六.サマーブルーの出発

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六.サマーブルーの出発

 夕方の渡海船で岡浦に戻った。小近島の船着き場で別れるとき、明日実も和弘も、かなりあっさりしていた。というのも、二人は明日の昼、大近島から本土へ渡るフェリーの出航時刻には、港まであたしと良一を見送りに来るらしい。  サザエは、ほとんど全部、あたしたちがもらった。採った数がいちばん多いのは和弘だったのに。  里穂さんは晩ごはんの支度をあらかた終えていたけれど、サザエを見て喜んで、刺身やつぼ焼きや炊き込みご飯を作ると言った。 「時間がかかるけど、よかかな?」  あたしも良一も、まったくかまわないと答えた。夏井先生もまだ、岡浦小の職員室から帰ってきていないし。  日焼けした肌がほてっている。改めてシャワーを浴びたら、ぬるま湯を弱めに当てただけで、肩や首筋の皮膚がひりひりした。ざっくり切った右の手首は少し腫れていて、ボディソープが傷口にかなりしみた。  ひんやりする感触のボディローションを肌に塗って、髪を乾かす。あたしの次に良一がシャワーを使わせてもらうはずだったけど、良一は誰からか電話がかかってきて、ちょっとまじめな顔をして、外に出ていった。仕事の電話かな。  里穂さんの手伝い、したほうがいいよね。そう思い付いたものの、たたんだ布団を背もたれにして体を投げ出すと、ずぅん、と重たい疲労感にのしかかられた。やっぱり、今は動けない。  疲れている。ずっと日に当たっていたせいもある。泳いだせいもある。体が疲れているのはもちろんだけど、それ以上に、心が疲れた。鈍り切っているはずの感情が、ひどく忙しく動き回る一日だった。  目を閉じる。闇が渦を巻いている。地面がずぶずぶと柔らかくなっていくような、沈んでいるような浮かんでいるような、おかしな感覚。まるで、広い海の中で頭を低く脚を高くして泳ぐみたいに、上と下と右と左と前と後ろが、ぐるんと混ざって。  あ、落ちる。  と感じて、次の瞬間、あたしの意識は消えた。あたしは眠った。ずいぶん久しぶりに。  短くて深い眠りだった。夢は見なかったと思う。  眠りは、訪れたときと同じく、いきなり破られた。いきなり勘付いたんだ。至近距離に誰かの気配がある。呼吸のリズムが狂って、体がビクッと跳ねた。  あたしは目を開けた。すぐそこに良一がいた。薄暗い部屋の中で、ソファみたいな布団に体を預けるあたしを、良一は体をかがめて見下ろしている。  良一がハッと呑んだ息の、喉にかすれて起こるかすかな声。カーテンが開けっぱなしの窓から差す光を映して、良一の両目が鋭くキラッとした。良一の手は、あたしの肩のほうへ伸ばされようとしている。  あたしは反射的に良一の手を振り払った。ぱしん。硬いものを打つ感触と、手首の傷が引きつるピリッとした痛み。  良一が、打たれた手を引っ込めて、視線をさまよわせた。 「ご、ごめん」 「何見てんの? 何か用?」 「ごめん。あの、そ、そろそろ夕食だって。せっかく眠ったところ、起こしちゃって悪いけど。えっと」 「わかった。そこ、どいて」 「え、あ……ごめん」 「謝りすぎ」 「……ごめん」 「だから」 「結羽はクールすぎるよ」 「ほかにどんな反応があるわけ?」 「わからないけど」 「そこ、どいてってば」  良一は、立ち上がりながら、かぶりを振った。サラサラの髪が揺れた。 「どうしよう。苦しい」 「何が?」 「おれ、中学からずっと男子校だし、たいていの仕事の現場にも同世代の女の子はいない。女の子の前でどうすればいいか、全然わからない」  女の子、というふわふわしたくくり方をされて、噛み合わない何かを感じた。あたしは、「女の子」とは違う生き物だ。男でもないけれど、大人とも子どもとも分類できないけれど、少なくとも、「女の子」と名付けられたスイーツみたいな生き物ではない。  あたしは起き上がった。黙ってしまった良一の背中を追って、食卓の部屋へと移動する。配膳の手伝いをしようとしたら、里穂さんから、傷の手当てを先にするよう言われた。食卓のそばに救急箱が出してある。  傷口に薬を塗って、ガーゼを当てる。ガーゼをテープで止めても、汗のせいで、はがれてしまいそうだった。包帯を巻こうとして、うまくいかずに悪戦苦闘していたら、黙ったままの良一が手を貸してくれた。 「ありがと」  お礼を言うと、良一は目を見張って、うつむいた。口元が笑っているのが見えた。どうしてわざわざ笑顔を隠したんだろう?  ほどなくして、ジャージ姿の夏井先生が学校から帰ってきた。ちょうど食卓の準備も整った。晩ごはんの時間だ。  サザエが主役の食卓は、もし料理屋に食べに行ったら、すごく高価だと思う。でも、これは自分たちで、ほんの数時間のうちに採った獲物だ。  小近島の生活では、よくこうして海や山からおかずを調達した。潮の満ち引きの具合を見ながら魚を釣ったり、潜って貝類を採ったり、裏山で山芋やムカゴや栗、あるいはタケノコを採ったり。大近島のスーパーに買い物に行くより、ずっとお手軽だったから。  里穂さんは、サザエの半分以上を冷凍してくれていた。あたしと良一が半分ずつ、おみやげとして持って帰るぶんだ。里穂さんは、あたしと良一の顔を交互にのぞき込んで笑った。 「二人とも、焼けたね。顔、真っ赤になっちょったい。もともと白かったもんね」  良一は苦笑いした。 「さっき、マネージャーから軽く小言を食らいました。日焼けしたら、合わせる小物の色が変わったり、メイクが必要な現場では、使う化粧品の番号が変わったりするので」 「わかる! わたしも夏場は日焼けしてしまう生活やけん、夏と冬でファンデの色が違うっちゃもん。プロにとっては、おおごとやね」 「ですね。次回から気を付けます」 「同級生さんたちは元気にしちょった?」  