せてやってほしか。真節小が良ちゃんの母校やったおかげで、取り壊されても、ずっと映像が残ってくれるなら、おれは嬉しかよ」  良一が、まじめなトーンの声を少し震わせた。 「でも、和弘、おれはきれいごとを言ってみせてるけど、結局これは、おれの売名行為だよ。真節小っていう、大きなストーリーを持った存在を、おれのストーリーを語るために利用しようとしてる。本当にこれでいい?」  明日実が笑顔でサムズアップした。 「全然、大丈夫。良ちゃん、そげん言い方せんで、もっと胸ば張って! うちら、小近島のみんなは、良ちゃんのこと、応援しちょっとやもん。協力できることは何でもする。きっと真節小もね、卒業生の応援ができて、喜んじょっと思うよ」  見開かれた良一の目から、あっけなく、涙がこぼれた。良一は、つばが邪魔になるのかハットを外して、手の甲を目元に押し当てた。 「きれいごとばっかり言うみたいだけど、恩返しがしたいって思ってた。小近島にも、真節小にも。この大好きな場所のために何かしたいって思うんだよ。おれは、小近島で出会ったすべてのものに感謝してるから」  良一が静かな涙を流すのを、明日実と和弘が両側からトントン背中を叩いてやって、見守っている。  あたしは、いつの間にか良一の手から放り出されていたスマホを拾った。あたしのスマホと同じ機種だ。ロックを解除しなくても、カメラを起動させられる。あたしは黙って写真を撮った。シャッター音に気付いた良一が顔を上げた。 「結羽……」 「撮るんでしょ。全部。あんたが主人公のストーリーを物語るための、この島にある全部」  良一が、涙に濡れた頬で笑った。 「ありがとう」  あたしはまたシャッターを切った。良一の泣き顔は美しかった。  ちょっとして、良一が落ち着いて、スイカの最後の一切れを誰が取るか、じゃんけんをした。あたしは特にほしいとも思っていなかったけれど、流れで、何となく加わった。結果は、和弘の勝ち。  明日実は自分のスマホを取り出して、和弘がスイカにかじり付く様子を撮った。和弘が文句を言うのにも耳を貸さず、その写真をメッセージ付きで誰かに送ったらしい。すぐに返信が来るのが、スマホのバイブレーションでわかる。  あっという間にスイカを平らげた和弘は、伸び上がって明日実のスマホをのぞいて、大きなため息をついた。 「ねえちゃん、才津先輩に写真送るなら、自分のやつば送れっち」 「よかやろ」 「全然よくなか。ねえちゃんが才津先輩に送りよる写真、別んとこに共有されよっとぞ」 「知っちょっよ。アキくんのいとこのサワちゃんが、和弘の写真、保存しちょっとでしょ」 「わかっちょっくせに、おれの写真送りよっと? やめろよ」 「何で? サワちゃん、いい子よ。まじめやし」  和弘はもう一度、盛大にため息をついた。 「余計なお節介すぎる」  明日実は和弘の抗議なんか耳に入っていない様子で、お気楽そうに肩をすくめて、あたしと良一に説明した。 「このスイカ、うちの彼氏がくれたと。アキくんっていって、家が農家でね、いろいろおすそ分けしてくれると。その代わり、うちは魚ば持っていったりしてね」  サラッとした口ぶりだった。でも、あたしは、何ともいえないショックを受けてしまって、リアクションできない。良一も、何か間抜けな声を漏らしたところを見ると、同じような印象をいだいたみたいだけど、あたしよりはまともに動けた。 「そっか。彼氏。付き合ってること、家族公認なんだ?」 「まあね。うちは同じ高校に和弘がおるし、アキくんもいとこたちがおるけん、隠しても、どこからかバレるもん。でね、アキくんのいとこで、和弘と同学年のサワちゃんが、和弘のこと好いちょっと」 「そっか」 「うちは普通の高校生やけん、付き合っちょっ人がおるかおらんか、それが生活とか人生とかの中でいちばん大きか問題さ。良ちゃんや結羽には、きっと想像できんよね。モデルとか唄とか、普通の高校生よりずっと刺激のあること、しよっちゃもん」 「そっか」  良一の口からは「そっか」ばっかりが出てくる。どう応えればいいか、良一もやっぱり戸惑っている。  たぶんだけど、良一の考えていることが、あたしにはわかる気がする。小学生のころ、明日実は良一のことを好きだった。あたしも良一自身も感じ取れるくらいに、明日実の気持ちはハッキリしていた。  