辺境伯の訪問

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  ジャノルの元に、兄であるラノルが訪れたのは、昼の前だった。 「陛下はつがい殿の案内中だから、こっち来たんだ」 「兄上、つがい殿ではなくミリュア姫だ」 「あー、そうそう」  ぼあ、とあくびをしながら言う兄に、ジャノルはため息をこぼす。直す気はないらしい。 「いくら何でも、フェマルの王族だぞ」 「しかしお前、相変わらず陛下の前では大猫かぶりなんだねぇ」 「っ、は、話をすり替えないでくれ……」  ぼんっ、と音を立てそうなほどの勢いで顔を赤くしたジャノルが、うつむく。三角形の耳の内側が、うっすらと桃色に染まっていた。  ジャノルが親しいものとの間と、王の前での口調が違うことを知っているのは、非常に僅かな人間だけだ。具体的にはラノルを含めた兄弟と、シーア、それと常に控える侍従たちくらいである。 「陛下とは、もうずっとあの口調で……急に変えたりなんかしたら」 「どうかなぁ。これまでの王様じゃなくなっているようだし、変えてあげたら?」 「……これまでの陛下ではない?」 「つがいを得たでしょ」  ぱちり、と、左右で色の違う兄の目が、ジャノルをじっと見つめる。 「つがいってのは、生きる意味だ。生きる価値だ。王様はそう感じていなかったとしても、俺たちのもっと奥底、もっと深いところでは、そうは思っていない」 「本能、と、いうやつですか」 「子をなしたいと思うのと同義だ、そう考えておいた方がいいよ、ジャノル」 「子を、成したい……」  考え込むような表情をするジャノルに、ラノルがずいと顔を近づける。  びっくりして耳も尾も逆立てた弟に、ラノルは兄としてからからと笑った。 「もっと近づいてやるといい。それこそ、王妃ではなく、お前としてだ。つがいが生きる意味になるように、お前はあれがあれである意味になってやればいい」 「……陛下が、陛下である意味」 「選ぶのはお前だ。ただ、そこまで王妃になりきる必要も、これからは薄くなるだろうしな」 「……そうだな、ゆくゆくは」  ぽつりと呟くように言って、ジャノルは小さく笑った。  愛しく美しい、そして何よりも強い兄。オヴァール家の全てを継ぐために、自分に数多の枷をつけ、今なおあの麗しの故郷を守る兄。  その彼の尾は、ジャノルのものとは違い、二又に分かれている。  二又の尾は、猫族の中でも特別だ。普通の猫族の十倍は長く生き、そして、一角獣族と同じ年付きを生きていける証拠でもある。  ラノルが王宮内でも一目置かれ、辺境伯という地位以上の厚遇を受けるのは、この二又の尾に由来する。万が一の大病や暗殺などが無ければ、彼はケリャ王と同じだけの期間を生きられる。そこまでの長寿を有する者が王の近くにあることは滅多にない。  そして、それは、ジャノルにはないものだった。 「そうだ。いつかお前が、王を置いていく日が来る」  ジャノルの胸が、ぎくり、と固まった気がした。  猫族の寿命は、特別短いわけでも、特別に長いわけでもない。よくよく生きても百年がせいぜいだ。一角獣族は千年を越えて生きる。どんなに長く生きたとしても、いつかジャノルはケリャ王の外見とかけ離れた姿になり、そして兄のように、二又の尾が表れない限りは、看取られて逝ってしまう日が来ると知っている。  知っているが、口に出したことのない話だった。 (いつか、私が消えた先に……陛下の記憶に残るのは、王妃としての自分……)  それは嫌だと、ふと思ってしまった。  ラノルがその思いを見透かすように、ニコリと笑む。 「お前に後悔のない道を、俺は……ただ選んで欲しいと思うんだ」 「……分かった。陛下にも、その。こういう、話し方を、してみる」 「うん」  頷いたラノルが、急に話を変えた。 「つがい殿の方は心配しなくてよさそうだ。あれは良くも悪くも裏がない、あれそのままだ」 「だからミリュア姫だと。……それで、急にどうしたんだ」 「裏がないって言っただろ? 今のうち、お前も仲良くしておきな」  とん、と椅子から降りて、ラノルが振り返る。 「その先に、ミリュア姫というつがいが居るのなら、何時かお前を失ったとき、王の心は、本能は、まだ生きることを選択するだろう」 「生きること……」  ラノルは頷き、腰の剣を軽く叩いた。 「王が生きようと思うのなら、そこには政治がある。そこには思い出を懐かしむだけの時間が作れる。だが王が生きることを投げ出したなら、それを利用しようとする者もあらわれるだろう」  だからつがいと王が仲良くしておくことは、悪い話ではない。  そう言うラノルに、ジャノルは王妃として頷いた。 「……分かっているよ、ラノル兄さま」  在りし日。  まだ兄弟が故郷にそろって暮らしていたころの呼び方をしたジャノルの頭を、ラノルは少しだけ撫でて応えたのだった。
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