里穂さんの問いに、あたしと良一は同時にうなずいた。  特別な一日だった。現在と過去と、時間が混ざり合うみたいだった。なつかしいと感じることがたくさんあって、胸の中がいっぱいに掻き乱されて、驚くことが同じくらいたくさんあって、胸がきつく締め付けられるみたいで。  頭で考えて文章で整理するんじゃ、追い付かない。ああ、こういうときのために音楽があるんだなって、あたしは思った。  今、ギターを鳴らせば、言葉じゃ表現し切れない感情が曲になってあふれ出るはずだ。そして、どうしても形を取りたいと叫んでやまない言葉だけ、詞という姿で、あたしの中に現れてくる。  弾きたい。歌いたい。あたしはきっと、この(うた)を得るために、この夏ここに来たんだ。早く夜が更けてほしい。早くあたしの時間が訪れてほしい。弾かなきゃ。歌わなきゃ。  なごやかな夕食の時間は、じりじりと、ゆっくり過ぎていく。  夜は早めに布団に入った。あたしは、疲れた体を横たえて、眠れないまま時が過ぎるのを待った。そして午前〇時を回るころ、そっと網戸を開けた。ギターを背負って家を抜け出す。  見上げれば、満天の星。虫の声、さざ波の音、潮の匂いがする夜風。  防波堤に行こうと歩き出したら、自分とは違う足音が聞こえた。振り返る。眼鏡を掛けた良一がいる。 「またついて来るの?」 「おれも外に出たくなっただけだよ。岡浦小に行かない?」 「何で?」 「学校が見たい。ちゃんと全部そろってる姿を見たいなって」  何それ、と反射的に言いながら、あたしにも良一の気持ちがわかった。生きて機能している小学校なら何でもいいから、元気な姿を目の前に示してほしい。あたしたちが過ごしたころの真節小の幻に、今だけ甘えさせてほしい。  岡浦小の校舎は、白い鉄筋コンクリートの二階建てだ。花壇がきれいに整えられていた。用務員さんが花好きなんだと、夏井先生が言っていた。里穂さんも土いじりが好きで、よく手伝っているらしい。  ちょっと明るくて座れる場所を探して、あたしと良一は体育館のほうへ歩いた。校庭に面した横扉のコンクリートの階段が、オレンジっぽい色味の外灯に照らされて、ぼうっと明るくなっている。  あたしと良一は階段に腰掛けた。別々の段の、少し離れた場所だ。夜風が通り過ぎても、体温や匂いを感じることがない距離。それでいて、外灯の頼りない明かりの中でも、お互いの表情がわかる距離。  ギターケースを横たえたそばに、石英が丁寧な列を作っていた。石英は水晶のカケラだ。校庭の砂に交じって落ちている。あたしが大近島の小学校で過ごした一年生のころ、校庭の石英を集めて並べるのが流行っていた。  校庭を見やれば、いちばん近くに鉄棒がある。その向こうに滑り台。それから、登り棒、雲梯、ブランコ、砂場。二百メートルトラックも、この暗さでも、うっすらと形が見分けられる。朝礼台や旗の掲揚台もある。あって当然のものが、ちゃんとある。  良一が言った。 「岡浦小って、子どもの数、何人くらいだっけ?」 「八十人切ってるはず。でも、ちゃんと六学年ある。バスケとソフトボールのチームもある」 「人、どんどん減ってるんだよな?」 「増える要素がないよ」 「だよね。昔は、岡浦と小近島は漁業の拠点で、かなりにぎわってたらしいけど。結羽、月夜間(つきよま)って言葉、知ってる?」 「満月のころのことでしょ」  夜におこなう漁では、強烈に明るいライトでイカや魚を呼び寄せるやり方がある。このやり方だと、満月のころは空が明るいから、ライトの効果が薄くなって漁の効率が悪い。だから、その時期には漁を休む。休みの期間のことを、月夜間と呼ぶ。  良一の低い声が静かに紡がれる。低いけれど、細くて柔らかい性質の声だ。だから、良一の声には威圧感がない。優しい印象の響きになる。 「小近島教会の慈愛院って、昔はもっと大きかったんだって。子どもの数も、シスターの数も多くて。なぜかっていうとね、親が漁師だと、普段は陸にいないから。親が船に乗ってる間、子どもは慈愛院で過ごす」 「聞いたことある」 「当時の慈愛院の子どもたちはみんな、漁が休みになる月夜間を楽しみにしてたんだって。そのころの名残で、慈愛院には漁師が使う太陰暦のカレンダーがあって、シスターたちは月の満ち欠けと潮の満ち引きを気に掛けてた」  島々の中には、今でも昔ながらの漁業を続ける集落がある。逆に、明日実や和弘の家が始めたクルマエビの養殖みたいな、今までなかった漁業にシフトする集落もある。  クジラ漁で栄えていた島は、それが禁じられてから、すっかりすたれてしまった。江戸時代には「クジラ一頭を揚げたら七つの浦が潤う」といわれるくらい、クジラ漁がもたらす利益は大きかったんだ。  この近海に浮かぶ島々は、海から急に山が生え立つような険しい地形ばかりだ。田んぼが作れる場所も、ごく限られている。漁業で生計を立てるしかない集落がほとんどで、昭和の中ごろまでは、それで産業が成り立っていた。  いつごろからか、イカや魚が売れなくなったり、価格が極端に下がったりした。動物保護という理由で、クジラを獲ってはいけなくなった。仕事が回らなくなった人々が、だんだんと島から離れ始めた。その流れは、時が経つとともに加速している。  良一が空を見上げた。 「岡浦小も、いつか閉校になるのかな?」 「十年後には複式学級だけになるだろうって、父が言ってた。閉校になるかどうかは、行政との兼ね合い」 「家でそんな話、するの?」 「しないけど、家にいたら、父が教育関係者と電話とかで話してるのが聞こえてくる」 「昔からそんなふう?」  あたしはうなずいた。真節小の閉校だって、地域の人が知るより早くから知っていた。知っているということを黙っておく術も、いつの間にか身に付けていた。  そっか、と良一が言う。 「だから結羽は冷静なんだな。昔から冷静だった。いろいろ知ってたせいなんだ。