だから、明日実が良一の前で何のためらいもなく今の彼氏の話を始めたことに、あたしは驚いた。良一の驚きも、同じ種類のものだと思う。和弘が気まずそうに黙ってしまった理由も、きっと同じ。  あたしのほうがおかしいんだろう。  フツーだったら、嬉々として、あたしの今カレはねって、明日実と一緒に恋バナに興じるものだ。小学校のころなんて、ずっと昔のできごと。中学で彼氏ができなかったなんて言ったら、ヤバすぎとかって、ウケたりして。  そんなふうにできればよかったのかな。でも、フツーのふりをしようとしても、すぐにボロが出る。  だいたい、ここにいる三人とも、あたしと実際に会って話すまでもなく、知っていたんだろうし。あたしがフツーの世界からこぼれ落ちてしまったことを。  遠くで防災無線のスピーカーが音楽を流し始めた。正午を告げる「エーデルワイス」が山々に反響する。  防波堤の上では、聞こえる音量は小さいし、音割れしている。初めて聴く人は、これが「エーデルワイス」だと気付かないだろう。  良一は青空を仰いで、そこに唄の姿があるかのように微笑んだ。 「この音、この曲、なつかしいな」  和弘が、ひょいと立ち上がった。 「なあ、良ちゃん。時間はたっぷりあるし、泳がん?」 「え、泳いでいいの?」  泳ぐというのは、海水浴をするという意味じゃない。潜って獲物を採ることだ。小近島の夏を経験して以来、あたしは海水浴という言葉の意味がわからなくなってしまった。それくらい、小近島の海で泳ぐことは、楽しくて刺激的だった。  和弘は昼ごはんのゴミをまとめながら言った。 「泳いでよかっち、とうさんの許可、もらってきた。潮は微妙やけど、獲物がおらんことはなかやろ。このへん、一昨年から泳いじょらんけん、サザエやミナが採れるっち思う」  陸上の土地と同じように、陸寄りの海にも管理者がいる。管理者の許可なしには、泳いで貝や海藻を採ってはならない。このあたりの瀬の管理者は、明日実と和弘のおとうさんだ。  良一は顔を輝かせた。 「泳ぎたい!」 「そうくると思った。道具、自転車に積んできちょっけん、取ってこよう。着替えるなら、おれの体操服あるけど」 「いや、今日の服は、このままで大丈夫。こういうこともあろうかと思って、いくらでも替えのきくリーズナブルな値段のやつ、着てきたから」 「よし、じゃあ、良ちゃんが普段着のままで海に飛び込むとこ、動画で撮ってやるけん。これが島での普通やった、水着なんか誰も着らんぞって」 「それ、最高!」  良一と和弘は防波堤を駆けていく。明日実も二人を追い掛けた。  あたしは波間を見下ろした。朝よりもずっと潮が引いている。防波堤から海面までの高さは、三メートルほど。最大限に潮が引いているときでも、海底までの深さは十分にあるから、あたしたちが海に入るときはいつも、階段を使わず、飛び込んでいた。  和弘がさっき、潮があまりよくないと言っていたから、まだもう少し、引き潮が続くんだろう。サザエ採りをするなら、干潮から少しずつ満ち始めるころがいちばんいい。  わーわー大声を上げながら、三人がいろんな道具を手に、戻ってくる。水中眼鏡と足ヒレと、獲物を入れる網が二つと、網を引っ掛けるためのウキが二つ。  良一はハットを自転車のカゴに置いてきたらしい。和弘は無造作に、ウキを海に投げ込んだ。  明日実が当然のように、あたしに水中眼鏡を掲げてみせた。 「結羽も泳ぐやろ?」 「は? あたしも?」 「サザエ、今日の晩ごはんのために、採っていったらよか。それに、泳いだらスッキリするたい」 「遠慮しとく」 「本土に住んじょったら、めったに泳ぐチャンスもなかろ? 泳ごうよ」 「やだ」  良一と和弘は素早かった。スマホや財布をポケットから出して、良一のバッグに放り込む。二人とも、腰の紐をキュッと締めるタイプの、ベルトなしで位置を固定できる綿パンを履いていた。泳ぐこと前提のチョイスだったというわけ。  靴とソックスを脱ぎ捨てた良一は、軽くアキレス腱を伸ばして、膝の屈伸運動をして、和弘を振り返った。和弘はカメラを構えている。 「OK、良ちゃん。飛び込んでよかよ」 「じゃあ、行ってきまーす!」  良一は、はだしに触れるコンクリートの温度に「あちぃ!」と笑いながら、軽く助走をつけて、思いっ切り跳んだ。  明るい笑い声が空中に尾を引く。