駆け引きとは。

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男子校3年を担任に持ち、受験の追い込み真っ只中、夏休みに入ろうとしていた。 「20歳の自分への手紙を書く」 僕は教壇に立ち黒板にそう大きく書いた。 「先生!あと2年だしすぐじゃん!」 1人の生徒が叫ぶ。 「そう、すぐだ。時の速さは怖いぞ〜。だが人生のその中でもこの2年は特別なものがある。今もだがな」 ペンを握ったまま動かない生徒、頭を抱えて突っ伏す生徒、殴り書きの様に書くと即寝に入る生徒。 それぞれ一人一人の机をゆっくりと歩いた。 この子達はどんな大人になるんだろう。 「先生」 その時1人の生徒が前を過ぎる時に声をかけてきた。彼は普段通り眼鏡と前髪で表情が読めない。 そしてその彼が自発的に話しかけてくるのは珍しい。 「どうした?」 「…20歳の時の先生ってどんなでしたか?」 「そうだな〜、とにかくがむしゃらだったな」 大学を卒業し同級の子とすぐ結婚し、そして教師の職につき10年、いろんな事が頭を過ぎる。 何人もの生徒を送り出してきた。 そして… 「そうですか…あの…20歳の先生にも手紙書いてもいいですか?」 「ほう……ぜひお願いするよ。」 おもしろい、と笑顔で頷いた。 「でも、絶対に読まないでください」 「それは残念だなぁ」 「絶対ですよ。夏休みに教壇の中に入れとくんで。」 夏休みが始まり、職員室で全生徒の提出が完了した手紙を1枚1枚確認しながらタイムカプセルとして埋める予定の箱におさめた。 彼の手紙は 「20歳の僕へ。まだ好きでいますか? まだ早く生まれていたらと考えていたりしていますか?」 恋煩いか、見た目によらずなかなかやるな。 ふふっと思わず口もとを緩ませて手紙を畳む。 そういや、私にも手紙を書いたと言っていたな… 赤点該当者の補習がある日、始まる少し前の無人の教室に入ると教卓の中を覗き込んだ。 おっ!と奥の隅に小さい封筒があり手に取る。 読むなと言われたが… 少し躊躇しながらも好奇心には勝てなかった。 元に戻せば見た事が分かるはずはない。 『20歳の先生へ。 その人と結婚しないでください。 お願いです。 10年だけ待ってください。 そしたら僕が ガタン!! 反射的にバッと背後に手紙を隠した。 「見ないでって言ったじゃないですか」 初めて聞くような低い声が教室に響いた。 顔を上げると彼が教室の扉に寄りかかり、腕を組み立っていた。 なんで… 「…お前…いつから…」 最悪のタイミングだ。 しかし、いつもと雰囲気が違う。 まるで別人のようだ。 「先生なのに生徒との約束をやぶるんですか」 彼はゆっくりこちらに歩くと小さくため息をついた。眼鏡をはずし静かに自分の机に置くと顔を上げた。 僕は思わず一歩下がる。 「ねぇ、先生。20歳になった僕も、まだ好きでいていいですか?」 その言葉に声を詰まらせた。 始まったばかりの夏休み。 彼は成績優秀で補習などに縁がないはずだった。 でも知っている。 彼はこの前のテストを白紙で出していた。 まさか僕がこれを見ると分かっていたのか? 「先生、どう思いますか?」 真っ黒の前髪の隙間から見えたその瞳はまっすぐと自分を見据えていて動けなかった。 汗が喉元を伝い襟の中を流れて行く。 教壇の影で僕はもう一度手紙を開いた。 最後まで読むためだ。 『そしたら僕が先生の欲望を満たしてあげます。 死にたくなるほどの愛をあげます。』 「知ってますよ。 先生が奥さんじゃ満足してないってこと。 早く別れた方がいいです。」 「何を…言ってるんだ?手紙は読んで悪かった。 とにかく、席について待っていなさい。」 体の震えを誤魔化すように強く言い放った。 しかし、顔を上げられない。 なぜなら、本当の事だから。 「はい。先生」 ゾクッ… すれ違いざま、彼は少し頭を下げ耳元で囁くように言った。 僕は職員室の前で立ち尽くした。 そして、なぜか全身が喜ぶのが分かった。 自分の生徒に求められる喜び。 それも歪んだ執着的な…。 だが僕もそこまで軽率でも馬鹿でもない。 妻との事をどこまで知っているか分からないが、それは問題ではない。 補習の開始時間を10分ほど遅れて教室に戻った。 「先生、遅刻ー!」 数人の生徒がそこにはいたが、僕は彼しか見えていなかった。 プリントをトントンと整え教壇に置いた。 彼と視線が絡まる。 強く強く解けない。 どうする? どうでる? 「始めるぞ」 さぁ、むせ返るほど息苦しい暑い暑い夏が始まる。 「覚悟しろよ」
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