閉校式のときもそうだったけど、今日も泣いてなかったろ?」 「泣いてないよ」 「おれは泣いた。でも、この年齢だから、まだマシだったな。小六とか中学のころだったら、受け入れられなかった。真節小って、今の自分の人格を形作ってくれた場所だから、ほんとに恩を感じてて、大切で」  取り壊しの時期が今になったのは、当然ながら、良一の成長を待っていたからじゃない。予算だ。校舎の築年数が一定の基準を超えたら、取り壊しのために県か国から下りる補助金の額が大きくなるらしい。  良一が知らなくていい事情だ。本当は、あたしだって知る必要がない。  両親は気付いているんだろうか。あたしの耳が聞こえすぎること。あたしの目が見えすぎること。あたしの頭が覚えすぎること。あたしの勘が察しすぎること。全部のセンサーを働かせていたら、あたしがまともに生活できないこと。  あたしは幼いころから、自分で自分を守る方法を習得してきたんだと思う。  いい子だねと誉めてもらえる受け答えを身に付けて、心に踏み入られないよう鎧をまとう。土地に染まらない言葉を学んで、感性の出力を上げすぎないよう注意する。  人と出会ったら、その瞬間からカウントダウンを始める。その相手と、いつ別れるのか。最初から別れのときを予知していれば、必要以上の悲しみに翻弄されない。 「結羽」  良一があたしを見つめている。あたしは良一から目をそらす。 「何?」 「左肩の傷、自分でやったんだろ?」 「見たんだ?」 「そりゃ、見えるよ。泳ぐとき、パーカー脱いでたから。肩以外にも、自分で切ったみたいな痕があったよな。左肩のがいちばん目立ったけど」 「肩の傷だけ、しつこくいじる癖が付いてた時期があったの。それで、ばい菌が入って炎症を起こしたのか、傷口が膨れて、赤黒いのが引かなくなった。何でその位置だったかって、あんたの左肩にある噛み痕が印象に残ってたせいだと思う」  小学生のころ、体育の着替えのとき、和弘が良一に訊いた。良ちゃんの肩の赤かやつは何、って。  あのとき、良一はビクッとして、そしてすぐに笑顔に戻って和弘に答えた。 「生まれつきのアザだって言ったのに、結羽は、噛み痕って気付いてたんだ?」 「うちには、両親が勉強するための教育心理学の本があったから。小近島には本屋も図書館もないし、あたしは本に飢えてて、本だったら何でもいいって感じで、教育心理学の本も読んでた。肩や二の腕の噛み痕の事例も読んだことがあった」  専門書の解説部分は難しすぎて理解できなかった。でも、現役教師から寄せられた事例は、身近な体験談だからわかりやすくて、小学生のあたしでも読むことができた。 「本には何て書いてあった? 肩に噛み付く子はいじめに遭ってるって?」 「ストレスが原因で、無意識のうちに自分を傷付ける子どもがいる。腕に噛み付く子、指しゃぶりが直らない子、爪をボロボロにする子、自分の体に爪を立てる子。忍耐強い子ほど、自分を傷付けながらストレスを我慢してしまう。良一は典型的だと思った」  良一が首を左右に振った。 「恐れ入りました。小学生のころから、おれのこと、そういうふうに見抜いてたなんて」 「見抜きたかったわけじゃない。見たくないものまで見えるだけ」 「見える目も、覚えてられる頭も、おれからすれば、うらやましいけど。あのさ、結羽、これ見て」  良一は体勢を変えて、あたしに左半身を向けた。Tシャツの袖をまくる。白くて細い二の腕に、翼を生やした十字架の紋章があった。 「タトゥー?」 「うん、中学時代に彫った。おれの新しい兄がアメリカに留学してて、そっちに遊びに行ったとき、傷痕をわからなくする方法があるよって」  良一の十字架は、黄色から朱色にかけての、肌になじむ色味で描かれている。ちょっと驚いたけれど、タトゥーのデザインそれ自体からは、どぎつい印象を受けない。サイズも小さめだ。 「でも、中学生でタトゥーって。無茶するね」 「新しい両親は苦笑いだよ。だけど、二人とも海外生活の経験があってタトゥーをよく見てたから、傷を隠すためって説明したら、兄弟そろって怒られるなんてことはなかった。おれも肩を噛む癖がなくなったし」 「噛んでたんだ?」 「小近島を離れて、噛み癖が再発した。両親にも気付かれてたみたいで、心配かけてたらしいんだ。子どもっぽい噛み痕よりは、クリスチャンらしいタトゥーを彫ってあるほうが、ずっと見栄えがいいよね。撮影のときは写らないように、微妙に気を遣うけど」  良一は袖をもとに戻した。 「新しい家族とはうまくいってるんだね」 「今の家族とは、きっと一生の付き合いになるよ。小近島の慈愛院も恵まれた環境だったけど、家庭っていうのとは違ってたし。今の家族と出会って、最初は戸惑った。でも、やっぱりよかったなって思う。結羽のご両親みたいな、尊敬できる人たちだよ」  ズキン、と鋭い痛みが胸に走った。そんな気がした。 「あたしの両親は素晴らしい人間だよ。知ってる。なのに、あたしはこんな人間って、笑えるよね。あたしなんて、存在するだけで親に迷惑かけてる。親の名誉を傷付けてる」 「そんな言い方するなよ」 「するよ。あたしはお金を稼いでなくて、高校の学費を出してもらってるし、家に住ませてもらってる。厄介者のお荷物だよ。さっさと自立したい。親はそんな言い方しないけど、あたしはそんなふうに思ってしまってるの」  良一は口を開きかけた。でも、何も言わない。  あたしは膝を抱えた。ああ、ダメだなって感じた。スイッチが入ってしまった。しゃべってしまう。抑えておくべきはずの言葉、石にして固めておいたはずの言葉が、スイッチひとつで動き出して、勝手に口を突いて出ていってしまう。  もとに戻れ。黙っていろ。命じてみても、言葉は、落ち着こうとしない。あたしは語り出してしまった。 「中学は三年間、転校しなかった。楽しくない学校だった。友達と呼べる人もいなくて。