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ファイルNo.5
「私、失敗したことないので」
これが私の口癖であった。実際に、私は二十五年も生きていて、失敗したことは一度もなかったからだ。ただし、人並みに努力した時に限る。それ故に、自分を過信しすぎているわけでもなかった。
私は困ったこともなければ、不幸と感じたこともない。特に家柄が良いというわけでもないので、これは私の才能なのだと、私が生まれた時から決まっていた運命なのだと。そう感じた。
私は積極的に働き、会社に大きく貢献して、女性職員からの評価も上々、男性職員からは好意を寄せられるという最高の立ち位置にいる。もう、これ以上望むものもない。
飲み会へ行った帰り、たまたま歩いて帰ることにした。昼間の暑さを忘れるような涼しさが心地よい。ほろ酔い気分で、街灯を頼りに道の上を揺れていると、有名なお寺の前に差し掛かる。ふと、このお寺が気になり、私は足を止めた。
このお寺の神様は、努力せず、他力本願で夢を叶えようとしている大勢の人たちを甘やかし、幸せに導いて何が楽しいのだろうか。何の得があるのだろうか。自分が有名になりたいからだろうか。
理由はともあれ、このお寺はあまり良い印象がない。しかし、同僚がお寺のことを褒めまくっていたので、そこまですごいものなのかと、少しばかり興味もあった。
赤いペンキがほぼ剥げかけている鳥居の下を通り、ところどころ割れている石畳を歩く。道の両側に並ぶ灯篭を、私は小さい頃に見たことがあった。どこか懐かしい灯篭に目を奪われながらも、本堂へと着実に近づく。
不思議な空間に閉じ込められてしまったと思うほど、真っ暗な世界で足音が響いた。五十メートルも歩かないうちに本堂がはっきりと見えてくる。
「思った以上にボロいなぁ。こんなんで、よくもまぁ有名になったねー」
「やっと来たか。福地 存美(ふくち ありみ)」
「えっ……?」
聞き覚えのある声が私の名前を呼ぶと、目の前に光源と人影が出現する。酔いが覚め、鳥肌が立ち、昔の記憶が蘇る。
ランプのような光源に照らされ、薄っすらと声の主の顔が見えた。それは、紛れもなく××××であった。しかし、そんなはずはない。だって彼は、すでにこの世に存在しない人物なのだから。
声も形もあの頃と変わらない。ただ、違うところがあるとするのならば、雰囲気だろか。悪魔にでも取り憑かれたような不敵な笑みが、あの頃と違っている。もっと柔らかくて、優しそうな笑顔は跡形もなく消失していた。それは、死ぬ前――ちょうど、あの事件が起きた直後もこんな感じだった。
「十年前の約束、忘れたとは言わせねぇぞ」
「そ、それよりも! なんでここに」
「そんなことはどうでもいいだろ? ほら、おまえの大好きなお姉様を蘇生させるために、その体を、命を捧げるんだ!」
嫌だ。私は死にたくなんかない。お姉ちゃんも、もう死んだんだ。この事実は揺るがないし、生き返るはずがない。いや、もしかしたら生き返るかもしれない。だがしかし、私の命を捧げてしまったら、蘇生する意味がない。ここにいるのは危険だと感じた。
逃げよう。
死ぬのが怖くて何が悪い。大切な人の命よりも自分の命の方が大事で何が悪い。私はまだ、死にたくなんかない。
来た道を戻ろうと、振り返ってみると、鳥居が通せんぼしていた。美しい曲線を描く足が私の目の前までくると、鳥居が喋り出す。
『私も、自分の命が大切なの。だから、存美ちゃん、ごめんね……』
この声も、私は知っている。誰の声か思い出そうとした時、足を掴まれた。
『俺もな、自分が愛おしいんだ。だから、許してくれ……』
足元を見ると、いつのまにか手足の生えた賽銭箱が私の足首を掴んでいる。驚くことを忘れるほど、異様な光景に翻弄され、逃げるという言葉の意味を見失った。その手は岩のように重く、足が上がらなくなった。どんなに頑張っても持ち上げることはできない。それをいいことに××××がゆっくりと近づいてくる。
「最後にいいことを教えてやろう。おまえはな、俺のかけた呪いのせいで、失敗のない人生を送れていたんだよ。その分、人生を謳歌できただろ? 後悔なく死ねるな。よかったじゃねーか」
いいわけない。後悔も、やり残したこともたくさんある。こんなところで……。
××××は私に手のひらを向けてその手を引き、勢いをつけて胸を突いた。その躊躇いもない動作に、何かしらの抵抗することすら許されなかった。
手のひらは胸の奥へ押し込まれる。物理的にではなく、精神的に何かを掴まれる感覚がして、その何かは少しずつ剥がされるように遠ざかっていく。苦しいと感じた時、私は動けなくなっていることに気がついた。
なす術なく私の何かが取り除かれ、私は脱力感に襲われる。上手く力を入れることもできなくなっていて、立つのがやっとだった。××××が私の胸から手を抜くと、その手には光り輝く丸い物体が握られていた。
それが視界に入ると、なぜか胸が締め付けられているように痛む。そして、その場に倒れこんでしまった。もう、何から理解すれば良いのか分からない。むしろ、理解しない方が正しいのではないのだろうかとも思う。
「すごいなぁ。ここまで育っていたなんて。これなら余裕で蘇生できそうだ」
輝くそれをいろいろな角度から眺めながら独り言をつぶやく。でも、私は徐々に意識が薄れているので、入ってくる情報も次第に少なくなる。
「十年も地獄にいた甲斐があった。これでやっと、実乃利(みのり)と会える――」
お姉ちゃんの顔が脳裏に浮かんだ。優しく頭を撫でる手の温もり、髪の甘い香り、嫌なことを忘れさせる両腕、涙を拭ってくれる白い指……。お姉ちゃんとのたくさんの記憶が走馬灯となって、私の世界を埋め尽くす。
会いたい。でも、私たちはすれ違いになるのだろう。澄んだ瞳に見つめられるという、もともと叶うはずのなかった夢は蕾になる前に散り、体の機能が全て停止した。いや、停止したのではなく、体が生きることを諦めたのだ。心臓が止まり、脳への酸素供給が遮断され、視界が本当の黒へと染まった。
鐘が発芽しかけの種を丸呑みすると、種の輝きが鐘に移った。そして、鐘はゴーン――ゴーン――という音を立て、一人の少女を生き返らせた。その少女が目を覚ますと、××××は声をかける。
「やぁ、久しぶりだね、実乃利」
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