良一は、青空を背景にした光の中から、きらめく水しぶきを上げて、海の中へと飛び込んだ。  ほんの一秒、二秒で、良一は海面に顔を出した。 「けっこう冷てー! 気持ちいい!」  良一は立ち泳ぎをして、防波堤の階段のほうを目指した。いったん上がってくるつもりらしい。階段には、フジツボやカキの殻がびっしりくっついている。はだしでは危ないから、明日実が足ヒレを一組、良一のそばに落としてやった。  明日実はクスクス笑った。 「良ちゃん、楽しそうやね。ねえ、結羽?」 「そうだね」 「結羽も泳ごうって。楽しかよ」 「あたしは楽しくなくていいの」 「えーっ」  明日実は、自分のポケットの中に何も入っていないのを確認して、スマホの入ったバッグの口を丁寧に閉じた。明日実のバッグは、良一のバッグのそばに置かれる。  あたしは、まだ何か言いたそうな明日実から顔を背けた。それが失敗だった。目を離しちゃいけなかった。  明日実はいきなり、後ろからあたしに抱き付いた。 「えいっ、つかまえた!」 「ちょ、な……っ!」  明日実の柔らかい体温に、あたしは息が止まって動けない。明日実の手は素早く、あたしの体じゅうをさわった。 「中身が入ってるの、パーカーのポケットだけかな。これ脱いだら、海に入れるやろ?」  あっという間にファスナーを下ろされて、パーカーをはぎ取られた。下はタンクトップだ。肩や二の腕が潮風に触れて、すーすーする。 「ちょっと、明日実!」  明日実はケラケラ笑って、あたしのパーカーをザッとたたむと、良一のバッグのそばに投げ出した。水中眼鏡と足ヒレをつかんで、防波堤の突端から海へ飛び込む。  あたしは左肩を押さえて、パーカーを羽織り直そうとした。でも、またしても後ろから腕を取られた。強い力で羽交い締めにされて、体の自由を封じられる。  ずぶ濡れの体。高い体温。頭上に降ってくる笑い声。良一だ。 「行こうよ、海。結羽は泳ぐの好きだろ」 「は……っ!」  放せ、と叫んだつもりなのに、声が出なかった。明日実のふわっと柔らかい体とは全然違う、硬くて弾力のある体の感触。細い腕は、だけど、骨がガッツリと太くて、まったく振りほどけそうにもない。  和弘がカメラを手にしたまま、こっちを向いてポカンと棒立ちになっている。  動けないあたしとは裏腹に、良一はハイテンションの余裕しゃくしゃくで、カメラに笑ってみせた。 「今から、素直じゃない結羽を、海へ強制連行しまーす!」  背中に笑いの振動が伝わってきた。全身がカッと熱くなる。次の瞬間、足が宙に浮いた。良一はあたしを羽交い締めにしたまま、日差しに熱せられたコンクリートを蹴って、海へと跳んだ。  空中にいる短い間に、羽交い締めがほどけて、ギュッと抱きしめられた。  海に落ちる。二人ぶんの体重で、ずぶずぶと沈む。  あたしはじたばた暴れて、良一を突き放した。良一の腕が、あっさり外れる。手のひらが追い掛けてきたけれど、払いのけた。海の中で動くのは、良一よりあたしのほうがはるかに得意だ。水を蹴って、良一から離れる。  息を吸う暇もなかったから、すぐに限界がきて、あたしは海面に顔を出した。  良一はあたしより先に、防波堤の近くに浮上していた。へらへら笑っている良一に、あたしは腹が立った。 「こ、この……バカ!」  舌がちゃんと回らない。なぜ自分が怒っているのか、情報処理をするスピードが間に合っていない。  防波堤の上から、和弘の声が降ってきた。 「おーい、結羽ちゃん、良ちゃん。装備なしじゃ泳げんやろ。水中眼鏡と足ヒレ落とすけん、頭上注意な。あと、カメラ、そろそろ止めるけん。良ちゃんのバッグに入れちょくぞ」  それから、予告どおり、あたしと良一、それぞれのすぐそばに、水中眼鏡と足ヒレが降ってきた。水中眼鏡が沈んでいかないうちに、さっと拾う。あたしのそばに飛ばされた足ヒレは、靴を履いたままいけるタイプだった。  最後に、あたしたちの頭上を跳び越えて、和弘が降ってきた。派手な水しぶきがあがる。ザバッと海面に顔を出した和弘は、足ヒレを付けようとして不安定な体勢の良一を、ころんと引っくり返した。 「わ、和弘、何するんだよ?」 「何するんだよは、おれが言うせりふ。さっきのあれはアウトやろ。良ちゃん、エロすぎ」 「いや、ちょっと待って、何で和弘が怒るんだよ」 「せからしか! 結羽ちゃんに謝れ、この!」  