でも、あたしはそういうのを寂しいとか感じるタイプでもないから、それはそれでよかったの。全部が壊れたのは、中二の冬。学校に呼び出された」  いじめの件で、お話があります。電話口でそう告げられた。  やっぱりこうなってしまったか、と、あたしは思った。電話を手にした母が青ざめるのを見ながら、あたしもたぶん、同じように真っ青だった。家の中で笑うことをしなくなったのは、この日からだ。  いじめが原因で転校していく子がいて、その子の両親が関係者を集めた。いじめた子とその両親、担任、校長、教頭、学年主任、教育委員会の担当者、警察。  あたしと両親も呼び出された。あたしの一言が、いじめの発端だったから。  いじめを受けた女子生徒とは、中二で同じクラスになった。出席番号順で決められた席で前後だった。彼女のほうから声を掛けてきた。よくしゃべる子で、いつも誰かと一緒にいたがるタイプだった。あたしはほどほどにあいづちを打つ役だった。 「クールな一匹狼キャラ、みたいな。中学時代のあたしの立ち位置、そんなふうだった。自分で言うのもどうかと思うけど、事実だから言うけど、勉強できるし一人でいられるし、あたしは特別視されてるとこがあった。発言力があるって見なされてた」  だから、もっと言葉に気を付けるべきだった。彼女を遠ざけるにしても、注意深い態度を取るべきだった。  彼女の距離感は、あたしとは違った。彼女は、一人でいられなくて、べったりと人に甘えて、かまってもらえないと不安になるらしくて、あたしの後をついて回った。急に抱き付いてきたりして、そういうのは、あたしは苦手だった。 「付きまとわれても困るって、ハッキリ言ってしまった。クラスの女子、みんな聞いてた。その子が泣き出して、誰もその子をかばったりしなくて、むしろ自業自得とか言う子もいて、まずいなって思ったけど授業が始まって、フォローできなくて」  授業が終わった次の休み時間から、彼女はあたしを避けるようになった。まあいっか、と思った。気楽だな、と。やっぱりあたしは薄情な人間だなと、自嘲的な気分にもなった。  異変に気付いたのは、次の週だった。 「その子がいじめに遭い始めてた。あの松本さんが見放したほどのクズっていう保証付きで。違うって言いたかった。あたし個人が彼女と合わないってだけで、いじめろなんて命令してない。あいつならいじめていいなんて許可、誰が出せるっていうの?」  あたしはいじめを止めたかった。  そもそも、いじめというものが理解できない。気に食わないというなら、相手を意識の内側に置いてしつこく悪意を持ち続ける必要なんかないと思う。悪意を持つって、すごくエネルギーを使うことだ。嫌いな人のために、なぜエネルギーを使えるの?  いじめを止めたかった。本当に、それだけだった。自分の発言がきっかけで始まってしまったいじめだから、なおさらだった。  それなのに、あたしはどうして、あんなおかしな言い方しかできなかったんだろう? 「目の前でいじめるの、やめてくれる? すごい不愉快」  だから、あたしの前でのいじめは消えた。陰でいろいろ起こっているのは、肌で感じられた。あたしの目からどうやっていじめを隠そうかって、それすらゲームみたいに楽しんでいる空気があった。  いじめを止めたかった。次の月曜には必ず担任に相談しようと決めた週から、彼女は学校に来なくなった。それが一学期の終わりごろ、七月上旬。  夏休みを挟んで、二学期。彼女はやっぱり学校に来なかった。そして、秋が深まるころ、学校からうちに呼び出しの電話がかかった。  彼女にとって、あたしはいじめの発端の憎むべき相手だった。仲良くしていたはずなのに、いきなり手のひらを返した最悪の敵だった。  ごめんなさいって、心から本当にそう思った。それ以上に強く、あたしは自分を憎んだ。あのときを境に、うちの家族の中にあったいろんなものがどんどん壊れていって、二年半以上、修復できていない。  あたしが言葉を切ると、良一が口を開いた。 「結羽は、誤解されただけじゃん。いじめの首謀者なんかじゃないし、加担もしてないし、傍観者でもない。むしろ、やめろって言って、いじめを止めようとしたんだろ?」 「いじめの定義って知ってる?」 「定義?」 「それをされてる側がつらいと感じたら、いじめなんだよ。いじめられた子が、あたしをいじめの発端だと言った。それで十分にあたしの罪は成立する。あたしは直接手を下してないけど、いじめのリーダー格みたいなものだと、その子もその子の親も思ってた」 「理不尽だよ」 「あたしの立場で理不尽とか言って、誰が信用してくれる? あたしには影響力があった。クラスのカーストのトップほどじゃないとしても、あたしはカーストの外にいて、特別だった。あたしは、自分で自分を理不尽なところに立たせたんだ」  ひどく痛々しそうな色をした良一の視線が、あたしの頬のあたりに刺さっている。あたしはまっすぐ前を向いて、じっと無表情を保った。 「でも、結羽のご両親は、結羽の言うこと、信用してくれただろ?」 「たぶんね」 「たぶんって」 「親として、娘であるあたしを信用してくれたとは思う。だけど、教育者として、あの席に呼び出されてどれだけ悲しかったか、あたしには想像もできない。いじめる側に立った子どもの保護者として、相手に頭を下げたんだよ。教育委員会の担当者がいる前で」  罰当たりで親不孝な自分を、あたしは呪った。  良一は大きな息をついた。自分の髪をくしゃくしゃに掻き回す。何かを言おうとして失敗する、みたいなのを何度も繰り返した。あー、と低くうめいて、それから、ため息交じりにようやく言った。 「だから、結羽は自分を傷付けたのか。眠らない、笑わないようになったのも、おれたちと連絡を取らなくなったのも、それが原因だったんだな」 「あたしなんかが人間らしくしてる価値もないって思ったら、体が壊れたの。