5人が本棚に入れています
本棚に追加
第一章 これからの家族
朝――、目が覚めてみると、まばゆい光の中に見知らぬ女の子の笑顔があって、ベッドで眠る俺を覗き込んでいた。
くりくりとした目、ちょこなんとした鼻、唇は熟した果実のように潤っている。
少女の髪が風に揺られて俺の鼻をくすぐった。
シャンプーの甘い匂いに誘われて、俺は唇を突き出した。
「そのくちびるホッチキスで閉じたろか!」
キスの代わりに、ヘアクリップが食いついてきた。
凶悪、凶暴、こんな少女に恋など芽生えるはずがない!
少女がヘアクリップを引っ張ると、俺の下唇がびろんと伸びた。
少女は下唇がどこまで伸びるか、記録に挑戦し始めた。
限界まで伸びた下唇が、ヘアクリップから外れてゴムのように弾け戻る。
少女はヘアクリップを褒め称えると、ティッシュにばっちく包み込んで、ポーチの中へ仕舞い込んだ。
下唇への労りはひとつもなかった。
「早く着て」
下着と高校の制服を投げつけられる。
夏は何も着衣せず、裸で眠るのが好きだった。
だから今も素っ裸。
これを意味深長に考えると、少女に確かめたいことがある。
「お前、見たな?」
「みてない!」
少女は即座に否定した。
しかし湯気を出して赤くなっている辺りが実に怪しい。
心理療法によれば、目玉がキョロキョロと右上に向いているのは、過去にあった出来事を思い出している表れだという。
少女の視線は正にその通り。
しかし少女が左利きだとするならば、逆に見慣れぬものをこんなのかしらと想像している事になる。
どちらにせよ、朝っぱらから勝手に部屋へ上がり込んで来た謎の美少女を、黙って帰す訳にはいかなかった。
「見たよな!」
「そんなキタナイものみてないもんっ」
「そんなに汚いのかっ」
「キタナイッ」
「汚いんだなっ!」
「キタナイッ」
「わーーっ!」
「ワーーッ!」
子供か――。
少女は部屋から逃げ出した。
ここで取り逃がしてはなるものかと、俺は早着替えのマジックのように制服姿へ変身し、少女を追って部屋を出た。
「待って! オレは玉置ユコト! キミの名前はなんだっけ? 寝ぼけてて思い出せなくてさ!」
ビニルの床がキュキュッとこすれて、車いすの少女が振り向いた――。
「わたし、エマ。あなたとは初対面!」
涙目で睨まれる。
脚が不自由なことに気がついて、途端に弱い者いじめをしてしまったような罪悪感に襲われた。
「ごめん。車いす、重いだろ。オレ押すよ」
「重くない。力がないだけ!」
エマはむくれた。
俺はエマに近づいて、車いすを押してみた。
エマの言った通り、車いすは人を乗せているとは思えないほど軽やかに滑り出す。
病院などで見かける布張りの貸し車いすではなく、ガッチリとした安定感のあるフレームに、長時間座っていても疲れにくそうな厚みのあるシートが備わっている。細くてスタイリッシュなタイヤには、衣服を巻き込まないように、樹皮でできたスポークカバーまでついていた。
仏頂面したエマの機嫌をどうやって直そうかと、そんなことを考えながら車いすを押していたら、いつの間にやら見知らぬ場所に俺は来ていた。
「実はオレ、昨日ここへ来たばかりでさ……」
非常扉の前でエマが項垂れる。
「迷子でしょ。だからユコトを迎えにきたのに!」
「すまん! オレが悪かったから、どこへ行けばいいのか教えてくれないかァ」
車いすの肘当てに、おでこをぶつけて謝ったら、エマが少し笑ってくれた。
けれどもすぐにツンとなって、しぶしぶ道案内をしてくれた。
最初のコメントを投稿しよう!