和弘は豪快に、良一に水をかけた。良一は、慌てたり笑ったり忙しい。バシャバシャやるうちに、和弘も笑い出している。  小学生時代と変わらない騒ぎ方の二人を、あたしはただ眺めていた。良一への怒りは、何が原因なのかがわからないまま、急速にしぼんで消えてしまった。良一と和弘が話題にしたのはあたしのことなのに、二人の声がひどく遠い。  波に隠れて、つぶやいてみる。 「あたし、やっぱ、狂ってんのかな」  一つだけハッキリわかるのは、明日実や良一に抱き付かれたときに息が止まるほど驚いた理由だ。  他人の体温というものの壊れやすそうな柔らかさに、ゾッとしてしまった。あたしなんかが触れたら、それだけでバラバラに壊れてしまうんじゃないかと感じて、怖くて、さっさと離れてほしくて。  少し沖まで出ていた明日実が、水中眼鏡を付けた顔で平泳ぎしてきた。 「サザエ、けっこうおるよ。和弘、網、持ってきちょる?」 「あいよ」  和弘は、どこからともなく、大きな巾着袋の形をした網を取り出して、明日実に渡した。明日実は、網をつかんだこぶしを突き上げた。 「これいっぱいになるまで泳ぐぞ!」  ようやく足ヒレを付けた良一が、目を丸くした。 「そんなにたくさんいる?」 「この潮の割に、けっこう表に出てきちょっよ。あ、良ちゃん、海藻」  明日実は、波間に漂う海藻をつかんで、良一に手渡した。受け取った良一は、海藻で水中眼鏡のレンズを拭く。こうしておくと、レンズが曇りにくい。海藻は、良一の手から和弘に渡って、和弘からあたしに回ってくる。  海に放り込まれてしまった以上、泳ぐしかない。海中にいれば日焼けもマシだ、と思うしかないか。  タンクトップの裾が短くて、ショーパンに入れられない。ひらひらしている。でもまあ、あたしたちのほかには誰もいないし、許容範囲ということにしておく。  あたしは体を折って、頭から海に突っ込んだ。両腕で、平泳ぎのストロークを一回。全身がしっかり波の下に入ったら、足ヒレを付けた脚で水を蹴る。ぐんっと体が海底に近付く。  両耳に軽い圧迫感があるけれど、大したことでもない。あたしは鼓膜が強いらしくて、水圧にやられて頭痛がすることもなく、平気で潜っていられる。  海の水は青くない。透明だ。  防波堤から見下ろすときの水の色は、海底の色をそのまま透かしている。ゆらゆらする波の下を、魚が泳ぐ。  水に潜って海底から見上げれば、波の天井に夏の光が広がっている。海の中は澄んでいて、少し暗い。  海底の岩に近付く。岩と岩の間に、いる。トゲトゲした形の、大きなサザエ。  あたしは手を伸ばして、サザエをつかんだ。サザエは吸盤でくっついているから、岩からはがすとき、ちょっとした抵抗感がある。  収穫したサザエを手に、あたしは海面を目指した。空気のある場所に出て、呼吸をする。首筋でトクトクと脈を打つ音が聞こえる。 「結羽ちゃん」  呼ばれて振り返ると、和弘がこっちに泳いでくるところだった。和弘は、手にした網を掲げてみせた。あたしは和弘に近付いて、網にサザエを入れる。和弘は網の口を閉めて、引き寄せたウキに、網から伸びた紐をくくり付けた。 「やっぱ、結羽ちゃんのほうが、ねえちゃんよりサザエ採りが上手やな。さっき、学校探検のときに良ちゃんも言いよったけど、結羽ちゃん、観察力がすごかもん」 「目がいいっていうのは、昔からよく言われる。単純な視力の話じゃなくてね。それに、泳ぎは、小さいころ、スイミングスクールに行ってたから」 「そうやった、習いよったって言いよったよな。ねえちゃんは基本的に泳ぎが下手やけん、どげんしようもなか」  和弘は、明日実が聞いたらぶん殴りそうなことを平然と言って、ニマッと笑った。  明日実は、防波堤からあまり離れないあたりで、せわしなく潜ったり上がったりしている。陸上のスポーツでは勝てないけれど、水中ではあたしのほうがずっと強い。獲物を入れる網の都合もあって、良一も明日実の近くでバシャバシャやっている。  小学生のころ、泳ぐときに一人にならないのは当然のこととして、ペアはずっと変わらなかった。あたしと和弘、良一と明日実だ。泳ぎのレベルで、自然とそんなふうに分かれた。  和弘は泳ぎがうまい。正確に言えば、潜ったり沈んだりするのがうまい。筋肉量が多いからだと、父が解説していたっけ。