ほんとは死にたかった」 「やめてくれよ」 「そのへんは警察に説得された。夜中に家出してギター弾いてたら、見回りの警察に見付かって、うちの中学のいじめ事件も知ってる人で。いろいろ話してるうちに、歌ってみろって言われて、警察署の中で真夜中のライヴ」 「マジで?」 「うん」 「すごいっていうか、熱い人がいるんだな」 「バカバカしい話だけど、大勢に拍手してもらった後で死ぬなとか言われて、何か納得しちゃった。夜、本当は出歩いちゃいけない時刻でも、どうしても家にいられないって言ったら、家からいちばん近い交番の隣の公園でなら弾いていいって許可も出た」  良一は、力の抜けた笑い方をした。 「警察の人たちにお礼を言いたいよ。結羽をつかまえてくれて、よかった」 「つかまえるって、人聞き悪い。別に補導されたわけじゃない」 「わかってるよ。そういう意味じゃなくて、現実につなぎ止めてくれたっていうか。結羽が違う世界に行かないでくれて、ほんとによかった」 「違う世界? あの世ってこと?」 「いや、社会とのつながりを保っていられないくらい、めちゃくちゃな世界っていうのがあるから。おれの最初の家族がそうだけど、穴の底みたいな感じだった。そこまで行っちゃうと、まともな社会の人からは、穴の底の人の姿が見えなくなる」 「あたしも行きかけたと思う」 「結羽は、そっちの世界に行くようには生まれついてないよ。動画を観てて、そう思った。どうにかして、あがこうとして、努力できるんだから。穴に落ちても、無抵抗で底まで沈んでいかない。這い上がれる」  良一の言いたいことは、わかるようでわからなかった。だって、あたしは、良一が思っているほど上等な人間じゃないんだ。 「あたしから見れば、良一こそ、違う世界の住人だよ。仕事やってて、自分の稼ぎがあって、将来の道筋もちゃんとしてて。うらやましい」  良一がスッと立ち上がった。動きにつられて見上げたら、良一はあたしの真横に座り直した。空気越しに体温が感じられるくらい、近い。  そっぽを向こうとしたら、邪魔された。良一の手があたしの頬を包んで、あたしの目を良一のほうへ向かせた。 「結羽も、おれのいる世界に来る? 自分のやりたいことを表現するってだけじゃないんだよ。実力主義の、競争ばっかりの世界だ。本音をぶつけ合って、ものを創る。それは欲望のぶつけ合いでもあって、ときどき、すごく汚い世界にもなる」  眼鏡越しの大きな目は、静かに燃えるように、夜の光を映してきらめいている。  試されているように感じた。視線をそらしたら、負けだ。あたしは、にらみつけるみたいに、両目に力を込めた。 「行く。競争ばっかりでも、絶対、負けない。歌いたい唄は尽きないの。もう歌うことに疲れたなんて思う日が来るとすれば、それは、生きることをやめるとき。あたしは、死なないって決めた以上は、あがき続けてやる。歌いたいから」  いい子のあたしには戻れない。新しい自分にたどり着きたい。  両親にたくさん迷惑をかけたぶんを、必ず挽回したい。両親が胸を張ってくれるような唄を、大きな場所で歌いたい。  良一はまぶしそうに目を細めた。笑ったのとは少し違った。 「やっと、結羽と目を合わせられた」 「無理やり自分のほう向かせといて、そういうこと言う?」 「強引なのは承知の上だよ。無理やりやらなきゃ結羽には通用しないんだって、この二日間で、よくわかったから」  良一が、空いた手で眼鏡を外してたたんで、つるをTシャツの襟に引っ掛けた。ゆっくりと、まばたきをする。伏せられた視線。呼吸の音。  うつむき加減の長いまつげを上げて、良一は、まっすぐにあたしを見た。 「結羽、今も、ドキドキしてない?」 「別に」 「心っていうか感性っていうか、ものを感じるための場所、わざと閉ざしてるよね? それ、開けてよ」 「やだ」 「どうして? おれが相手じゃダメ?」 「開けるのは、歌うためだけ。歌うときと、唄を作るとき。それ以外は閉じてないと、あたしは傷付きすぎるの。何でもない刺激で傷付く自分に、情けなくなる。いちいちそんなふうじゃ、やってられない。だから開けない」  良一の唇がかすかに動いて、息を吸って吐くのが聞こえた。  次の瞬間、何も見えなくなった。近すぎて焦点が合わない。  唇に、柔らかいものが触れている。  甘いような香ばしいような、不思議な匂いがする。良一の肌の匂いだ、と気付いた。  焦点が合った。あたしは良一の長いまつげを見つめている。良一は目を閉じている。鼻の頭がこすれ合っている。唇に触れる柔らかいものは、良一の唇だ。  キスしているんだという状況が、唐突に理解できた。心臓が跳ねた。息が止まった。驚きすぎた体が動いてくれない。頭が真っ白だ。ただ、全身に急速に広がる熱だけを、ハッキリと感じる。  時間の感覚が飛んでいた。何秒間のできごとだったのか、全然、数えられなかった。  良一の唇が、そっと離れた。かすれ声がつぶやく。 「ヤバ……苦しい。息、できなかった」  良一が手を引っ込めた。あたしの頬が置き去りにされる。夜風が肌に触れると、ほてっているのがよくわかった。  あたしはそっぽを向かなかった。向けなかった。見つめてくる良一の目に留め付けられて、そのまま動けない。  良一が一つ、肩で息をした。 「おれ、今までの人生でいちばんドキドキしてる。結羽にも、おれがドキドキしてること、さすがに伝わっただろ?」  早口のささやきに、うなずかざるを得ない。心臓って、こんなにドキドキするんだ。走ったわけでもないのに。  良一がかすかに眉をひそめて、切ない表情をした。息を吸って、口を開けて、唇が動きかけて、言葉が空振りするみたいに、息だけが吐き出される。  もう一度、良一は肩で息をした。そして言った。 「好きだ」  言葉がまっすぐ、あたしの心臓にぶつかった。  ダメだ。閉ざさなきゃ。