①ー1

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①ー1

「そしてもうすぐすると、オリオンがいる」  ブロック塀の角を曲がりながら、俺は一緒に歩いていた凪(なぎ)に向かってそう言った。  そして角を曲がり終える。目線を下にやるとそこには、でっぷりと太った薄茶色の猫が歩いていた。オリオン、と名付けられた、十二歳を超えているらしいそのデブ老猫はこちらを一瞥すると、俺たちを馬鹿にしているかのように大きな欠伸を一つした。 「ほらな」  俺が肩をすくめてみせると、凪の浅黒く日焼けした顔が、不思議そうな表情になる。そして彼女は口を開いた。 「何よ。オリオンがいるのなんて、いつものことじゃん」  そう言って凪はカバンからタッパーを取り出し、中に入れていた魚の干物を一切れ、オリオンに向かって投げた。 「お前、餌付けばっかりすんなよな」 「大丈夫。何も毎日毎日あげてるわけじゃないんだから。漣(れん)も知ってるでしょ?」 「いや、そりゃ知ってはいるけど」 「で、漣は何がそんなに嫌なの?」 「だから俺はさ、こういう『いつも』の繰り返しが嫌だって言ってんだよ」  7月の日差しが、俺たちに対して強く降り注いでいた。 「嫌って、何で?」 「この島にいるから、だよ」  凪はさらにきょとんとした顔になる。 「私は、この島のこと好きよ」  俺や凪が生まれた時から住んでいるこの島は、名を嘉(か)東島(としま)と言う。日本海に浮かぶ小さな島で、人口は二千人ほどだ。島にはコンビニもなく、唯一存在するスーパーも午後八時には閉店してしまう。学校も、小学校と中学校がそれぞれ一つずつ存在するのみだ。  そして俺と凪は、その中学校に通う三年生で、保育園からの幼馴染だ。もっとも、島の子供たちはほとんどが幼馴染なのだが。 「こんな島の、どこが好きなんだよ」  俺は暑さのせいもあって、少しイライラしながら凪に尋ねる。 「いいじゃん、海は綺麗だし、オリオンもいるし、アンタレスも、スピカも、アンドロメダだって」 「ほとんど猫ばっかりじゃねぇか」  凪が列挙したのは、彼女が星や星座にちなんで名付けた、猫の名前だった。もっとも、オリオンだけは凪でない他の誰かが名付けたらしいが、彼女はそれについてあまり詳しく教えてくれなかった。  とても小さいこの島だが、一つだけ、他の島にはない特色があった。それが島に生息する猫たちだ。嘉東島は通称「猫島」とも呼ばれるほど、猫の生息数が多い。その数は確認できているだけでも百五十を超えるそうだ。実際、その猫たちを目当てに島を訪れる観光客も少なくない。ただし、観光客用の船が運航されるのは週に二日のみだが。  だから俺たち島民は猫がそばにいる暮らしが当たり前になっているのだが、そんな中でも凪は特に猫たちと仲が良かった。五十匹以上に名前を付けており、そのすべてを見分けることができている。俺も凪の影響で何匹かの名前を覚えさせられたほどだ。 「でも、猫よりも大切なものが、この島にはあるよ」  凪が言うので、俺は彼女の方を向く。 「何だよ、それ?」 「この島には、漣がいるから好き」  そう俺の名前を挙げて、凪はにこりと笑う。よくそんな恥ずかしいことが言えたものだ、と思いながらも、俺は自分の顔が赤くなっていないかを気にしていた。 「へ、へえ。でもさ、やっぱり同じことの繰り返しの日々なんてつまらないだろ?」 「全然いいよ。平和だし」 「そりゃ、平和は平和だけど……」 「むしろ私は、今がずっと続かないかな、って思ってるよ」  凪の横顔を覗き見る。その表情は、はっとするほど美しくて、それと同時にひどく残酷なものにも感じられた。俺は思わず唾を飲む。しかし次の瞬間には、彼女はまたいつものアホそうな表情に戻っていた。 「なーんてね」  目を細め、彼女は笑う。浅黒い肌に、白い歯がよく目立った。 「お前ときどき、とんでもないこと口にするよな……」  住宅の間の路地を、二人でそのまま歩いていく。 「私は天才だからね」 「ただのアホじゃねぇか」  凪はお世辞にも成績が良いとは言えなかった。それに対して俺はかなり勉強ができる方だ。だからおそらく、高校からは俺と凪の進路は別々になってしまうだろう。まったく悲しくないと言えば嘘になるが、俺は心の中で、ほとんどその事実を受け入れてしまっていた。 「じゃ、私はここで」  路地を抜けて、海に面した広めの道路に出た。 「最近はそれも、いつもの繰り返しだ」と俺は返事をする。 「いいの。私は好きでやってるんだから。じゃ、また明日ね」  凪は俺に向かって手を振ると、そのまま道路の端を駆けて去っていった。
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