和弘は、海底に垂直に立ってみせるなんていう離れわざが、小学生のころからできていた。  あたしも沈んだままでサザエを探すことができるけれど、和弘みたいに海底に張り付くことはできない。どうしても、体が浮かんでいこうとする。だから、いつも、頭と胸を低くして、両脚は浮かぶままに任せて、逆さまに近い状態で海底をただよう。  しばらくの間、あたしたちは、サザエを採ることに没頭した。潜る、探す、浮上する。呼吸をして、潜る、探す、採る、浮上する。  音が鳴り続けているような、静寂に満たされているような海の中では、時間の流れも空間の広がりも、忘れてしまいそうになる。ずっと海の中で、呼吸もせずに生きていられるような、不思議な錯覚にとらわれる。  でも、だんだん苦しくなる。息苦しさを無視して動くと、手足がけだるくなってきて、仕方がないから、あたしは、光る海面へ向けて水を蹴る。  水から顔を出して、呼吸をする。波の音があたりに満ちている。耳を澄ますと、山のほうからセミの声が聞こえてくる。  それからまた、あたしは海に沈む。魚がチラチラと、頭上を、足下を、ときには目の前を、泳いで過ぎていく。  海底の岩の隙間に住む大きな魚も、ときどき見掛けた。モリを持ってきていれば、突いて仕留めることもできたはずなのに。あたしが突くわけじゃないけれど。  魚を突くのは、和弘の役目だった。モリを操るには、瞬発力も腕力も狙いの正確さも必要だ。それをあわせ持っているのは、あたしたちの中では和弘だけだった。何度まねしてみても、あたしにはできなかった。和弘がうらやましかった。  あたしと和弘は、お互いの姿が見える範囲で潜っている。海底の和弘が、ふと、あたしを手招きした。あたしはそっちに泳いでいく。  和弘は、そこ、と指を差した。岩と岩が重なり合った奥のほうに、かなり大きなサザエが見える。サザエのそばには、長いトゲを備えたオンガゼというウニがいて、ゆらゆらと、トゲを波に遊ばせている。  岩の隙間はけっこう狭い。和弘の筋肉の付いた腕は、きっと入らない。水中眼鏡の視界ではわかりにくいけれど、目を凝らすと、どうやら、毒を持つオンガゼのトゲはサザエよりも奥にあるようだ。  チャレンジしてみる、と、あたしは和弘にジェスチャーした。和弘がうなずく。  あたしは岩の隙間に右手を伸ばした。ギリギリだ。でも、どうにか入る。指先がサザエに触れた。もう少し奥まで腕を入れて、サザエをつかむ。手応えあり。中身の入った、生きたサザエだ。  岩の隙間から腕を引き抜こうとした、そのときだった。不意に、冷たい波のかたまりがあたしを包んだ。波が揺れる。あたしの体が、ふわりと持っていかれる。  あっ、と思った。  まだ岩の隙間にある右の手首が、岩に触れた。岩には、欠けて割れたカキの殻がくっついていた。ナイフのきっさきみたいに尖った殻の残骸が、音もなく、あたしの手首の皮膚を切り裂いた。  ぶわっ、と血の花が咲いた。  きれいだ。  あたしは見惚れた。痛みは、その後でやって来た。鈍い痛みだった。ずぅん、と腕の芯に低く響くような。  でも、痛みなんか気にならなかった。そこにある光景が、やっぱりきれいだったから。  指先でサザエをつかんだままの右手が、半透明な赤い帯を引いている。海底を時おり走り抜ける冷たい波のかたまりが、あたしの手首から流れる血を、ゆらゆらとさらっていく。  きれいだった。もっと見ていたいし、もっとたくさんの赤が流れていけば、もっときれいなはずだ。透明な海水越しに、あたしは光景を見つめていた。  突然、和弘に左腕を引っ張られた。そのまま海面へ連行される。海から顔を出した。空気がおいしい。 「結羽ちゃん、手! 血、めちゃくちゃ出たろ!」 「そこまで深い傷じゃないと思うよ」 「深かったよ! 岩で切ったろ? 海の傷は化膿しやすかけん、手当てしたほうがよか。上がろう」 「このくらい平気」 「傷、見せて」  あたしは和弘のほうに右手を差し出した。  海面から持ち上げた途端、急に潮がしみて、たった今刺されたかのように、傷が痛んだ。あたしは思わず、うめいた。手首の血管が脈を打つたびに、ずぅんと低く響く痛みが、燃えるように熱を帯びる。  和弘は、視界を狭める水中眼鏡を額にずらして、あたしの手首の傷に顔を寄せた。 「血、止まっちょらんたい。痛むやろ?」 