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春の虹 ~俺の部屋・俺の自由~
俺がまだ15歳の頃のことだ。
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足早に涙を堪え自分の部屋へ戻ってきた。
父上は今宵も激しく怒っておられた。
修行が足りぬと、勉学を怠るなと。
自分の部屋で独りになった途端、昼間稽古で痛めた肩がズキッと痛みだす。
疲れ果てた躰を壁に預けて、堪えきれない痛みを吐き出す。
「うっ……痛っ」
もうずっとだ!物心ついた時から朝から晩まで詰め込まれた、すべきことの山。武術の稽古も、学問もすべておろそかには出来ぬ。
父上は俺の行く末を案じているのだ。父が年老いてから授かった一人息子の俺には、すでに母はいない。俺に対して6歳から始まった厳しい修行は、父亡き後の俺を案じてのことだと何度諭されたことか。
父上のことは尊敬している。かけがえのない俺の唯一の家族だ。だが、たまに息苦しくなる。
俺は毎日毎日父上の言うままに生きているだけなのでは……では俺の自由はどこにあるのか。
込み上げてくる涙を堪えると、昼間竹刀で容赦なく打たれた肩の痛みが、 心臓の鼓動と呼応して増してきた。壁に手をついて、やっとの思いで立ち上がり、棚から薬を出し自分で塗る。もう慣れた治療だ。
こんな時は無性に会いたくなる。幼い頃に若くして亡くなった母上に。
俺の中にきちんとした母の記憶はない。朧げな記憶は優しく握ってくれた、触れてくれた温かい手の感触。俺はいつもの儀式のように母の形見として唯一残された手鏡を棚から取り出し、部屋に差し込む月光を辿り、鏡の中に月を映す。
鏡の中の月は、ぼんやりと乳白色で温かい光を放っている。
月は触れられそうで触れられない。
会いたいのに会えない母のような存在だ。
鏡に映る月だけが、俺を癒してくれる。
そっと鏡に触れ、映る月をなぞるように弧を何重にも描いていく。
そうしているうちに心が落ち着き、肩の痛みも和らいで行くんだ。
俺の部屋……この空間だけが、俺の自由。
いつかこんな俺を救いだしてくれる人が現れるのだろうか。
きっといつか出逢える。そう信じながら鏡を握りしめ、まだ幼い俺は眠りについた。
── 泣いて 笑って 想って誓った、少年時代の俺の部屋 ──
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そんな原風景を見つめながら生家の前で長い間佇んでいると、背後から優しく俺のことを呼ぶ声が聞こえた。
「ヨウ……」
この声は……愛しい君の声なのか。
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