感情が動きすぎる前に、鎧を着けて、顔を背けて、耳をふさいで、センサーを鈍らせなきゃ。  だけど、間に合わない。良一が言葉を紡ぐほうが、あたしよりも素早い。 「結羽のことが、好きです。小学生のころも好きだった。大事な初恋の思い出だった。再会して、また好きになった。高校生の、ほっとけない雰囲気の結羽を、今のおれの心で好きになった」  聞きたくない。理解が追い付かない。  好きって何だ。恋って何だ。どうしてキスしたの。あたしに何を告げたいの。  昔から感情を閉ざす方法を知っていた。無防備じゃない心は、きっと育ち方を間違ったんだと思う。あたしには、良一が言う「好き」がよくわからない。  再び、良一は、あたしのほうに手を伸ばしかけた。大きな手のひらの感触を思い出して、あたしは息を呑む。体がビクッと跳ねた。  良一は手を下ろした。 「ごめん」  傷付いた目をする良一を前にして、ようやく、あたしは呼吸の仕方を思い出した。声を出せるようになった。 「意味がわからない。こんなこと言って、何になるの?」 「言いたいから言った。面と向かって言うには今しかないと思ったから、眠らずにずっと、結羽がギターを持って外に出るのを待ってた。結羽は、遠距離恋愛って無理?」 「は?」 「いや、結羽は東京に出てくるよな。オーディションにパスして、音楽をやるために、上京してくるんだろ。そしたら、おれはもう結羽と離れずに済む」 「何言ってんの?」 「おれと付き合ってください。今は遠距離ってことになるけど、おれ、結羽しか見てないから」  良一の声が震えた。喉が狭まって細い声しか出せないときの震え方ではなかった。喉が勝手に暴れて叫んでしまいそうなのを、どうにか抑え込んでいるときの震え方だった。  あたしはかぶりを振った。 「誰かと付き合うつもりはない。あたしは歌うことにしか興味ないの」 「おれは、結羽の音楽活動を応援する。歌ってる結羽が好きだ。付き合うってことがピンとこなくても、今はそれでいい。正直、おれもよくわかってない。でも、おれが結羽を好きなのと同じくらい、結羽がおれを好きになるように、おれ、努力するから」 「努力って、何それ?」 「もっと活躍してみせる。小近島のためにも、自分自身のためにも、誰にも恥じない仕事をしてみせる。ほかの誰にもできない仕事、おれにしかできない表現活動を実現してみせる。だから、結羽、おれのカッコよさをちゃんと見て、認めてよ」  良一は賢い。あたしの胸に刺さる言葉を、きちんと理解して選んでいる。  胸の内側で何かが揺れかけた。あたしの音楽活動を、同じような立場から応援してくれる人は、身近にいない。孤独だと感じることがある。こういうときはどうすればいいのかって、悩みを吐き出せる場所がない。  いや、ダメだ。  必死の思いで、自分自身を支える柱を、まっすぐ建てようとしているんだ。ちょっと手を離したら、違う柱に寄り掛かることを覚えてしまったら、自分自身の柱はあっけなく倒れてしまう。あたしは一人で立てなくなってしまう。 「ねえ、結羽」 「あたしは自分のことしか見えない。ちょっと先の未来もわかんない。まずは、がむしゃらに走りたい。誰にも邪魔されたくない」 「邪魔なんかしない。誓うよ。おれは、結羽と一緒に走りたい。小近島の思い出を共有してるみたいに、将来の夢も共有したいんだ」 「あたしの夢は、あたしのものだ」 「でも、結羽が夢を叶えることで幸せを感じられる人は、たくさんいる。おれは、結羽のいちばん近くで、その幸せを感じたい」 「あたしは一人でいたい」 「結羽がどれだけ一人になりたがっても、おれは後に引かないよ。結羽は一人が好きなんじゃない。一人でいれば人を傷付けないって思って、人を傷付けるのを怖がってるだけだ」 「だったら何?」 「おれは、簡単に傷付くようなタマじゃないから、そばに置いてよ。何でもぶつけてくれていい。ほっとかれると、いじけるけどさ」  良一の手が、ゆっくりとあたしに近付いてきた。あたしは顔を背けた。良一の手が肩に触れる。今度はビクッとせずに済んだ。  でも、触れられたいわけじゃないから。 「離れてよ」 「イヤなら離れる」 「イヤだ」 「どうして?」  そんなの、一つひとつ言葉で簡単に説明できるなら、あたしは、壊れるほど悩んだりしなかった。理屈の通らないぐちゃぐちゃが、あたしを人から遠ざける。人が怖い。人が嫌い。人が憎い。  あたしの口が、とっさに動いた。 「近すぎ。ギター弾くのの邪魔だから、離れて」  言ってしまってから、ああ、そうだなと思った。あたしは今、ギターが弾きたい。暴れる感情を自分なりに理解するには、理屈であれこれ考えるより、音楽がいい。  あたしの言葉に、良一はキョトンとして、それから笑い出した。 「物理的に邪魔にならないようにすれば、近くにいていいってこと?」 「そんなふうには言ってない」 「そんなふうに聞こえた」 「言ってないって」  あたしはギターを取り出した。良一は離れていかない。ギターのチューニングをするあたしの顔を、すぐそばからのぞき込んでくる。 「結局、返事は保留?」 「何の返事?」 「おれと付き合って」 「しつこい」 「そりゃ、当然でしょ。はぐらかされて、あきらめられるわけがない」 「売り出し中のモデルのくせに、そういうの、まずいんじゃないの?」 「誰もが応援したくなる純愛ストーリーだと思うけど?」 「勝手に言ってろ」  良一の体温が邪魔だけど、仕方ない。あたしは弾き語りを始める。万人受けする純愛ソングなんか、絶対に作らない。あたしには、ほかに歌いたい唄がある。あたしにしか書けない唄がある。  今まであたしが見てきた風景、感じてきた潮風、聞いてきた潮騒、抱えてきた思い出も痛みも、立ち止まった経験さえも全部、あたしは唄にしたい。  昨日よりも今日、ハッキリと見えている。しっかりとつかんでいる。あたしがなぜ歌いたいのか。