「少し」 「やせ我慢すんな」 「別に」 「手首、すげー細か。あのさ、結羽ちゃん、イヤかもしれんけど……ごめん、ちょっと、しばらくこのまま、じっとしちょって。止血せんば」  和弘は、たらたらと血を流し続ける傷口の上を、きつくつかんだ。力が強い。血管を圧迫された右手は、みるみるうちに痺れていく。  ひんやりした海の中にいたのに、和弘の手は、何でこんなに体温が高いんだろう?  あたしは、水中眼鏡を額のほうに押し上げた。砕けた波のかけらが跳ねて、頬が濡れる。冷たくて気持ちがいい。  和弘の呼吸の音が聞こえる。和弘は、あたしの手首をつかんだ自分の手だけを、じっと見ている。  あたしは和弘を見ている。濡れた髪、日に焼けた肌、濃いまつげ、くっきりした二重まぶた、どんぐりまなこ、ガッシリした鼻、厚みのある唇。  ああ、と、小さく和弘がうめいた。 「無理や。今、めちゃくちゃ恥ずかしか。結羽ちゃん、平気?」 「何が?」 「いろいろ。動画のコメントのこととか、初恋っち告白してしまったこととか。それがあって、今、こげん距離で、何か……頭、おかしくなりそう」  あたしはため息をついた。 「手、放してよ」 「ごめん。変な気は起こさんけん、もうしばらく、このまま手当てさせて。血が止まってから放す」  和弘の手のひらの内側で、あたしの腕の血管がどくどくと音を立てているのがわかる。痛むか、と和弘に訊かれて、あたしはかぶりを振った。 「今はそんなに痛くない。だんだん感覚が鈍ってきた感じ」 「止血できたら、海から上がろう。自転車のカゴに応急処置の道具ば入れちょっけん、水浴びして、すぐ消毒せんば」 「もう上がるの?」 「サザエも十分、採ったやろ。網、ほとんどいっぱいになっちょったい」  和弘が指差す先では、波間にぷかぷか浮かぶウキに、サザエを入れた網がぶら下がっている。だいたい七分目まで、サザエ、詰めたんだっけな。そういえば、泳ぎ始めてから、どれくらいの時間がたったんだろう?  あたしは、急に気が付いた。 「疲れた」  当たり前やろ、と和弘は言った。ちょっと黙って、それから、全然違う話を切り出した。 「みんなやっぱ変わったなっち思ったよな。見た目の印象がいちばん変わったとは良ちゃんで、恋バナとか図太くなったとがねえちゃんで、目に見えん壁が厚くなったとが結羽ちゃんで、変わっちょらんつもりでも、おれも変わった」  あたしはうなずいた。見た目の印象は、良一もだけど、和弘もずいぶん変わった。たぶん、この年齢だと、男子のほうが見た目の変化が大きいんじゃないかな。 「ある意味、明日実がいちばん変わってない気がする。彼氏がいるっていうの、別に普通のことじゃない? そういう意味で小学生のころから変化がないほうが、たぶん、おかしいんだよ」 「じゃあ、おれ、頭おかしかっちゃな。結羽ちゃんが引っ越した後も、ずっと忘れちょらんけん」 「何で?」 「何でって」 「意味がわからない。さっさと忘れればいいのに」 「おれにも、意味わからん。結羽ちゃんが小近島に帰ってくることはあり得んとにさ。忘れたかったよ。でも、最初はメッセージのやり取りばしよったし、その後は動画のせいで、結羽ちゃんがまだ近くにおる気がして、忘れられんやった」  立ち泳ぎをしながらの会話に、あたしも和弘も、少し息が切れてくる。  和弘は、あたしの手首を波の上に出してきつく握ったまま、あたしを引っ張って泳ぎ出した。といっても、ほんの数メートルの距離を移動しただけだ。ウキにつかまって、一息入れる。  動画のせいで、か。あたしには、そんなつもり、まったくなかったのに。  あたしは、リアルでの顔見知りには、誰にも自分の動画のことを話していない。両親にも口止めした。にもかかわらず、良一も明日実も和弘も、あたしの動画のことを知っていた。  三人に動画のことを知られていると、割と早い時期から、あたしのほうでも気付いていた。 「よくコメントくれるアカウントのハンドルネームは覚えてるの。その中に、明日実がいるってわかった。いむさ、っていうハンドルネーム、明日実だよね? 和弘や良一にあたしの動画のことを教えたのも、明日実でしょ?」 「そうだよ。どうしてわかったと?」 「いむさって、アルファベットのASUMIを逆から読んだら、いむさになるから。あと、コメントの雰囲気が明日実と矛盾してないから」 「結羽ちゃんが最初に投稿した動画、有名なサイトでピックアップされて、視聴者が多かったやろ。ねえちゃんも、そのピックアップのときにたまたま聴いて、結羽ちゃんやっち気付いたと。それで、おれと良ちゃんにも教えてくれた」  あたしは少し驚いた。 「じゃあ、フォロワーになってたのって、最初から?」 「うん」 「もうちょっと遅い時期だと思ってた」 「最初のうちはコメントせんやったもんな。結羽ちゃんのフォロワーが増えていくとば見ながら、おれ、嬉しかった。でも、少しイヤな気分にもなった。知る人ぞ知る歌い手やったとに、だんだん知っちょっ人が増えてさ。おれの勝手な気持ちやけど」  その気持ちは、あたしが良一に対していだく気持ちと似ているんだろうか。あいつが遠くに行ってしまう。あいつばかりが羽ばたいている。あたしはまだ、ぬかるみの中から動けずに、歯噛みをしている。それが悔しくて。  和弘があたしの手首を離した。 「そろそろ、血、止まったやろ」  和弘の手のひらは、あたしの血で真っ赤に汚れていた。和弘はその手を、海の中に素早く隠した。 「海から上がるの?」 「上がろう。一緒にぞ。結羽ちゃん、傷口、できるだけ海に漬けんごとして。でも、海で切った傷は痕が残りやすかけん、その位置はさ、何ていうか」 「別に、気にしない」  致命傷にもならない傷が一つ、手首に増えるくらい、大した問題でもない。  和弘は、網をくっつけたウキをつかんで、防波堤のほうへ泳ぎ出した。チラッと振り返ったのは、あたしが付いてきているかを確認したんだろう。あたしも陸へ向かって泳ぎ出す。和弘がまた前を向く。 「結羽ちゃん、あのさ、ごめん。おれ、謝らんば」 「どうして?」 「海ん中で、結羽ちゃんの腹とか脚とか、すげー白くて、うわって思って、つい見てしまいよった。ごめん。自分でも、自分が気持ち悪かった。ほんと、ごめん」  あたしは、かすかに胸がざわめくのがわかった。ざわめきの正体はわからなかった。 「正直すぎるんじゃない? 普通、言わないでしょ、そんなこと」 「言わんよな。だいたい、おれ、こんな気持ち悪かやつじゃなかったよな。こういうとこが、自分で自分が変わったっち思うとこで、何か、ごめん」  謝り続ける和弘に、バカだな、と、あたしは思った。  変わらない人間なんて、いないんだ。好きじゃない方向に自分が変わっていくのを止められない人間は、たくさんいる。イヤな変化を遂げていることに自分で気付かない人間もたくさんいて、そういう連中より、自分の変化を嘆く人間のほうがマシだ。  蛇口をひねると、冷たい山水が緑色のホースから飛び出した。バス停の裏にある、誰でも使っていい水だ。全身の潮を洗い流す。  顔を伝い落ちる水から塩辛さが消えて、服がべたつく感じがなくなるまで、しっかり水を浴びた。その後は、タオルがないから、自然乾燥。  手首の傷も、ちゃんと洗った。和弘の手を借りて、消毒して包帯を巻いていたら、良一と明日実も海から上がってきた。二人とも、あたしの手首のずぶ濡れの包帯に、目を丸くする。 「結羽、ケガでもしたと?」 「ちょっとね」 「消毒した?」 「した。大きなケガじゃないよ」 「それならよかけど。あ、そうだ。髪とか肌とか、このまま乾燥させるだけやったら、荒れてしまうやろ? うちの手作りツバキ油、持ってきちょっけん、使って。うちの自転車のカゴの中にある」  それは助かる、と良一はニコニコした。せっかくだから、動画や写真にも撮りたいらしい。水を浴びながら、演出のアイディア出しに余念がない。  少し冷たい海の中で動き続けた体は、ほてっているような寒いような、変な状態だった。帰りの船の時間まで、まだあとしばらくある。あたしたちは防波堤の上で、全身に浴びた水を乾かすことにした。  バス停のそばには、島全体で五台しかない自販機の一つがある。それぞれに飲み物を買って、明日実のツバキ油を持って、防波堤の突端まで、のろのろと歩く。  あたしはようやく、そこにパーカーを置き去りにしていたことを思い出した。慌てて羽織る。黒いパーカーは、良一のバッグの陰に入り込んで日が当たらなかったらしく、さほど熱くなってはいなかった。  パーカーの布地越しに、包帯の手で、肩や二の腕に触れた。引っ掻き回して赤黒くこじれた傷痕が、不規則な模様みたいに残っている。