何を歌いたいのか。  真節小が最後に、思いっ切り、突き動かしてくれた。ここが限界だと、あたしが勝手に決めてしまったところを、ガツンとぶち破ってしまえばいいんだって。できないかもしれないって、立ち尽くして嘆くより、できなくてもいいから、走り出してみろって。  弾きたくて、歌いたくて、疲れ果てた体が悲鳴を上げているのを無視して、あたしはギターを掻きむしる。ちょっと笑っちゃうほど、運指はボロボロだ。  良一も、いつの間にかウトウトし始めていた。寄り掛かられて、びっくりして、あたしはギターを弾く手を止めた。 「ちょっと!」 「んー……」 「んーじゃない! 寝ぼけないでよ!」  邪魔だし、重いし、暑いし、ギターは弾けないし、コンクリートの階段の上だから危ないし。もう、今夜は仕方ない。あたしは良一を揺さぶって起こして、夏井先生の家へ帰ることにした。  帰り道を歩き出すと、ようやく良一は目が覚めたようだった。夜空を見上げて、歓声を上げた。 「すごいな。星が明るい。明日も晴れるよな。暑くなるんだろうな」 「たぶんね」 「フェリー、揺れなかったらいいね。結羽は船酔いしないほうだっけ?」 「あんまりしないけど、揺れるときは疲れるから、波がないほうがいい」  本土に戻ったら、すぐに本番だ。行きつけの楽器店主催のオーディション。だから、体調を崩したりなんかしたくない。  あたしは今年こそ、全国大会まで勝ち上がるんだ。  動画配信を続けていることと、その動画のクォリティも、評価に加算される。去年よりもギターが上達したってだけじゃなく、あたしはもっと広い意味で、シンガーソングライターとしての力を付けてきた。  負けない。自分にできる最高のパフォーマンスで、会場を沸かせたい。  唄は、誰かに届いて初めて、唄として産声を上げるんだと思う。あたしは、あたしの唄と共鳴する誰かに受け取ってもらうために、歌いたいと願っている。  オーディションのことを考えながら夜道に足を進めていたら、良一が眼鏡越しの視線をあたしに投げた。 「結羽、オーディションの全国大会、東京だろ? 日程はいつ?」 「聴きに来るの?」 「今なら、スケジュールの調整が利くはずだから。結羽が来る可能性が高いんだし、その時期は、ちゃんと空けとくよ」 「……九月の第二土曜」 「わかった。会えるの、楽しみにしとく」 「それはどうも」  良一は前を向いて、ひとり言みたいに付け加えた。 「デカいステージで歌う結羽を見たら、おれ、また結羽に惚れ直すんだろうな」 「バカ」 「うん、バカだと思う。ボロクソに言われっぱなしなのに、結羽と話すことが嬉しい。恋をすると、バカになるのかもしれないな。何か、すげー幸せだよ、今」  良一は、クスクス楽しそうに笑って、あたしの手を握った。あたしは握り返さなかった。振り払うこともしなかった。楽しいとも幸せだとも感じなかったけれど、怒りもいらだちも起こらなかった。  出立の日は、いつだって慌ただしい。  正午を少し過ぎたころ、港の待合所で、ノイズ混じりの館内放送が、フェリーの乗船改札の開始を告げた。  あたしと良一がベンチから立ち上がったちょうどそのとき、明日実と和弘が陸上部の練習着のまま、待合所に駆け込んできた。  明日実が肩で息をしながら、満面に笑みを咲かせた。 「間に合ったぁ! 部活が終わった瞬間に飛び出してきたと。最後に顔ば見られてよかった!」 「練習のとき以上に本気出して走ってきたっぞ。ほんと、間に合ってよかった」  ひとしきり「よかった」と言ってから、明日実と和弘は、あたしたちを車で送ってきてくれた里穂さんに、ペコリと頭を下げた。里穂さんがにこやかに応じる。  明日実は、あたしと良一の顔を順繰りに見つめた。 「来てくれて、ありがとうね。真節小の最後のときに一緒におられて、嬉しかったし、心強かった。本当にありがとう」  和弘がうなずく。 「一日しか一緒におられんやったけど、楽しかった。真節小の校舎ば探検したこと、一生忘れんよ。結羽ちゃん、良ちゃん、ありがとう」  良一はかぶりを振った。 「おれのほうこそ。呼んでくれて、ありがとう。会えてよかった。学校探検して、海で泳いで、おいしいもの食べて、みんなと話して、元気になれた。東京に戻っても、また頑張れるよ」  明日実の微笑んだ唇が震えた。無理やり微笑み直した両目の端から、ポロリと涙がこぼれ落ちる。 「あー、もう、ごめん! 昨日から、うち、泣きすぎやね」  和弘が明日実の頭をポンポンと撫でた。和弘の目も、今にも決壊しそうに潤んでいる。  同じ場面を見たことがある。卒業式があって、閉校式があって、あたしと良一が小近島を離れた、あの三月だ。明日実は、笑おうとしながら泣いていた。和弘は、明日実をなぐさめながら泣いていた。  あの三月、あたしは、幼い時間を形づくっていた世界のほとんどを、いっぺんに失った。小近島の家も、学校も、同級生も、もうあたしのそばには存在しない。自分という存在は、空っぽな世界に立つ一本きりの柱だった。  あたしと同じ気持ちを、きっと良一も味わった。明日実と和弘は、小近島を舞台とする世界から、大事な柱を何本も引き抜かれてしまった。  すごく、すごく心が痛くて、どれだけ泣いたって追い付かないけれど、仕方ないんだってこともわかっていた。あたしたちはそれぞれ、黙って耐えた。駄々をこねずにあきらめて、失ったものの大きさに背を向けるように、必死で前へ進もうとした。  四年経った。体は四年ぶん成長した。でも、無力感は変わらない。仕方ない状況も、あたしたちの力じゃ、くつがえせない。  さらに四年後だったら、どうだろう? あたしたちは、それぞれ選んで進む道の途中で、今よりは強い力を手に入れているんだろうか?  和弘があたしを見た。泣きそうな目をしているけれど、涙をこぼしてはいない。