もう痛むことはないけれど、ひどい具合の色をしているのは相変わらずだ。  きっと見られてしまった。こんな情けないもの、見られたくなかったのに。  和弘は、サザエの網をひもでくくって、海に吊るした。明日実にツバキ油を勧められても、「いらん」と言う。そんな様子を、良一は楽しそうにカメラで撮った。  それから、だらだらしながら、いろんな話をした。いや、正確に言えば、良一と明日実と和弘がそれぞれの生活のことを話すのを、あたしは黙って聞いていた。  良一は、学校と仕事の両立を絶対に目標に、仕事の量や種類を抑えているという話。仕事のために学校を休むことはしないと、今の家族と約束をした。卒業後は仕事一本にする予定だ。 「もし大学に行きたいと思うなら、何歳になってからでも行けると考えてて。幸い、仕事をまじめにやってれば、将来の学費もためられそうなんだ。だから、仕事のチャンスのある今は、進学は考えてない」  明日実は生徒会に入っているらしい。中学時代には生徒会長を務めていたそうだ。家の仕事も部活も生徒会も頑張って、彼氏もいるなんて、並大抵じゃないと思う。しかも、あたしや良一の動画もチェックしている。 「うちとしては、小学校のころからずっと同じペースで動きよるだけのつもりやけどね。真節小って、人数が少なかけん、一人何役もやらんばいけんやったやろ? あれがうちの当たり前のペースになっちょっと」  和弘は成績優秀らしい。高校では、どちらかといえば就職を志望する人が多いクラスにいるくせに、進学組を抑えてダントツにいい。国公立大学を狙えと、先生方から言われているそうだ。 「高校ば出たら仕事するつもりやったけど、勉強は嫌いじゃなかけん、進学も迷うよな。親は、好きにせれって言うし。でも、一回でも外の世界に出たら、おれはここに戻ってこられんっち思う。それはイヤだ。おれは家族の役に立ちたか」  明日実はニコニコしている。 「家の仕事は、うちが継ぐけん、和弘は外に出ればよかたい。せっかく頭よかっちゃけん」  和弘は顔をしかめた。 「ねえちゃんこそ、外に出れよ。スポーツ推薦で入れる大学、あるやろ? 学費も免除になるやつ。おれが普通に受験して普通の奨学金で大学に行くより、ねえちゃんが行くほうが絶対によか」 「うちはあんまり、大学生活とか、興味なか。都会で暮らそうっちも思わん。島の中でやれることが、今、たくさんあるたい。ツバキ油のスキンケアグッズ、自分の手で完成させたかし」 「才津先輩も島に残ると?」 「迷いよる。うちは、好いたごとすればって言いよっけど」 「その言葉さ、才津先輩的には、たぶん、きつかと思う。ねえちゃんは強かけん、わからんかもしれんけど」 「そう? うち、別に強くなかよ。フツーやん。夢とか目標とか、全部ちっちゃくて。結羽や良ちゃんのごた才能もなかし、和弘んごと勉強ば頑張ろうっち思わんやったし。和弘、中学のころ、ほんと頑張ったもんね。高校、よそに出たかったっちゃろ?」  和弘が言葉に詰まった。良一が代わりに答えた。 「本土の高校を目指してみればいいって、おれが言ったんだよ。電話で、和弘から相談受けたとき。和弘が中一のころだよな。中二の結羽と連絡つかなくなったころ。本土の高校に進学したら結羽を探しに行けるかなって、和弘が言ってさ」 「おい、良ちゃん」 「カッコいいって思ったんだよ。あのとき、和弘のこと。掛け値なしに、こいつ、男前だなって。だから、目指してみろよって言ったんだ。十分な力を付けておけば、行くか行かないか、自分で選べるだろ。チャンス、逃さずに済むんだ」 「でも結局、選べるぞって言われよる今、行くか行かんか迷いよったい。カッコ悪か」  和弘は吐き捨てて、コンクリートの上に仰向けになった。あたしは視界の隅で、それを見ていた。  四人全員、別々のほうを向いていた。それでいて、全員が視界の中に入るような、微妙な角度を保ったまま、それぞれの青い色を見ていた。あたしの視界の中心にあるのは、遠い海の深い青。傾きかけた夏の太陽が、波をまばゆく彩っている。  しばらくして、良一が、ため息交じりにつぶやいた。 「海に入って、疲れたな。眠い」  あたしと明日実と和弘が同時にうなずいて、その次の瞬間、四人で同時にあくびをした。
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