あたしに一歩、近付いて、がやがやした港の人出の中、ギリギリ聞こえるくらいの声で、和弘はあたしに告げた。 「結羽ちゃん、彼氏おらんとでしょ。たまに連絡してよ。おれ、連絡するけん、返信して。お願い」  あたしはとっさに、しょうもない返事をしてしまった。 「何で?」  和弘は律儀に答えた。 「だって、おれの気持ち、まだ全然、続いちょっけん」 「……何で?」 「昨日も言ったやろ。結羽ちゃんは小近島から離れていったけど、でも、遠くにおるようには思えんけん。会えんでも、つながっちょるよなって感じられる。忘れ切らんよ」 「でも、あたしは……」  明日実がいきなり、あたしに抱き付いてきた。ふわっとして、柔らかい。汗と制汗スプレーの匂いがする。  あたしの肩に顔を寄せた明日実は、ふぇーっと、情けない声でちょっと泣いた。ぐすぐすしながら顔を上げて、どうにか微笑む。 「応援しちょっけんね! 結羽の歌、小近島まで届けて! 結羽も良ちゃんも、地元の期待の星やけんね!」 「地元って? あたしには、地元とか、ないよ。あっちこっちの島に住んでたせいで、どこが出身地って言えない」  明日実は声を立てて笑った。 「それ、カッコよか! 結羽にとって、全部の島が地元やん。旅人やね。いつでもどこにでも、遊びにも行けるし、帰ることもできるってことやろ。結羽のことば地元の星って呼んで応援しちょっ人が、あっちの島にもこっちの島にもおるとでしょ」 「あ……」  つかえが取れたような気がした。  全部だったのか。旅人のあたしにとって、島々の全部がふるさとだったのか。  そんなふうに言い換えたところで、どの島にも溶け込めなかった事実は変わらない。どの島にも家がないことに違いはない。  でも、心の中で何かが変わった。何かが、ふっと軽くなった。古いかさぶたがはがれて落ちるように、ずっと胸にこびり付いていた悲しみが、不意に離れていった。  あたしはきっと、この島々のどこを旅しても、「いらっしゃい」じゃなくて「おかえり」と言ってもらえる。その場所にあたしの家が存在しなくても、そこに住んだ記憶は存在しているから。  旅人で、いいじゃないか。旅人だから、たくさん出会えたじゃないか。旅人である両親のおかげで、良一にも明日実にも和弘にも、夏井先生にも里穂さんにも、真節小にも、真節小の最後のときにも、出会うことができたんだ。  あたしは明日実をギュッと抱きしめた。 「頑張ってくる。期待、裏切らないように、頑張る」  明日実の体を離す。近い場所で笑い合った瞬間、両目がぶわっと熱くなって、熱が涙になって、目尻から流れ落ちた。  あたし、泣いてる。  鼻と喉がつながるあたりがゴツゴツして、息が苦しくなった。涙って、熱いんだ。こんなにも胸の中を掻き乱して、叫びたいくらいの感情を連れてくるものなんだ。  あたしは下を向いて、急いで涙を拭った。  待合所の館内放送が、乗船改札の案内を繰り返している。そろそろ行かないといけない。あたしはギターケースをベンチから拾い上げた。  明日実が良一にパンチを繰り出した。 「頑張らんばよ、良ちゃん! ボーっとしちょったら、和弘に負けるよ。中途半端な男には、あたしの結羽は渡さんけんね!」  えっ、と、良一と和弘が同時に目を見張った。あたしは明日実のほっぺたをつねった。 「勝手なこと言うな。バカが調子に乗る」 「きゃー、結羽、痛かよー!」  悲鳴を上げながら、明日実が笑う。  あたしたちがフェリーに乗り込んだら帰っていいと告げておいたのに、甲板から浮桟橋を見下ろすと、明日実も和弘も里穂さんも、まだそこにいた。  和弘が真っ先に、甲板に出たあたしと良一を見付けて、ジャンプしながら両手を振った。明日実と里穂さんも、すぐに気付いた。  明日実が大声を出した。 「結羽ーっ! 良ちゃーんっ! ぎばれーっ!」  ぎばれって、島の言葉だ。頑張れって意味。良一が潤んだ目をして、大きく手を振った。 「引っ越しのときと同じだな。ぎばれーって、見送ってもらった」  あたしは黙ったままうなずく。声を出したら、涙まで出そうだった。もろくなってちゃいけないのに、うまく感情がコントロールできない。  フェリーのエンジン音が大きくなった。船体がゆっくりと動き出す。  明日実と和弘が手を振っている。あたしは小さく右手を挙げて応えた。その手首には、昨日の傷を隠す包帯がある。  突然、良一があたしの包帯の手首をつかんで、強い力で引っ張り上げた。 「何するの」 「手、もっとちゃんと振らないと、見てもらえないだろ」  良一につかまった手が、あたしのじゃないリズムで、大きく左右に揺さぶられる。明日実が笑って、和弘が何か怒鳴った。里穂さんが見守ってくれている。  島が少しずつ遠ざかる。青く澄んだ湾に白い水尾を引いて、フェリーが一度、出航を告げる汽笛を鳴らす。  ここで過ごした日々は、悲しいことも、楽しいことも、嬉しいことも、やるせないことも、たくさんあった。いろいろあった。かけがえのないものばかりだった。  あたしは、ここから船出する。  捨てるわけじゃないし、忘れたりもしない。ここはあたしのふるさとだ。  あたしは旅人であり続ける。旅をしていくその先で、自分という誰かに出会いたい。  心の鎧はまだ着けておく。心の閉ざし方も覚えておく。あたしは弱い。身を守らなければ、打ち倒されて立てなくなる。  だけど、弱いままではいられない。ちゃんと笑おう。たまに泣こう。昔、島の潮風の中でやっていたことを、一つひとつ、もう一度やってみよう。 「あたし、ぎばるけん」  あたし、頑張るから。  本当はしゃべれる島の言葉を、口の中だけでつぶやく。  あたしは良一の手を振りほどいた。そして、自分の力で、自分のリズムで、遠ざかるふるさとの人々に向けて、大きく手を振った。
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